今回は広島カープの21年目のベテラン前田智徳選手についてです。1989年のドラフト会議でのこと広島の卓上はもめていた。スカウトは前田を2位で獲らないと他球団に持っていかれると言う一方、首脳陣は当時の山本浩二監督をはじめ右バッターが欲しいと意見が別れていたのだ。結局2位仁平という俊足の野手を4位で運良く前田を獲得でき、一番喜んだのがスカウトだった。前田は高校では名門熊本工業出身の4番センター、キャプテンで全国区では無かった。しかし全国区では無かった彼を一躍全国区にのしあげたのは何を隠そう1992年9月の巨人VS広島であろう。試合展開は6回まで1-0で広島のリード、広島の先発ピッチャーは言わずと知れた北別府投手、後の名球界投手である。6回ウラ巨人の攻撃で微妙なハーフライナーがラインドライブをかけながらセンターを守る前田の方向に飛んで行った。彼は、一旦ちゅうちょして、ノーバウンドで捕球するかワンバウンドで捕球するか迷った、結局結果は最悪の後逸という形になりランニングホームランで1-1の同点になった。1-1の同点のまま迎えた8回表ランナーを1塁に置き当時まだ高卒3年目だった前田
にバッターがまわってきた。当時の解説者掛布はこう言った。高卒3年目でここで打ったら
だめですねと。ところが前田の放った打球はライトスタンドに突き刺さり2ランホームランで3-1と勝ち越した。累上を回る前田は泣いていた。しかし、この涙は嬉し涙ではなく、悔し涙だったのである。というのも北別府がマウンドを降りてからの勝ち越しホームランだったため北別府に勝ち星が付かなかったのである。試合終了後のインタビューで前田はずっと北別府に謝っていた。後日、あの日僕は負けたんですとも語っている。前田を尊敬する選手にイチロー選手がいるのは有名な話だが、前田が尊敬する選手は当時の巨人の主軸吉村選手であった。憶えておられる方も多いであろう、1988年7月札幌円山球場でのデーゲーム当時レフトを守っていた吉村の横の左中間にフライが上がった。センターは当時快速で売り出し中で守備でも首脳陣にアピールしておきたかった栄村選手であった。事故はその時起きた。栄村がダイビングキャッチを試みた際に吉村と激突し、吉村は大ケガを負ったのである。しかし、この吉村という男、2年後の1990年の巨人の優勝がかかった試合で最終回に優勝サヨナラ本塁打を放ったのである。話を戻すが前田も両アキレスケンを手術している。もしこの男にケガが無かったらどんな選手になってただろうと思うが、無事これ名馬という言葉もある。DHのあるパ・リーグにFA移籍するだろうと思っていた彼のコメントは次の通りである。両アキレス健を手術した際、あの日、前田という男は死んだんですと。2000安打を放った時のコメントはこうである。こんな野球選手を応援して頂いてありがとうございます、である。3割を11度放った男が今季は代打の切り札として活躍し、将来は指導者として戻って来てほしい男である。