
(近鉄磯山駅)
鈴鹿市の近鉄磯山駅の前に「杉野兵曹長顕彰碑」があるって聞いたのですが、と
河芸や磯山の人に聞くと「うん、昔からあるよ」という答えが返ってくるので
地元では結構有名みたいです。
兵曹長と言うからには軍人、それも明治以降の軍人だと想像できるのですが、
いったい何をした人なのだろうと気になっていて、
やっと磯山を訪ねる機会ができたので、磯山駅へ行って記念碑を探してみました。

(付近には杉野さんという姓が多い)
駅舎の周辺を歩いてみると、確かに杉野という姓の多い地域のようでした。
ただ、駅前にはそれらしいものはなく、
踏切を渡って東の商店街らしきところまで歩いて行って、顕彰碑を発見しました。
私が想像していたのより、遥かに巨大な碑でした。
「兵曹長だよね?海軍大将の間違いじゃないよね?」と碑文を見直してしまいました。
さて前置きが長くなりましたが、
「杉野兵曹長」は、この磯山出身の海軍軍人、
明治時代に海軍水兵となり、日清・日露戦争に参加、
1904年、第二次旅順港閉塞作戦に従事していたところ、
敵の魚雷攻撃を受けて船から脱出できずに戦死した、とされています。
旅順港にはロシアの東洋艦隊がいて、
日本海で日本の海軍船や商船に大きな被害を与えていました。
で、日本海軍がこの東洋艦隊を攻撃しようとすると、
要害堅固な旅順港に逃げ込んでしまいます。
遠くヨーロッパからは強力なバルチック艦隊が日本に向かっています。
これを迎撃しようと日本艦隊が南へ向かったとたんに、背後から東洋艦隊が追ってくる、
そういう悪夢に悩まされ続けた日本海軍にとって、
旅順の東洋艦隊を壊滅させることが最優先の目標でした。
「港の外に出てこないなら、もう出てこられないように閉じ込めてしまえ」と
日本海軍は、旅順港の湾口に、旧式になった商船などを曳いてきて沈め、
それがバリケードになってロシア艦が出られないようにする作戦を実行しました。
これが旅順港閉塞作戦です。

(桜の下の顕彰碑)
3月27日、広瀬武夫少佐率いる海軍部隊が福井丸に乗船して、旅順港に侵入しようとしていました。
予定地点まで到達したところで、乗員は船から脱出し、船底の爆薬に点火して沈没させる予定でした、
その直前に敵の魚雷が命中、船は沈み始めました。
杉野孫七上等兵曹(一等兵曹だったという説もあり)は、
まだ機密書類等が船内に残っていることを思い出し、
船内の爆薬に点火するために沈む船に戻っていきました。
杉野上等兵曹はこの時36歳、水兵としての経験も17年に及ぶベテラン水兵だったので、
機密書類が未処理だったことに気が付いたのでしょう。
指揮官の広瀬少佐は、脱出したボートの上で点呼を行っていましたが、
「少佐!杉野がおりません!」という声に広瀬は愕然とします。
広瀬は杉野より2歳下の34歳、杉野は1年前から広瀬の部下でした。
どうしたのかと広瀬が聞くと、爆薬を点火させるために戻ったと言います。
「さては、急いで戻る途中に階段で足を滑らせ、気を失っているのかも」と
広瀬もまた沈む船内に戻っていきます。
「杉野、どこにいるんだ!返事をしろ!」と船内を三度も探し回るが、
杉野は見つかりませんでした。
このときの広瀬の絶叫が
「荒波洗ふデッキの上に、闇を貫く中佐の叫び。杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」という
文部省唱歌「廣瀬中佐」の歌詞となり、日本中の小学生に歌われるようになりました。

広瀬がボートに戻った直後、敵の砲弾が広瀬の頭部に命中、
首から上が吹き飛び、胴体も海に落下しました。
杉野も結局ボートに戻らず、行方不明となりました。
杉野を探しに戻らず、ボートで迅速にその場を離れれば、広瀬は死なずに済んだのかもしれない、
けれど部下思いの広瀬は、
自ら危険な任務のために船に戻った杉野を見捨てることはできなかったのです。
勇気と友情、まさに軍国の教科書に載るようなエピソードだったのです。
杉野の地元、栄村(当時)でも、
村出身の英雄を顕彰しようと、とても立派な記念碑を建て、
更には記念碑の前に広場を整備して、
村人や小学生が拝礼できるようにしたのです。
ところで、TVドラマ「坂の上の雲」にも広瀬が登場しています。
主人公・秋山真之(本木雅弘)の、海軍兵学校の一年先輩で、
やんちゃだった秋山よりも更に変人だった、というエピソードがあります。
近鉄特急が通過する風景(河芸町上野)