v URL, 過去の記事では幾度か出し
http://www.venus.dti.ne.jp/~bouzu893/iitai/it21_40/iitai31.html
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お経について
最低山極悪寺 珍宝院釈法伝
お経というのは、必ずしもお釈迦様の言葉を記録したものではない。比較的ポピュラーな般若心経も法華経も、仏説と書かれてはいるが、お釈迦様の言葉を丸写ししたものではない。わが浄土真宗では、仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経を根本の教典にしている。しかし、これとて、お釈迦様が死んでから数百年を経過して成立したものらしい。中には、中国で創作された「仏説何とか経」もあるという。
その中で、阿含(あごん=アーガマ)と呼ばれるお経の一群は、お釈迦様の言葉を割合忠実に伝えていると言われている。こういう歴史的事実を拠り処にして一宗を起こした者もいるが、実は、この阿含とて、後代にかなり加筆されている。もっとも、この御教祖様は、学歴詐称が趣味という不思議な人だから、そういう細かいことは、お気になされぬらしい。もっぱら、怪しげなご祈祷に励んでおられる。
話を戻そう。お経の成立年代が明らかになってきたのは、明治以降のことである。ご存じの通り、近代化と共に、歴史学、文献学、書誌学などの西欧の学問が、日本へも輸入され、こういう学問を通じて、新しい形の仏教研究が進んだ。また、鎖国が解かれて、外国の情報も入手しやすくなった。もちろん、インド・ネパールなどへの現地調査も可能になった。イギリスをはじめとする諸外国のインド史研究によって、インドの歴史も明らかにされていった。かくして、お経の成立年代も明らかになってきたのである。
さて、こうなると困った問題が出てくる。つまり、我々が歴史の教科書で習った有名な坊主、例えば、平安仏教の雄、最澄、空海。鎌倉仏教の法然、親鸞、日蓮、道元、栄西。彼らは皆、お経は、お釈迦様の言葉を書き写したものだと信じていたのである。無論、その弟子は言うに及ばない。
禅宗の方は、檀家で何かしないとお布施をもらえないから、お経を唱えるが、実は、それ程お経に重きを置いていない。だから、それ程深刻な問題はない。問題があるとすれば、「不立文字」と言い放って、「真実は言葉では伝わらない」などと言いながら、檀家でお経を唱えてメシを食っている体質そのものだろう。
悲惨なのは、伝教大師(=最澄)の天台宗である。天台宗では、膨大な数のお経を、内容の共通するもの5種類に大別した。そして、お釈迦様が法を説かれた50年ほどの期間を5つに分けて、5部のお経のグループを、それぞれの時期に割り当てた。業界では、これを天台の五時教判という。天台宗の教義の根本をなす経典理解である。これが誤りだということが明らかになってしまったのだ。悲惨と呼ばずして何と呼ぶ。
ついでに日蓮宗も大変である。日蓮は、結果はどうあれ、自分こそは真に天台宗を目指すという自覚に燃えた人だった。燃えた分だけ、大変である。
しかし、わが浄土真宗も他宗の不幸を笑ってはいられない。鎌倉仏教の開祖は、親鸞に限らず、皆、若い頃、天台宗の坊主として修行をした。つまり、五時教判については、正しいと考えていたのである。しかも、どうやらお釈迦様は、在世中、阿弥陀仏のことなど語ってはいないのである。
よく考えてみれば、近代化大好き人間にとって、これは大問題のはずである。ところが、浄土真宗をはじめとして、いわゆる既成仏教各宗派は、この問題について、正面から答えてこなかった。既成仏教教団の近代化とは、所詮、その程度のものであった。近代化の名の下、近代化によって恩恵を受ける者達が、自分達の都合のいい部分だけを近代化してきただけのことである。ヨーロッパ近代主義に対して、端(はな)から懐疑的なオレにとっては、どうでもいい問題ではあるのだけれど。
https://ja.wikipedia.org/wiki/仏教
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仏教(佛敎、ぶっきょう、サンスクリット: बौद्धधर्म、英語: Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、ガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教。仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大乗仏教
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大乗仏教(だいじょうぶっきょう、梵: महायान, サンスクリット語ラテン翻字: Mahāyāna、英: Mahāyāna Buddhism、タイ語: พุทธศาสนาฝ่ายมหายาน, タイ語ラテン翻字: Phuthṭh ṣ̄ās̄nā f̄̀āy mh̄āyān)は、伝統的にユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の宗派。出家者に限らず在家者を含めた一切の衆生の救済を掲げる仏教宗派の総称であり、単一の派を指しているわけではない。
大乗仏教は、出家による自力救済を説く初期仏教(阿含経に色濃く反映)の世界観・救済観を乗り越える形で形成・発展されてきたという経過があるため、釈迦の教えそのものから(少なくとも言語表現上)変容している面があり、その特色は初期仏教(阿含経)の内容と対比することでより鮮明になる。大乗仏教に分類される代表的な仏教経典としては、般若経(般若心経はその核心を簡潔に記したもの)、法華経、浄土三部経、華厳経、(大乗の)涅槃経、大日経、金剛頂経などが挙げられる。
日本の仏教の主な宗派は、いずれも大乗仏教に分類される。
https://ja.wikipedia.org/wiki/教相判釈
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教相判釈(きょうそう はんじゃく)とは、中国をはじめとする漢訳仏典圏において、仏教の経典を、その相(内容)によって、高低、浅深を[要出典]判定し、解釈したもの。略して教判ともいう。
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概要
釈迦は成道して、涅槃に入るまでの45年前後の間に、多くの教えを説いたが、書物を残さなかった。そのため、数百年の間にインド周辺で釈迦の直説とされる大量の経典が形成された。
さらにそれらの多くの経典が、中国へ伝えられ、漢訳仏典として集成されると、実は中国撰述のものも含めてすべてが本物とされた。 -
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漢訳仏典圏初期
中国においては、伝えられた経典の多さから仏教の教えがあまりにも多様化し、どれが釈迦の真実の教えかということが問題になった。そこで、経典の内容が種々異なるのは、釈迦が教えを説いた時期や内容が異なるためと考え、教えを説いた時期を分類し、その中でどれが最高の教えであるかという、ひとつの判定方法として、各宗派によってさまざまな教相判釈が行われた。
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五時八教説 (天台)
五時八教の教判、あるいは五時八教説(ごじはっきょうせつ)とは、天台智顗(ちぎ、538年 - 597年)が、『一切経』を五時八教に分けたものである。日本天台宗の最澄もこれを輸入し、延暦寺の中心思想となった。
五時
最初に『華厳経』を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったとして、次に平易な『阿含経』を説いたとする。人々の理解の割合に応じて、『方等経』、『般若経』を説き、最後の8年間で『法華経』と『涅槃経』を説いたとする。そして最後に説いた『法華経』が釈迦のもっとも重要な教えであるとしている。
五時を、説法した期間・会座(えざ=説法の場所)・経典などを分類すると次の通り。
1.華厳時
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2.阿含時
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3.方等時
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4.般若時
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5.法華涅槃時
ただしこれは、経典に書かれている時間・時期的な記述や場所、またその内容から、あくまでも順序だてて分けただけで、必ずしも釈迦が絶対的に必ずその順番で説いたとしたわけではない。五時八教説を重んじた日蓮も守護国家論で、「大部の経、大概(おおむね)是の如し。此れより已外(いげ)諸の大小乗経は次第不定(しだいふじょう)なり、或は『阿含経』より已後に『華厳経』を説き、『法華経』より已後に方等般若を説く。みな義類(ぎるい)を以て之を収めて一処に置くべし」と述べている。したがって、対機説法(たいきせっぽう)、臨機応変という言葉が示すように釈迦仏が衆生の機根(教えを聞ける器、度合い)に応じて、教法を前後して説いたことを留意しなくてはならない。また智顗が分類した五時説を日蓮が採用しつつも、次第不定で前後していることを既に認知していたという事実があることを、大乗非仏説及び経典成立史の観点から留意しなくてはならない。したがって今日の仏教学では五時説は歴史的事実とは認められないが、日蓮宗の宗学的には仏教学の成果をどのように受容するかという新たな課題を生んでいる。
なお、智顗は、『涅槃経』に対しては、『法華経』とほぼ同内容で、その真理は既に『法華経』で明かしており、法華の救いに漏れた者達のために説かれた教えにすぎない、という位置づけから、また涅槃は一日一夜の説法なので法華の八年間に摂したため、法華と涅槃とを分けず「法華涅槃時」としたが、『華厳経』から『法華経』までは次第不定に説かれたのに対して、『涅槃経』は経典の内容や場所から判断して唯一、釈迦が入滅の時に至って説いた教法である、としている。
五時八教 教相判釈..
https://www.google.co.jp/search?q=日蓮聖人 五時八教
https://ja.wikipedia.org/wiki/法華経#成立年代 〔最終更新 2022年5月19日 (木) 15:05〕
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成立年代
中世においては天台智顗の五時八教説により釈迦が晩年に説いたとされていたが、近代文献学に基づく仏教学によって紀元後に成立した創作経典であることが明らかにされている。 -
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https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090521/330462/
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しかし,大衆部は「戒」(仏教信者の行動規範)のみならず,上座部の経典(正統・保守系)を使用することはできない。そこで,大衆部は思案した。つまり,読んでいてあまりメリハリがなく,面白くもない上座部の経典よりも,「情感に満ち満ちた,きらびやかな描写,臨場感,躍動感溢れる言説でマーケティングしたほうが,仏教を普及させるという大義に沿う」と考えたのだ。
このような事情のもとで,法華経を含む大乗経典が創作された。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/大乗非仏説
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大乗非仏説(だいじょうひぶっせつ)は、大乗仏教の経典は釈尊の直説ではなく、後世に成立したものだという説である。
概説
「大乗非仏説」は「大乗は仏説に非(あら)ず」と主張する学説である。「大乗非仏説」説、ないし「大乗非釈迦仏説」と呼ぶほうが精確であるが(「仏説」の多義性)、慣用的に「大乗非仏説」と呼ばれる。
もともとは、仏教内部において部派仏教の側から、大乗仏教とは「経典捏造による謗法」や「仏教教義からの逸脱」であるとして、大乗仏教出現以来、現在に至るまで展開されている論説である。
大乗経典は元々の口伝による伝承そのものが存在しないという主張がある。すでに紀元前1世紀頃には、上座部(南方分別説部)が布教されたスリランカにおいてパーリ語経典が貝葉に記録されているが、このスリランカに伝承されたパーリ五部と、シルクロードを経て2世紀半ばから中国で漢訳されはじめた阿含経(漢訳四阿含等)とでは、部派が異なるにもかかわらず教えの内容がほぼ一致している。このともにインド文化圏の周辺域で記録された経典が共通性を持つことに注目し、そして紀元前2世紀~前1世紀にかけてインド仏教聖地で建立された碑文に「五部の精通者」云々の語句が認められることを勘案すれば、大乗仏教運動が起った時点ではすでに諸部派において「釈尊の言い伝え」として承認される経典の範囲が確定していた可能性は高い。
つまり、大乗経典は四部または五部に分類される経典のどこにも場所を持たなかったと考えられるのである。
古代インドでの大乗非仏説論
古代インドで成立した大乗仏典の中には、部派仏教側からの「経典を捏造している」という非難の言葉も記されている。
例えば、鳩摩羅什訳『法華経』勧持品第十三の偈には、『法華経』を受持する大乗仏教の信者は、将来「大乗非仏説」論者から以下のような誹謗中傷を受けるだろう、という予言の言葉を、次のように載せる。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/大乗非仏説#近世以降の大乗非仏説論
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近世以降の大乗非仏説論
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明治以降、ヨーロッパの近代的な学問研究方法が日本に取り入れられ、原典研究も盛んになるに従って、改めて大乗非仏説の論が起こり、仏教学者である姉崎正治が『仏教聖典史論』(1899年)や『現身仏と法身仏』(1904年)、『根本佛教』(1910年)を、村上専精が『仏教統一論』(1901~1905年)や『大乗仏説論批判』(1903年)を著している。また、大乗仏教の学僧である前田慧雲が『大乗仏教史論』(1903年)を、友松円諦が『阿含経』(1921年)を、赤沼智善が『阿含の仏教』(1921年)や『根本仏教の精神』(1923年)を著している。
結果、学界では大乗仏教が前1世紀以降から作成されたものであるとの結論から、大乗非仏説は近代的学問から裏付けられているとされるに至った。文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。
増谷文雄はこうした学問的な成果をもって「第2回の仏教の伝来」とした上で、「阿含経典こそが根本聖典」と述べている。
中村元と三枝充悳の共著『バウッダ―仏教』(1987年)もまたそうした学問的立場を表明している。ただし2人は「現存の『阿含経』は釈尊の教えを原型どおりに記しているのでは、決してない」つまり阿含経典も釈迦の「金口直説」(こんくじきせつ)ではない、と釘を刺している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大乗非仏説#歴史
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歴史
経典は、ごく最古の経典を除き、冒頭で「このように私は聞いた」(如是我聞=是くの如く我聞けり)と述べ、釈迦の説法を聞き写したという体裁をとっており、現在の上座部仏教圏(スリランカ、ビルマ、タイ、ラオス、カンボジア等)、大乗圏(インド・ネパール、チベット・モンゴル、中国・朝鮮・日本・ベトナム等)のいずれの伝統教団も、大蔵経 (一切経)として擁する膨大な経典群を、歴史上の釈迦が八十数年の間に説いたものとして扱っている。
~ と真実
2011-04-14
https://blog.goo.ne.jp/mission_s/d/20110414
https://ja.wikipedia.org/wiki/大乗非仏説#幻の仏説論
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幻の仏説論
中村元は「サーリプッタに説いたブッダの教えはいったいどこにいってしまったのか」と述べ、増谷文雄も「ブッダがサーリプッタに説いた宗教的深遠な教えは、阿含部経典よりも多かったに違いない」として、"ブッダはサーリプッタに対して、深遠な思想を説いたが、その内容は阿含経典には残されていない"という趣旨の主張を行なっている。しかしながら、中村・増谷らの「阿含経典に見られない、宗教的により深遠な教え」をブッダはサーリプッタに対して説いていたはずであるという主張は文献学的に何の根拠もなく、証明不可能である。またこれらの学者は釈迦がサーリプッタに説いた教えが大乗の経典に含まれているとは主張していない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/法華経
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『法華経』(ほけきょう、ほっけきょう、梵: Saddharma-puṇḍarīka-sūtra)は、大乗仏教の代表的な経典。大乗仏教の初期に成立した経典であり、誰もが平等に成仏できるという仏教思想が説かれている。聖徳太子の時代に仏教とともに日本に伝来した。複数ある漢訳の中では鳩摩羅什によるもの特に普及しており、その訳名は妙法蓮華経である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/法華経#成立年代 〔最終更新 2022年5月19日 (木) 15:05〕
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成立年代
中世においては天台智顗の五時八教説により釈迦が晩年に説いたとされていたが、近代文献学に基づく仏教学によって紀元後に成立した創作経典であることが明らかにされている。その具体的な時期については、以下に述べる如く諸説ある。
代表的な説として布施浩岳が『法華経成立史』(1934年)で述べた説がある。これは段階的成立説で、法華経全体としては3類、4記で段階的に成立した、とするものである。第一類(序品〜授学無学人記品および随喜功徳品の計10品)に含まれる韻文は紀元前1世紀ころに思想が形成され、紀元前後に文章化され、長行(じょうごう)と呼ばれる散文は紀元後1世紀に成立したとし、第二類(法師品〜如来神力品の計10品)は紀元100年ごろ、第三類(7品)は150年前後に成立した、とした。その後の多くの研究者たちは、この説に大きな影響を受けつつ、修正を加えて改良してきた。
20世紀後半になって苅谷定彦によって「序品〜如来神力品が同時成立した」とする説が、また勝呂信静によって27品同時成立説が唱えられている。菅野博史は成立年代特定の問題は『振り出しにもどった』というのが現今の研究の状況だ」と1998年刊行の事典において解説している。
奇説として福音書由来説もある。
「奇説として福音書由来説もある。」
長者窮子 (ちょうじゃぐうじ)..
窮子喩とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/窮子喩
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〘名〙 仏語。「法華経信解品(しんげぼん)」に説くたとえ。もと長者の子で、早くから親もとを離れて流浪し、落ちぶれていたのを、父の長者が見つけて、これを導き、長者の子としての自覚を与えたことを語るもので、 -
https://ja.wikipedia.org/wiki/放蕩息子のたとえ話
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内容
ある人に二人の息子がいた。弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は要求通りに与えた。
そして、生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。
父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。彼は我に帰った。帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。
父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。しかし、父親は兄をたしなめて言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(口語訳新約聖書 ルカ 15:11-32)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ルカによる福音書#成立年代
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成立年代
『ルカ福音書』の成立年代は未詳だが、その上限は(「二資料仮説」を前提とするが)『マルコ福音書』の成立時期(70年前後)であり、下限はマルキオンの正典編纂の試み(2世紀なかば)である。
伝統的な成立時期の説
伝統的には、キリスト教徒はルカが(直接ではないにせよ)パウロの指導のもとに福音書を書いたとみなしてきた。『使徒言行録』が『ルカ福音書』の続編として書かれたとすれば、当然『ルカ福音書』は『使徒言行録』より古いはずであり、『使徒言行録』の成立が63年か64年のこととすれば、『ルカ福音書』は60年から63年の成立と考えられる。これはパウロが逮捕される前、ルカがパウロに同行してカイサリアに赴いた頃のことと考えられる。もし伝承が伝えるようにルカが獄中のパウロからローマで聞き取って書いたとすれば成立はさらに早まって40年から60年ごろということになる。福音派など保守的なキリスト教派では、このような伝統的な説が支持される。
「放蕩息子」と「長者窮子」 - Good News Collection
http://tsuchy1493.seesaa.net/article/394056185.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/仏教とキリスト教
法華経の成立 (広済寺ホームページ)
https://www.kosaiji.org/hokke/hokekyo/seiritsu.htm
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法華経の成立した場所
法華経がインド圏で成立したことは論を待たないであろう。サンスクリットの写本が、ガンダーラ、ネパール、中央アジアで多数発見されているし、インド圏の論書に法華経の引用もある。
ただ、インドのどこで成立したかについては、インドのカースト制度の及ばない辺境地域ということが言われることがある。その理由として『妙法蓮華経信解品第四』の「長者窮子の喩」がとりあげられる。窮子がトイレ掃除から始まり、財産の管理を任せられる職業にまで登用されることが、生まれが職業を決するカースト制度のインド社会では考えられないとのことである。
しかし、一方では次のように考えることもできる。-
https://ja.wikipedia.org/wiki/法華経#西北インドで西暦40年~220年ごろに成立したとする説
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上限の40年については、信解品の《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した。この点については、渡辺照宏も、「50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない」と述べている。
第6講:語られ得ぬ法華経の来歴
https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20090521/330462/
wiki/法華経
続
https://ja.wikipedia.org/wiki/法華経#経典としての位置づけ
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経典としての位置づけ
文献学的研究者の立場
文献学的研究では、成立年代を釈迦存命時より数百年後とする大乗非仏説論が強い。上座部仏教と大乗仏教の対立の止揚として、両者を融合させてすべてを救うことを主張するため作成されたと推測する説、龍樹の創作説、文中に登場する「法師」の創作説、西暦紀元前後、部派仏教と呼ばれる専従僧侶独占に反発する教団によって編纂されたと推測する説[要出典]などがある。
法華経を所依の経典とする派の立場
法華経を所依の経典として重視する諸派は、法華経を、釈迦が晩年に説いたとする釈迦の法(教え)の極意・正法(妙法)と位置づける天台智顗の教説、五時八教を多かれ少なかれ継承している。
文献学的研究に対する反応
日本では、江戸時代に発行された富永仲基『出定後語』の影響に加え、西洋系の近代仏教学を導入した影響から大乗非仏説論が広く浸透した。
法華経の成立が、釈迦存命時より数世紀後だという文献学の成果に対し、日本の法華系教団では、釈迦の発言を継承していき後代に文章化したとする、釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承される課程で発展していったものとする、師の教義を弟子が継承し発展させることは、生きた教団である以上あり得ることから、後世の成立とされる大乗経典は根無し草の如き存在ではないとするなど、後世の経典もまた「釈迦の教義」として認める、という類の折衷的解釈を打ち出す傾向がある。さらに一歩進んで、非仏説論が正しくても問題ないロジックを組むべきという立場もある。
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近現代の研究者による評価
書評家の松岡正剛は法華経のエディターシップを激賞して「法華経を読むと、いつも興奮する。/その編集構成の妙には、しばしば唸らされる。」「法華経には昔から、好んで「一品二半」(いっぽんにはん)といわれてきた特別な蝶番(ちょうつがい)がはたらいている。15「従地湧出品」の後半部分から16「如来寿量品」と17「分別功徳品」の前半部分までをひとくくりにして、あえて「一品二半」とみなすのだ。その蝶番によって、前半の「迹門」と後半の「本門」が屏風合わせのようになっていく。」と述べている。
渡辺照宏は、「サンスクリット本について見ると、文体はきわめて粗野で単純、一見してあまり教養のない人たちの手で書かれた」と批判しているのに対して、仏教思想研究家の植木雅俊は、サンスクリット原本から『法華経』を翻訳した経験をふまえ、「『法華経』編纂に携わった人の教養レベルの高さに驚かされる」「何をもってそのように結論されたのか、首を傾げてしまう」と反論、歴史に実在した釈迦が説いた「原始仏教」の平等思想や人間中心主義が釈迦の死後500年のあいだに〝小乗仏教〟教団によって改竄されており、思想的に見れば『法華経』こそ「仏説」であると述べている。ただし植木は、『法華経』編纂者の文学的才能を激賞している一方、末尾の陀羅尼品から普賢品までを呪術思想の混入として嫌っている。
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「 法華経の成立が、釈迦存命時より数世紀後だという文献学の成果に対し、日本の法華系教団では、釈迦の発言を継承していき後代に文章化したとする、釈迦の直説を長い時を経て弟子から弟子へと継承される課程で発展していったものとする、 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/大乗非仏説#インドの口伝の伝統との関係
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インドの口伝の伝統との関係
近世以降の大乗非仏説には、宗教に関するインド人の伝統を無視している、との批判がある。 それによれば、「インドでは古来、宗教の聖典は口伝によって伝承し、文字にして残さないという伝統があった。よって、釈迦が大乗仏教を説いていたとしても、釈迦の死の直後に文字に記されなかったことはむしろ当然であり、釈迦の死の直後に記された大乗経典の実物が発見されていないことは大乗仏教が仏説ではないことの根拠にはならない」とするものである。
ただし、この主張は部派仏教の経典は文字によって伝承され、大乗は口伝で伝えられたというものであるが、これは史実と異なる。実際は上座部のパーリ経典の方が口伝で継承されていた。パーリ経典は口伝で重要な暗記をやりやすくするために、反復や韻を踏む内容となっている。また、僧の大集会などで経典を唱える行為はこの暗記の正確さをお互いに確認しあうという役割があった。パーリ経典が文字として記録されたのは大乗仏教が登場してからである。
一方の大乗経典は口伝伝承を前提としていないため暗記を容易にするような、単純な文を反復するという構成ではなく、その内容も哲学的なものも多く、明らかに文伝を前提とする文章構造になっている。文献学的観点からは文伝を前提としているのが大乗で、口伝を前提としているのが部派仏教である。
口伝伝承されており、その発祥時期も大方は明らかになっている部派仏教の経典に大乗の教えが見られないこと自体が大乗は口伝で伝承されず、発生時期が部派以後であるという文献学の根拠ともなっている。この、成立時期の大きな時間差については、根本分裂前の教団が、後に大乗仏教と呼ぶ部分を理解してもらうために方便として広める必要のある物から順に文字化されただけだという意見もあるが、あくまで大乗擁護を結論として作り上げた推論の域を出ない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/大乗非仏説#真の仏説不明論
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真の仏説不明論
文献学的には、大乗仏教の仏典のみならずパーリ経典の大部分も釈迦の死後数百年にわたり編纂されたものであることが明らかとなっている。最古の経典も釈迦の死後100年以内の編纂とみなされているため、近代の文献学上は原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない。
原始経典に戻っても釈迦の直説を探り出すことは困難であり、原始経典もゴータマ・ブッダの没後に編集されたことなどから、大乗非仏説の主張や論争は現在では下火となっているという。
『大正新脩大蔵経』に関わった高楠順次郎は、「初めには文字がない時が四百年間もあった。どうせ説かれた通りであろう筈がない。それに偽作もあってこそ本当の思想も分りまた各時代の思想を見ることが出来る、偽作と偽作でないのとを比較区別するということが研究なので、本当の物だけであると研究も何も要らない。それでありますから一切経はまあたくさんあるだけよい、遅い物も早い物も一緒にあるのがよい」と語っている。
感性
Voices
https://www.dailymotion.com/video/xhshr9
歌詞
https://lyricstranslate.com/ja/voices-voices.html-5
https://ja.wikipedia.org/wiki/教相判釈#関連項目
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関連項目
折伏 - 天台と日蓮の説を元に『法華経』もしくは、南無妙法蓮華経の題目が最高の教えと主張し、相手に対しその思想は間違っているとしてへし折り屈伏させること。
https://ja.wikipedia.org/wiki/折伏#日蓮
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日蓮
日蓮はその著作『開目抄』において、摂受よりも折伏の方が末法時代の日本においては適した布教法であると判定している。
日蓮は、当時の仏教界に互いに矛盾する多くの教えがあり、どれもが釈尊の教えと称していることに疑問を持っていた。釈尊の真の教えを求めて比叡山にて修行を積んだ結果、智顗(天台大師)のいう教相判釈(五時八教説)が正しいものと考え、『法華経』が釈尊の真の教えであるとの結論に達し、五時八教説に依って四箇格言を掲げて折伏を行うようになった。
人間 釈迦
2009-09-21
https://blog.goo.ne.jp/mission_s/e/c801a7da93b6d3bc384cc11273ba3224
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また衆生済度の心に燃えながらも、誤った方向に、人々をひきつれてゆく場合も、しばしば起こる。
近くでは日蓮がそうである。日蓮は、ボサターである。ボサターの心は、本来、広いものである。広くならなければ、ボサターの世界に住むことができない。その日蓮が、法華経を広めることに急なため、他の宗派を排撃した。念仏無間地獄、禅天魔といって既成宗団を激しく批難した。また、佐渡に島流しの際に嵐を静めてくれた竜を崇めている。竜は法を守るための諸天善神の化身の一つである。つまり、八大竜王(この名称は役目を指す)の傘下にあって、八大竜王の手足となり、法の護持に、正しき者を守る役目を担っているのである。八大竜王は諸天善神であり、諸天善神は、ボサターになるための修行の場であり、役柄である。遭難を救ってくれたその行為への感謝は当然であるが、仏のように崇めては、間違いなのである。ともかく、このように、いくつかの間違いを犯した。日蓮は、あの世に帰ってから、約六百余年、現象界でつくり出した陰影のアカを落とす修行に励むことになったのである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/正法
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日蓮
日蓮は「正法」を時代区分としての名ではなく、「時機に応じた正当な法」という意味でのとらえ方をした。すなわち『法華経』を釈迦の本懐の正法ととらえ、法華経の題目を唱えるべきとした。釈迦の経典を自筆による御書で引用しつつ、法華経以外の経典から派生した宗教を邪宗とし、末法に於いては、法華経の題目を唱える以外に成仏することはないと体系的な教義を確立した。
日蓮が法華経を正法ととらえ、いかに愛したかは、日蓮自筆による「御書」の至る所によく表れている。中でもとりわけ有名であるのは、「日連がたましいを墨に染めながして書きて候ぞ信じさせたまえ、仏の御意は法華経なり、日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」の一文である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/御書_(日蓮)
法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかえれる事を。
今又法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし、影は体より生ずるもの・法華経をかたきとする人の国は体に・かげのそうがごとく・わざわい来るべし
王仏冥合とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/王仏冥合
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法華経の本門の教えが国家・社会の指導原理となることによって、この世に寂光浄土が実現するという日蓮の教え。
歴史上のお釈迦様は法華経の教えを説いてはいない... 2/4
https://blog.goo.ne.jp/mission_s/e/7440d16b61a5a5c4fcfb7b0122dea890
歴史上のお釈迦様は法華経の教えを説いてはいない... 3/4
https://blog.goo.ne.jp/mission_s/e/52862e529b7a1cbf29f69549f1531579
歴史上のお釈迦様は法華経の教えを説いてはいない... 4/4
https://blog.goo.ne.jp/mission_s/d/20220528
220525 01:32 04:29 07:24 18:33
220526 03:55 15:34
220528 16:31
220704 00:24
240706 10:05 https://ja.wikipedia.org/wiki/法華経#成立年代 URL 更新
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第43回 真夜中の虹
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〈 " 禁足地、入るべからず " 〉
http://web.archive.org/web/20130410010329/http://youkey.hanagasumi.net/zatudan/zatudanpage/z-09.html
教訓 222. 悪い言動には悪い報いがある
http://www.wa.commufa.jp/~anknak/kyoukun222.htm
明日があるさ 081027 - , +
https://blog.goo.ne.jp/whitsunday_third/e/〔090127〕
、依り代になる肉体たちを消滅、あるいは壊してシマッタ。
絶対に無い ?
https://blog.goo.ne.jp/whitsunday/e/〔 070816 〕
標準と認識されてきた世界
https://blog.goo.ne.jp/whitsunday_third/e/〔 090223 〕
頂髻 カラ
https://blog.goo.ne.jp/mission_s/d/20130522
SUN 11号 霊的クライシスはなぜ起こるか 山田孝男
https://blog.goo.ne.jp/mission_w/e/〔121005〕
( https://ejje.weblio.jp/content/crisis )
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「 そのかわり直感は鋭くなっているので、未来を予知したり、常識では予想できないくらい物事がうまくいったり、いったことが当たったりする場合が多くなります。 」
「 こういう人たちが精神病として扱われた場合は悲惨です。 大ゲサにいえば、キリストをはりつけにするような愚かな行為といえるかもしれません。 」
「 今の社会システムはこのような規格はずれの人を否定するメカニズムが働いているようです。 現在、世界を支配している精神は、このような高次の意識の目覚めを望んでいません。 」
キリストをはりつけにするような愚かな行為...
https://www.google.co.jp/search?q=磔
https://www.google.co.jp/search?q=Christ Crucifixion
ヒビケ
https://blog.goo.ne.jp/mission_s/d/20110216
〉 ぐうぜんにも操作NO指がスベッテシマイ。 ..マタデスカ
...http://www.youtube.com/watch?v=sFXGrTng0gQ
Barış
https://blog.goo.ne.jp/mission_s/d/20110302
〉 Laputa でましたので プロモ
...http://video.ultra-zone.net/w/8Ma65PO4kiA [ 公開日 1984年3月11日 ]
..[ 大.海嘯 ] [ 風の谷のナウシカ#あらすじ ]
[ https://ja.wikipedia.org/wiki/東北地方太平洋沖地震 ]
https://www.google.co.jp/search?q=ご利益信仰
https://www.google.co.jp/search?q=砂曼荼羅 執着
三世諸仏、 得 阿耨多羅三藐三菩提
https://blog.goo.ne.jp/mission_y/e/〔150927〕
https://www.google.co.jp/search?q=観自在菩薩
https://www.google.co.jp/search?q=心経奉讃文
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https://www.google.co.jp/search?q=神社 ライブカメラ 〔 お寺も入っています 〕
地元 鎮守 〔..挿絵....(..postcard..)...〕
[ 菅原神社 拝殿 / 画 上田博昭 様 ] ( 筆者 若干 arrange )
[ 同. 鳥居 桜 / ペン画 上田博昭 様 ]
220107 10:03