美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

京都編16/相国寺~長野工藤氏ゆかりのお寺

2016-07-31 13:15:05 | 日記


京都編15/同志社大学キャンパスにある大日如来碑の続きです。

同志社のキャンパスを抜けて、相国寺の南門の前に来ました。
相国寺は、室町時代に将軍足利義満が建立した禅寺で、
「京都五山」にも数えられていました。



室町時代の末期、
相国寺の塔頭のひとつである普廣院で、長野一族に関する事件が起きています。
(後述)

相国寺の南門から寺内に入ると、蓮の池があり、
この池の西に普廣院があります。

ただし普廣院は、大正時代に現在地に移転しましたが、
この事件の当時は相国寺の北西にあったそうです。



室町時代の末期、
普廣院の庭で蹴鞠(けまり)を楽しんでいた武士たちがいた。
伊勢守なる武士が、動いて汗をかいたので、
ちょうど寺の外廊下にいた少年に
「浴衣を持って来い」と命ずると
その少年は奥から浴衣を持ってきて差し出した。
その所作からして寺の雑用係の童子かと思った伊勢守は、
続いて「我の足を拭け」と命じた。
ところが、少年は「奇怪な奴」と怒って脇差を抜き、
伊勢守を切り殺すと、自分も切腹して果てたという。
この少年は、伊勢国の国人領主・長野氏の総領息子・長野三郎と記されている。
長野家14代当主・長野稙藤の子で、
15代当主・藤定の兄であったとされている。
(「勢州軍記」巻2 乱世形勢).



相国寺は、応仁の乱も含めて何度も焼失しており、
事件当時の普廣院と、現在のものとを比べようもありませんが、
上の画像のように、こじんまりとした、
蹴鞠で遊ぶにはちょうど良いくらいの広さであったのでしょうね。



上記の普廣院の事件とは別にもう1件、
長野氏が相国寺において関わった事件があります。

それは応仁の乱の序盤(1467年)、
相国寺に籠る東軍(細川方)を西軍(山名方)が攻め、
相国寺が焼失してしまったという事件が舞台です。
東軍に、長野弥二郎、分部、雲林院ら、長野一族が加わっていました。
 ↓
長野政高、応仁の乱に出兵する



長野一族が守備していたのが相国寺の東門だということで
東門へ行ってみたのですが、
石の柱が2本立っているだけで、立派な南門と比べると寂しい風景でした。

いったいここを何人で守備していたのか、
応仁記には記述がありませんが、
この大きさなら500人程度だったのかと想像します。

京都編17/武者小路と新町小学校 に続く

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