美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

いよいよ完結「美里町の探検日記」の「長野工藤氏シリーズ」が今月末で最終回

2011-03-19 21:10:30 | 日記

(津市美里町桂畑の長野城跡)

このブログの本編である「美里町の探検日記」に不定期で書いてきた
「長野工藤氏シリーズ」が、この3月末でようやく完結します。
最後の3つの記事を書き終えたので、順次3月中に公開する予定です。

長野工藤氏は、藤原氏の子孫で、
鎌倉時代後期に伊豆から三重県の津市美里町に移って来た武家です。
現在の津市の北半分を、300年にわたって支配し、
室町幕府の奉公衆(将軍直属の武装組織)として活躍しました。
その軍事行動は伊勢国のみでなく、京都や奈良にも出兵したことが記録されています。
室町時代末期に織田信長に攻められて滅亡してしまいましたが、
伊勢国においては北畠氏、関氏と並ぶ有力な武家であり、
美里町桂畑に築いた長野城の城跡は、国指定史跡になっています。

ところが、
南北朝時代に幕府側(北朝側)であったことが災いしたのか、
明治時代以降において、長野工藤氏に関する研究がほとんどなされておらず、
現在発行されている公的なパンフレット等における記述のほとんどは、
後世に書かれた軍記物などの記述を、あたかも史実であるかのように引用したものです。

美里町内にあった寺院等もすべて戦乱で焼失してしまい、
記録が残っていないということもあって、
現に美里に住んでいる人ですら、
長野工藤氏とはどのような一族であったのか、
この地方を支配した300年の間にどんなことがあったのか、を
まったく知らないという状況です。

美里を中心に活躍した武将のことを、地元の人が知らない、
他所の人に聞かれても
「そんな殿さんがおって、城があったらしいけどなあ、
 信長に滅ぼされて、何にも残っとらんわ」
という答えしか出来ないのはさびしいことです。

自分の力で、どこまでできるのか、自信はまったくありませんでしたが、
長野氏が歴史の舞台に出てきた局面ごとに紹介するという方法で、
どうにか、300年を語り継ぐことができたように思います。

大河ドラマに登場した工藤祐経は、長野工藤氏の祖先


(瀬戸林道から長野城跡への案内板)

「長野工藤氏シリーズ」は、学術的な研究・検証を経たものではありませんが、
歴史好きな人が読めば、それなりに面白く読めるようには書きました。
同じ津市の北畠氏に比べて、あまりに知られていない長野工藤氏を紹介することを第一に考えました。
個人的には、
幼少で家督を継ぎながら、応仁の乱にも参加した長野政高と、
織田信長に最後まで抵抗した細野藤敦のファンになりましたね。

>現在までに公開されている「長野工藤氏シリーズ」
長野城址
長野城址へ登る
工藤姓のルーツ、藤原為憲
工藤氏との平家一門の関係
伊賀国での平家一族の反乱
曽我兄弟の仇討ちで有名な、工藤祐経
全国各地に残る犬房丸伝説
工藤祐長、伊勢国安濃郡の地頭となる
工藤祐藤、長野城を築城
大明神になった長野三兄弟
長野氏と菩提寺の関係
長野工藤一族、京都に出兵する
工藤藤房、長野城を失う
幕府奉公衆の制度と長野氏(前編)
幕府奉公衆の制度と長野氏(後編)
北畠満雅と長野満高
長野満藤、土岐持頼を暗殺する
長野教高、石榑御厨の返還命令を無視する
応仁の乱と長野氏(前編)
応仁の乱と長野氏(後編)
長野政高、京都で横死する
北畠具教、長野氏との抗争に終止符を打つ
北畠具藤(長野家の養子)と北畠具房
細野氏、本家の代理で山城国に出兵する
長野氏の子孫は埼玉県熊谷に
※これらの他に3編を、23年3月下旬に公開予定

注「美里町の探検日記」の記事は現在閲覧できません。
「美里町の探検日記GP」内の上記の記事の復刻版をご覧ください。


>復刻版はこちら
長野政高、応仁の乱に出兵する
長野政高、京都で横死する

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小学校卒業式の「しおり」 | トップ | 大きなダブルチョコケーキ(... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事