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CubとSRと

ただの日記

駅前演説

2020年04月30日 | 重箱の隅
2011.09/27 (Tue)

 日本では相手のことを思い遣るがゆえに、「足元を見る」ということをあまり勧めません。
 けれども、同時にそれは我が身を省みる際に甘さが出てしまうことにもなると書きました。
 しかし、また日本には「脚下照顧」という言葉もあって、やっぱり、しっかり地に足着けて生きる(何かに取り組む)こともちゃんと考えているのだ、とも書きました。

 対して欧米の人々は「足元を見る」ことによって様々な情報を手に入れ、それで以ってつき合いをするのだから、「足元を見る」ことは常識的に捉えられているということも。
 初対面の時に御辞儀をするか、敵意がないことを示すために握手をするか、も似たようなこと。

 何だか最初からややこしい言い回しをしていますが、早い話、「足元を見る」という言葉一つ採ってみても、見方によって捉えるものは違って来る、ということを言いたいんでした。

 「足元を見る」とはただの一動作でしかないのですが、否定的に捉える日本の文化に対し、欧米では情報を得るために肯定的に捉える。

 また泥沼にはまりそうです。
 何故こんなことをくどくどと書いているかと言うと、まだ、あの「モンクストラップ」が引っ掛かっているからです。
 ローマ法王がモンクストラップの靴を履いていた。あ、やっぱり。修道僧はモンクストラップの靴を履くんだ。そうかそうか、モンクストラップの靴は修道僧の靴から、というのは本当だったんだ。
 足元を見れば色々なことが分かるんだ。そういう風にして成立する文化もあるんだな。

 一点を集中して見る。その時、全体を見ることはできないけれど、全体を念頭に置く努力をしながら、一点を集中して見る。
 そんなの根本的に無理なんです。焦点を二つ持つことになるんですから。
 でも、努力する。「治に居て乱を忘れず」に近いかもしれません。
 なかなか難しいことで、そう簡単にはできません。
 でも、そうやって、一点を集中して見ているうちに、その一点の微細なところまで見えて来るようになる。
 その結果、焦点を他のところに移しても、「ピント」が合うようになるまでの時間が短くなって来る。一点集中によって高められた「集中力」という能力(能くする力)のおかげです。

 全体を念頭に置く努力を続けていれば、この一点集中と全体像を思い出すことを交互にやることはさほど難しいことではなくなり、修練の結果、これは瞬時にできるようになる。観見の目付(めつけ)が同時にできるようになる。

 そう考えると、やはり、現総理の言動は信ずるに足るものではないという事が明らかになってきます。
 性格が悪いとは思っていません。実直な人だ、とは思います。ただ、すっかりひねくれてしまったのではないか。柄に合わない修正主義を受け入れようとして、苦悩し続けているのではないか。そう思います。

 松下政経塾へ行ったのが悪かったのだ、とは言いません。
 民主党に入ったのが悪かったのだ、とも言いません。
 総理大臣になるべきではなかったのだ、とも言いません。
 勿論、それらが正しい選択だった、と肯定しているのではありません。

 松下政経塾へ行ったのは、ここで勉強するのだ、という青雲の志に衝き動かされてのことと思います。
 地盤・看板・鞄のない者が自民党から推薦される訳もない。民主党の自由さがあってこそ、財務大臣まで行けたのでしょう。
 総理大臣だってそうです。あの、選挙互助政党と揶揄される、党の綱領をつくることすらできない寄せ集めの、バラバラの主義主張をする者の中にあって、それを纏め上げるのは「ヒーロー」ではない。
 「潤沢な資金をばら撒く」者か、
 「力づくで当選させ、恩を売る」者か、はたまた
 「何もしない、言わない、で党員を野放しにする」者か。

 いずれも、あるべき姿ではない。特に最後の「総理主導」のリーダーは、党を限りなくぼろぼろにし、分解寸前にまで追いやった。
 それを何とかまとめ上げるのは、「求心力」ではなく、「なだめる力」でしょう。
 「調整型」というのは、そこから希求された人間であり、それは野田総理しかいなかった。

 でも、小渕総理とは違う、ということを書きました。
 もう一度、そこを書いて置きます。
 
 相田みつをの、あの詩文です。
 「どじょうが金魚のマネしてもしょうがねえじゃん」
 、は野田総理の言。
 これを、「ああ、あれか」と聞いた人、知ってる人は思い浮かべる。
 けれど、相田みつをの詩文は、こうでした。
 「どじょうが金魚のマネすることねんだよなあ」
 よく見ると全く違うニュアンスです。けれども少なくとも輿石幹事長は喜ぶ。幹事長の心、わしづかみ。駅前演説の成果(?)です。
 この微妙なズレを、野田総理は「摺り合わせの技術」として自分のものにしている。

 もう一つの例が、あの「正心誠意」です。
 「正心誠意」は勝海舟の言葉、と新聞は書き立てましたが、これ、四書五経の中の四書「大学」にある「格物 致知 誠意 正心 修身 斉家 治国 平天下」の項目からの言葉なんだそうです。
 海舟の言葉ではない。
 けれど、海舟は独特の意味を込めて用いている。海舟の生き方と重ねてみれば、やっぱり「正心(ひたむきな心)を以って意(おもい)を貫く」となる。
 しかし野田総理は「意を誠にし、心を正す」と読んだ。「大学」のままの読みです。所信表明演説で出てくるには唐突過ぎる。
 海舟を意識しながら、原典のままの読みをした。これでは、正心誠意を持ってきた意味が分からない。
 ここでも意味をずらしている。

 両方とも意図的ではない、と思います。却って意図的であって欲しいくらいです。しかし、これ、本心からでしょう。

 幹事長の歓心を買うために相田みつをの詩文を採り上げ、「氷川清話」中の海舟の「正心誠意」を、「正」の字の意味を見詰めることなく、おそらくは政経塾に居た頃に「意を誠にし、心を正す」と捉えたままで所信表明に遣った。
 だから、「何で今、あんたが?」となってしまった。「それで、何で、四日間なのか」、と。

 やっとおしまいです。
 「物事をしっかりと見詰める」ためなのか。
 それとも
 「(一瞬で)相手の心をつかむ」ためなのか。
 駅前演説で、野田総理はどちらを手に入れたのか。


 「足元を見る」とはこういうことではないでしょうか。
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