美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

長野政高、京都で横死する

2022-04-20 09:15:38 | 津のこと

(京都市上京区役所付近)

室町時代の1486年、伊勢国長野家11代当主の長野政高が、
京都三条にあった公家三条大納言公治の屋敷で殺害されるという事件がありました。

上の画像の上京区役所付近にあった、
三条公治邸に宿泊していたところ、
公治に恨みを持つ何者かに襲われ、
屋敷は全焼し、巻き添えで長野政高も死亡したものです。

「長興宿禰記」より
「文明十八年三月十三日 晴
 畠山右衛門佐義就に赦免が有った。東山殿(足利義政)並びに将軍御所(足利義尚)よりの
御内書が河内に下された。また(義就と対立している)畠山政長にも同日御内書が下され、
右衛門佐と和睦し、開陣するようにと仰せになられた。
 ただし管領(畠山政長)はこれに同意せず、上意に応じなかったそうである。
 同二十日 晴
 畠山右衛門佐(義就)が御免された事について、世間の雑説では細川京兆家の
領国である丹波、摂津、四国より軍勢が上洛するという。
 また今回の和睦を主導した三条亞相(公治)、伊勢兵庫頭(貞陸)の身上について
様々に沙汰されている。この二人は細川方にて彼らの疑念するような
事は知らないと弁明しているという。
 同四月三日 晴
 今夜半、三条大納言公治卿の屋敷が焼亡した。夜中に数百人が乱入し放火を行い、
亭主の亞相(公治)は逃げ出し、翌日近江坂本まで下向したという。
一体誰がこのような事をしたのかは解らない。畠山右衛門佐(義就)御免の事が
沙汰された事で、義就の敵方がこのような所業に及んだのであろうか。」

この事件の背景を要約すると、
室町幕府の要職である管領を勤める畠山家の当主であった義就は、
嫡流であった政長に家督と管領職を譲るようにと、周囲から迫られていたが
これに応じず、領地である河内国や山城国から兵を集めては
政長とそれに味方する細川らの大名と戦いを続けてきた。
これが契機となって「応仁の乱」が勃発するが、
争乱が収まった時点でもなお、政長との対立が続いていた。
さすがに室町幕府も義就を放置できず、
謀反人として義就を討つように命令するが、
東山殿(足利義政)は、義就の恩赦を決定し、
政長にも義就と和睦するように指示する。
この恩赦と停戦命令が下されたのは、
三条公治と伊勢貞陸が、東山殿に働きかけたからだと
皆が言っているが、当人らは自分らは知らないと言っている。
というものです。

これを読む限り、
あのような大乱を引き起こして、都を焼け野原にしたのに、
双方とも反省していないから、
本来なら家督争いに介入したくない幕府も、
謀反の罪は許すから戦いをやめよ、と言ったので、
この対応には理解できます。
ところが、
「義就を許すなんてけしからん、
 東山殿にそれを吹き込んだ公治は、もっとけしからん」
と怒った人もいたのですね。

巻き添えとなってしまった長野政高、
兄の10代当主政藤が早世したため、
わずか13歳で当主となり、
18歳のときには長野一族を率いて
応仁の乱に出兵しています。
その政高が京に何をしに行っていたのか、
どのような経緯で三条公治邸にいたのか、
詳細は不明ですが、
残念な最後と言わざるを得ません。

京都編13/上京区役所(今出川新町交差点)

長野政高、応仁の乱に出兵する

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