末期スキルス性胃がん 歌って克服 渥美二郎

今朝のラジオでも やってました

カラオケ いいんですよ

真向法 踏み台昇降も

(早期発見については 留保しておきます)

渥美二郎 胃がんで脾臓全摘出を告白

デイリースポーツ-2016/06/22

 歌手・渥美二郎(63)が22日、東京・浅草公会堂でデビュー40周年記念コンサートを行い、代表曲「釜山港へ帰れ」「夢追い酒」など全26曲をファン1000人に披露した。会見では過去に脾臓を全摘出していたことを明かし、「検診は大事」と訴えた。現在の状態については「歌うことで免疫力が高まっている」と話した。

 渥美は開演前に会見し、1989年に告知されたスキルス性胃がんとの戦いを振り返った。「初期ではなかったんです。今だから言うけど、結構危険な状態だったんです」と話し、手術で脾臓(ひぞう)を全摘出したと説明した。新宿コマでの一カ月公演を控え、食欲がなく検診を受けたところ発見されたといい「この検診がなければダメだったかもしれない。検診は大事。早め早めに」と訴えた。

 その後も渥美は再発や転移の恐怖と戦ってきたが「不安でした。何でもない筋肉痛でも『こっちに転移したかな』と思ったりして」と打ち明けた。現在、体調の方は平穏を保っており、渥美は「歌うことで免疫力が高まっているそうです。歌に助けられている。生きて歌えることがうれしい」と感謝した。

 「40年はあっという間だった」という渥美は、今年5月には初めてニューミュージックに挑戦したアルバム「ニューミュージックベストカバーズ」をリリース。この日のステージでもギターの弾き語りで「リバーサイドホテル」、「百万本のバラ」、「異邦人」を歌唱した。

定年時代/東京版/平成24年9月上旬号

過去に胃がん克服、声が出る限り現役  演歌歌手/渥美二郎さん

「ステージが救ってくれた」
 足立区出身の演歌歌手・渥美二郎さん(60)が8月、還暦を迎えた。独立3年目の37歳の時、スキルス性胃がんの告知を受け、命の終わりを覚悟した。胃と脾臓(ひぞう)を全摘出し、その後も再発や転移の恐怖と闘いながらリハビリの日々。「ステージで歌うことで免疫力が高まり、自分の命を救ってくれた」。歌える感動をかみしめながら取り戻した歌声—。明るいステージをモットーに、「声が出なくなった時が定年」と笑顔で話す。


 古賀政男の音楽に慣れ親しんだ渥美さんは、16歳から酒場をギターで歌い歩く「演歌師」としてプロの道に入った。3曲歌って200円という時代。「8年間の演歌師生活で持ち歌は1000曲に。大卒初任給2〜3万円の頃、月15万円は稼いでいました」

 遠藤実に師事し1976年、CBSソニーから歌手デビュー。第3弾の「夢追い酒」(78年)が累計280万枚の大ヒットに。演歌で初めて「ザ・ベストテン」(TBS)に出演したほか、79年の暮れには日本有線大賞グランプリをはじめ数々の賞を受賞、NHK紅白歌合戦へ初出場も果たした。その後も、13人が競作する中で売り上げ1位を記録した「釜山港へ帰れ」(83年)、2万6000人を動員した国技館での10周年記念ファイナル公演(86年)など充実の日々を送ってきた。

“つかえ”に苦しむ
 転機は89年9月。渥美さんは胃に違和感を覚えた。「食欲がない。胃潰瘍かな」。11月からは新宿コマ劇場で恒例の1カ月公演。万全で挑むため検査を受けると、待っていたのはがんの告知だった。

 「ほぼ末期に近かった」と振り返る渥美さんの表情がくもる。医師の宣告に「もう助からないと思った。現実なのか夢なのか体がしびれる感覚でした」。6時間に及ぶ手術は無事に済んだものの、多くの不安が頭をよぎった。闘病を支えたのは、年明けに予定していた初めての海外公演。低迷していた時期に激励してくれたのが日系人も多く住むハワイの人々だった。「長くは生きられない。最後かもしれない」と医師を説得、すぐに退院しリハビリを開始した。

 胃がない食生活。課題は体重を落とさないために食べる量を保つことだったという。1日5回の食事に1時間以上を費やした。栄養ドリンクも飲み続け、食後は腸を動かすためウオーキングも。

「つかえ」や逆流、口に入ったものが直接腸にいくことから起きる不調の数々…。「食べたそばから吐き出してしまい、その分また補給しなければいけない。つかえの繰り返しは本当に苦しかった」

 復帰後初のハワイ公演には日本から約100人、現地のファン約1400人が駆け付けた。2時間半のコンサートに「まだ歌える」と自信を手にした渥美さん。「1、2曲目は我慢したけど、最後に泣かせてもらいました」

23年間、転移なし
 傷口の痛み、食べ過ぎによる腹痛…。術後10年近くは、手術による“後遺症”が日常生活の障害に。それでも月に数回、少しずつステージに立ち、体を慣らせてきた。思うように出なかった歌声も回復し、「60歳の今、声の響きや抜きなどは昔と全く同じ」と笑う。

 腹式呼吸、気持ちの高揚—。渥美さんはステージの力をかみしめる。「健康であることが当たり前ではないと知り、『今日が最後』のつもりで歌ってきた。感動の度合いが深いので免疫力が上がったのでは…。術後23年間、1回も再発や転移がなく、医師も驚いています」

 ステージでは、自らの闘病経験も伝える。握手会をすれば、5人に1人は同じように病気をした人やその家族だとか。「歌を聞いた人から『元気が出た』と言われるのが何よりうれしい。僕は医者ではないけれど、病気の人たちの役に立っている、と思うと自分にとっても励みになります」

60歳からの「仕事」
 95年には歌手仲間と「人仁(にんじん)の会」を発足させ、阪神・淡路大震災チャリティーコンサートを毎年開催してきた。当時、生まれた子が高校を卒業するまでを目標にしてきたが、昨年の東日本大震災を受け、「今後もできる限り継続したい」と渥美さん。全てを贈呈してきた純益金は18回で4665万円を超える。

 人仁の会の活動に加え、自ら弾くギターで歌うアルバム「演歌師」の発表が、人生後半のライフワークだ。渥美さんの原点ともいえる“流し”の雰囲気が味わえる同作は今夏、第2弾が発売されたばかり。「ギター1本ではあらが見えやすい。声だけで勝負するから難しいけれど、そんな仕事ができる体を取り戻せたことがうれしい」。健康維持のため、スクワットとストレッチを日課にする。特に3年前から始めた「真向法」という健康体操で、今では180度の開脚ができるほど柔軟に。

 渥美さんは今、歌の深みを知る。歌詞の裏にある感情や表情が分かる年齢になり、今までより曲のテンポを落とし、味わいながら歌っているという。例えば、「夢追い酒」もその一つ。「飲みたくなる気持ちが今なら分かる。この味が“夢追い酒”か。だからヒットしたんだな」とにこり。

 「声が出る限り定年のない職業。好きな歌をまた歌わせてもらえる今、定年を少しずつ延長し、いい歌を届けていきたいです」

渥美 二郎さん自分の体とうまく付き合いながら - 東京都医師会

自分の体とうまく付き合いながら、一期一会の気持ちで歌っています。

渥美 二郎さん

『地方公演の後でも時間や行動をきちんと守らなくてはいけません。食事をしたら2時間は横になれないとか』

食後は体を動かさなくては…。筋力トレーニングやストレッチング、雨の日は階段の上り下りが、今や渥美二郎さんの日課になっています。

水谷 豊さん

まさか! お酒を飲まず運動が大好きな渥美さんを襲ったのは「スキルス性胃がん」という難治性のがんでした。1989年秋のことでした。

胃が少しムカムカする程度でしたが、長期公演を控えて気になり都内の大学病院を受診して診断されました。とても信じられず、別の大学病院を受診しましたが結果は同じでした。なんとか気持ちを整理し、当面の仕事を片付けてから受けた手術では胃と脾臓(ひぞう)を全部、リンパ節の一部を摘出。6時間に及ぶ難手術でした。

『胃がないので、手術後は細かく5回くらいに分けて食べました。初めの頃はすぐつかえて窒息しそうになり、苦しくて戻してしまう。それでも食べなきゃいけない。げっそりした姿をお客さんには見せられませんから』

直後に決まっていた新宿コマ劇場公演はさすがに諦めましたが、翌年1月のハワイ公演はなんとか実現させたい。その一心で40曲を歌い切り、気力で公演を成功させました。『これが最後だ、一期一会だと、悔いがないように歌いました』と渥美さん。やがて公演で各地を回る生活が戻りましたが、体は元通りではありません。

消化を助けるために、よく噛んでゆっくり食べる。時間がかかるので、料理が冷めて食欲がなくなる。目先を変えるため毎日5回の献立は手を替え品を替え…。思いついて奥さんが買ってきたのがホットプレートでした。ご飯や味噌汁を置いて、温めながら一口ずつ食べました。

『…おかげで食べられました。掃除・洗濯をして一日5回の食事を作る。手術後5、6年は、女房がソファに座った姿を見たことがありません』

少しずつ食べても食物が下りていかないため、腸を活発にさせるには食後の運動が必要です。一方、食後すぐ横になると食物が逆流するおそれがあり、疲れていても食後2時間は眠れません。公演後、空腹のあまり腸液が逆流して、食道炎になったこともありました。

『こうなった以上、自分の体とうまく付き合っていくしかない。脾臓をとったので免疫力が下がり風邪をひきやすい。咳が出たら歌えないので、少しでもおかしいと思ったらすぐお医者さんにかかります』

95年に始めた「人仁(にんじん)の会」は阪神・淡路大震災を自らのがん体験と重ね合わせて、他人事とは思えなかったため。以来、チャリティコンサートの収益金を毎年被災者に贈り続けています。

『以前は飲めなかったお酒も、リラックスするために最近いくらか飲んでいます。楽器が好きなんでギター以外にピアノ、マンドリン、ドラムもやっていますよ』と、日々の節制の辛さは感じさせずあくまでも前向きです。手術後20周年の今年9月、入院当時ベッドの上で自ら作詞・作曲した「なみだの花」を発売しました。

『胃がなくても元気に歌い続けられる。…この歌が自分への応援歌だと思っています』

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« ネトウヨ学園... ニューヨーク... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。