覚書あれこれ

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人間科学研究所特別企画シンポジウムレポートその2

2007年10月25日 | タワゴトと萌え語り

三人目:坂田千鶴子先生 「日本神話の荒ぶる女神とその夫」

 坂田先生は、シャイなあんちくしょうでございました。シンポジウムのテーマが『暴力と女神』なので、とりあえず上記のようなタイトルで頑張ってみたけど、日本神話にはそんなに怖い女神はいないのよね…と、はにかんだように仰ってました。
 あと、明治時代に入っちゃうと、文学における男女関係がおもしろくない!とくに浦島太郎!と仰ってたのが印象的で。
 今の一般的な浦島太郎の話って、最後、玉手箱を開けた太郎はじいさんになってシメなんですが、丹後国風土記に載ってるウラシマ君と海の娘さんの恋愛譚はなかなか素敵らしいですよ。最後、同じようにウラシマ君は玉手箱をもらうんだけど、おうちへ帰ってきてその箱を開けると、なんとそこには恋の相手の海の娘さんが入ってたんだって。娘さんは開けてはならぬ箱を開けた途端に飛び去っちゃうんだけど、その後も二人のやり取りはつづいたそうな。二人は遠距離恋愛を頑張ったらしい。

 …いや、わき道の話は置いておいて、日本神話にあんまり荒ぶる女神を見つけられなかった坂田先生、とりあえず、先生の好きなカグヤ姫の原型を探してみることにしたんだそうです。
 で。見つけたのがなんと『出雲国風土記』の中だったらしい。最初聞き始めの頃は「どこに行き着くんだろう、この話…」と人事ながら心配していたものですが、聞き終わってみると、大変興味深いお話でした。

要約すると、『出雲国風土記』の、加賀郷と加賀神埼の項に、“キサカ姫”という姫が出てくるそうな。この姫は、洞窟の中で赤ん坊を生むんだけれど、坂田先生のお話では、この赤ん坊は大国主、つまり、オオナムチなんじゃないかと。
そして、この姫は弓とも関わりが深い。赤ん坊を産んだ後、「私の産んだ子が真実神の子なら無くなった弓矢よ、出てきなさい」と祈願したら、すぐそばの流れに、金の弓矢が流れ着いたんだそうな。その弓を手にとって「ああ、なんて暗い洞窟かしら」と、弓を射たら、たちまち洞窟は光輝いたらしい。で、地名が「かが」になったとか。
 弓、というのが、月の上弦下弦時の形と似ているところから、弓は月とも関連付けられるし、また、月と不死性と蛇も、カガという名前と蛇とも関連付けられるらしい。なので、このキサカ姫は月の神であり、大母神なのではないか?
 この風土記の記述は古事記には載ってなくて、古事記ではナムチの母親は別の人になっているけど、本来はこのキサカ姫がナムチの母親だったのでは。ナムチが兄たちの嫉妬をこうむって、死に掛けたとき乳汁をかけて彼を生き返らせてくれたのもこのキサカ姫(キサカイ姫ともう一人)らしいんだけど、それは、母親だから、と考えれば実に分かりやすい。このキサカ姫の役割は古事記ではイザナミやアマテラスにふりわけられたけど、本来はもっと重要な女神だったのでは?この月女神はアマテラスが太陽の女神として記紀神話で主要な役割を演じる前の時代の、縄文の信仰に根付く女神で、この縄文の月女神は隠され、ばらばらになってはいるが、こうして風土記などの文献に残っているのではなかろうか。

…と、大体こんな感じのことをおっしゃっていたと思います。ワタシの理解がまずくて嘘を言っていたらごめんなさい。


四人目:依田千百子先生 「韓国神話における女神と暴力」

ちょっと前にワタシも読んだ松村一男先生の『女神の神話学 処女母神の誕生』に説明される女神と暴力のカテゴリー分類を元に韓国神話ではどうなっているのか、を見るのが依田先生の趣旨でした。でも、その前にざっと韓国神話の紹介。
まず、伝承形態には文献、巫俗(巫女さんが伝えてるもの)、民間伝承、があり、機能的に分けると国土創世神、地域の守り神、機能神、冤魂神(恨みを残して死んだ女の霊)に分けられ、これにさらに、独身か、既婚か、という別がある、と述べられました。
恨みを残して死んだ人が怨霊化するのは、韓国も一緒なんだなあ、と、妙に感慨深かったり。

ここまでの説明して、ようやく女神と暴力の関係に入りました。
まず、殺された(もしくは自殺した)女神。大体、死んだ後、その体の各部分から、色々と人間の暮らしに役立つものが生まれ出てくる、という、お決まりの例のパターンです。韓国神話のノイルゼデの場合、体の各部分から海産物が生まれてくるあたり、さすが島嶼部の国だなあ、と。
次、殺害し、蘇生させる女神。この項では韓国神話のチャチョンビさんが紹介されました。主人公チャチョンビの波乱万丈人生。これなど、ギリシア神話のアドニスなんかの、若い青年神を殺して生き返らせる大地母神を彷彿とさせます。結局、チャチョンビさんは農業の神様として祭られることになるので、あながちはずれではないかも。
時間が無くて、次の追放・遺棄される女神の項は省略されてしまいました。ちなみに、ここで紹介されるはずだったのは朱蒙神話。

…おっと、先生によって偏りがありすぎですね…。いや、依田先生はほぼテキストに沿ってのお話で、自分が記憶しておかないといけないことが少なかったから、ついサボってしまって(最後の方でワタシの集中力も途切れがちになってたし)…スミマセン


次、大幅に時間を過ぎての討論会。この時点で終了時間の4時を軽く過ぎてます。
いくつか質問が出たうち、かろうじて覚えているものだけ抜粋しておきます。


Q:(吉田先生に)暴力の根源にガイアがいる、ということをもう少し具体的に解釈してください。

A:つまり、ギリシア神話における暴力というのは、女神の力を抑圧して、男神優位の神話と社会が確立する過程で起こっているのではないか。
 一番最初に人類が持った神はやはり女神で、食物(狩の獲物など)を人間に与えてくれる“産む神”として、大女神崇拝があった。そして、農耕、栽培が始まると、その植物の擬人化から大女神の愛人的な男神が想定され始める。(トルコ東南部の牡牛の姿の男神などこれに当たるのではないかと。女神の子であり夫で、穀物神であり、収穫後は女神の体に帰ってゆく。)大体、もともとギリシアのあたりは、こういう宗教を持っていたのでは。ただ、ここで注意しておかなければならないのは、女神を崇拝していたからといって、その社会が母権社会だったというわけではない事である。
 これが、印欧語族・セム語族の侵入で変化する。侵入してきた部族は強力な天候神(男神)の信仰を持っており、社会も王(男性)が支配している。彼らも昔は大女神を信仰していたかもしれないが、既に社会的な要求やら何やらで男神の優位が神話上確立している。(ギリシアにも天候神(男)はいたかもしれないが、侵入した側よりは穏やかな神だったろうと推測される)。ここで、異質な信仰形態が出会った結果、相変わらず力を持っている被制服民の大女神をいかに男神が制御するか、という神話が生じる。
ちなみに、この大女神を男神が屈服せる傾向が極端まで進んでしまったのが、1神教であり、であるからして、けっこう女神の力が削がれているギリシア神話でさえ、キリスト教から見るとけしからん神話だ!ということになる。
(最初の説明では、男神の暴力を裏で仕組んでいたのは大女神だった、という話で、それで終りかと思っていたら、さらにどんでん返しがあった、というオチ。実は裏で暴力を仕組んでいた女神は、男神に力をそがれる側だった!わたしでは上手に説明できませんが、聞いていてとてもスリリングでした!)


Q:(篠田先生に)文化と暴力について具体的に教えてください。あと、地域による女神の特徴というのはありますか?

A:三身一体の女神、というのは、先進的で洗練された神話における特徴で、印欧語族に多い。大女神、というカテゴリーの中で見れば、イヌイットのセドナ(セドナ神話、不気味で好きだ…)や、オセアニアのヒナなどは、原初の形を残している古い女神といえるのではないか。古い時代の大女神というのは、地域による差が少ない。文化の想像と暴力との関係について言えば、ギリシア神話におけるディオニュソスなんかはコレに当たるのではないか。ディオニュソス信仰では狂乱するマイナスたちが有名だが、そのディオニュソスは悲劇などの文化的創造も司る。⇒芸術は狂気から生まれる、という寓意か?確かに、日常生活からは生まれ得ない。


Q:(吉田先生に)縄文文化の価値や文化のルーツに関して語ってください。


A:長い間「日本史は稲作から始まる」、と説明されてきた。その従来の日本史観を最近の縄文研究は大幅に修正することに成功した。稲作以前の縄文時代にも豊かな文化は生きていた。
もちろん、現代でも縄文時代に日本人がもっていた文化的な視点は行き続けている。それは、母神信仰である。(と、大胆な仮説を打ち出す吉田先生)。
縄文時代には、男の力は表現しても、男神はいない(少なくとも記録には残っていない。とはいえ、男神信仰は精神的なものである傾向もあるんだけど)。力は必要だが神として崇めない。しかし、女神は苦しみながら人間の食物を産む神である。その事は、縄文の土器にもよく現れている。女神の顔が取っ手やはらに付いている土器など、まさしく体の中から食物を人間に与える女神、おなかを火で燃やす女神、火を産む女神を表現しているのだ。
(ちょっと説明が入ったはずだけど、すっぽり忘れちゃった。てことで、結論)
今の時代こそ、共存・併存を可能とする縄文の文化を見直すべきではないか。


Q:(吉田先生に)今回のシンポジウムのテーマは『暴力と女神』ですが、今回の話を聞いているとどうも、神話成立の過程で暴力が発生するのであって、女神が暴力的だというわけではないのではないという気がするのですがどうなのでしょう?それに、暴力の発生は、ある地域に別の文化が流れ込んだ時に起こる摩擦と関係しているような気がするのですが、その二つの文化間の隔たりが大きい場合と、結構類似している場合では、暴力の発生具合も変わってくるのでは?日本神話にギリシア神話に見られるほど暴力が見られないのは、侵入した側がさほど異質なものではなかったからではないでしょうか?

A:(この頭のいい質問には、見習い、感服いたしました。)大体、仰るとおりだと思う、と吉田先生もおっしゃっておられました。

あと、坂田先生の月神、カグヤ姫関連の話もおもしろかったのですが、断片的にしか覚えていないので箇条書きで書きます。

・カグヤ姫はウグイス姫とも呼ばれていた。
・ほうきの国風土記にカグヤ姫の話があるらしい。ホウキというのは、ウグイスの鳴き声からつけられた地名だが、カグヤ姫は上述の通りウグイス姫とも呼ばれる。
・カグヤ姫のあの話は、父権制への反逆か?結婚して何が女の得なのさ、と結婚拒否、しかも、そんな事言うなら死ぬ!とまで。
・帝に袖を捕らえられてキトカゲになる、という叙述があるが、これは光り輝いた、という意味らしい。
・帝VSカグヤ姫の構図は、太陽対月?
・月神が弓を持っているのは、やっぱり上限の月なんかを見て弓を連想したからなんだろうなあ(これにはなんとなく納得した)
・月が太陽を射落とす神話も、上限・下限の月は常に矢の方向が太陽を向いていることから生まれたのでは(これにも納得した)
・マッチ売りの少女のおばあさんは月の女神(コレには疑問)
・昔は月が一番美しいのは13夜だと考えられていた(へー、そうなんだ)
・元々アマテラスは月神だったのでは。「アマテラス」というのは実は月にかかる枕詞で「海照らす」だった?

…以上。
ワタクシの理解が悪くて間違って記憶している部分が多数ありそうな気がしますが、個人的な備忘録と思ってご容赦くださいまし。しかし、楽しかったが頭使った…。

人間科学研究所特別企画シンポジウムレポートその1

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