物足りない自民党総裁候補たち…吉田松陰に学んだらどうか 阿比留瑠比

時宜を得た解説

 

物足りない自民党総裁候補たち…吉田松陰に学んだらどうか 阿比留瑠比 - 月刊正論オンライン

事実上、日本の次期首相を決める自民党総裁選を九月に控え、永田町の話題は「誰を選べばいいのか」一色である。国民の信頼を失い、政党支持率も低迷する自民党としては、「新しい選挙の顔」を求めるのは当然ではあるだろう。実際、多くの名前が挙がっているが、現状では「この人」と衆目が一致するところまでは煮詰まっていない。

岸田文雄首相はまだ再選を目指しての出馬を表明していないし、高市早苗経済安全保障担当相や河野太郎デジタル相は閣内にいるため、発信は控えめである。党ナンバー二の茂木敏充幹事長はギラついて見えるが、本格的に戦端を開くのはまだ先だろう。

小泉進次郎元環境相や石破茂元幹事長、加藤勝信元官房長官らも意欲はうかがえるが、まだ様子見といえようか。四十九歳の小林鷹之前経済安保相の去就が取り沙汰されているのは新鮮ではあるが、強い熱気は伝わってこない。

総じて、おとなしい。いたずらにバカ騒ぎせず、落ち着いているといえば聞こえがいいが、日本のトップの座を獲りにいこうという狂熱、今の日本を救えるのは自分しかいないという強い確信のようなものは感じられない。

まだ時期的に少し早いとはいうものの正直、物足りない。国際情勢がこれだけ風雲急を告げる今、居ても立ってもいられず、決起しようという者はいないのか。

諸君、狂いたまえ

そんな折に、週刊漫画誌「モーニング」に連載中の幕末・維新の主に薩摩藩を舞台にした作品『だんドーン』(泰三子著)の番外長州編を読み、非常にタイムリーだと感じた。

作中、安倍晋三元首相が心から尊敬し、必ず「先生」と敬称付きで呼んだ吉田松陰が、弟子(諸友)たちとの別れに際し、決死の行動を促してこう呼びかける場面である。

 

「諸君、狂いたまえ」

この言葉は松陰が実際に述べたものか後世の創作かは判然としないが、松陰が「狂」という言葉を重視していたためか広く流通している。そして、松陰は確かにこんな言葉を残している。

「狂愚まことに愛すべし、才良まことにおそるべし」

狂気のような情熱で一心不乱に行動を起こす人は愛すべき存在であり、ただ考えるばかりで行動できなくなることが恐ろしいといった意味である。いかにも行動の人、松陰らしい。

あくまで作中での創作だが、松陰の愛弟子の一人、高杉晋作が松陰の三十歳を前にした獄死後、こう決意を述べる場面も出てきて胸に迫る。

「先生の最期の教えだ 俺は狂うぞ」

これを読みながら思い返したのは、安倍氏が平成二十四年九月の自民党総裁選に当たり、衆院第一議員会館十二階にあった安倍事務所の執務室に掲げた高杉の次の言葉である。安倍氏の決意と覚悟を表している。

「邦家の為に正義を起こさんことを要す 雲となり雨となり天地を揺るがさんとす」

 

十二年前のこの総裁選への出馬を決めたとき、安倍氏の胸中には悪夢の民主党政権を経験し、「自分が総裁、首相にならなければ日本はダメになる」という狂気にも似た覚悟があったのだと思う。これも高杉の姿と重なる。

安倍氏と石破氏、町村信孝元官房長官、石原伸晃幹事長、林芳正元防衛相の計五人が立候補し、九月二十六日に投開票が行われたこの総裁選では当初、安倍氏は三位か下手をすると四位になり、政治生命を失うとも言われた。

しかも、自身が所属する町村派の会長が出馬しており、普段は長幼の序を重んじる安倍氏の行動パターンとは明らかに違った。派閥の支援を得られない安倍氏の基盤としては、派閥を超えた保守系の勉強会「創生日本」があったものの、誰がどう見ても不利な地点からのスタートだった。

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」

まさに、松陰のこの心境だったのではないか。安倍氏の側近や周囲にも、「まだ若いのだから、財務相や外相といった主要閣僚を経験してからでも遅くない」と出馬に反対する者は少なくなかった。 ただ、安倍氏は、総裁選に出ると決めた以上、やれることは何でもやるという姿勢だった。

 

例えば安倍氏は九月七日には、それまで面識もなかった麻生太郎元首相の側近、中村明彦福岡県議にいきなり、電話をかけた。そして開口一番、怒ったような声でこう言ったという。

「(要請しても)麻生さんが支持してくれないので、総裁選に出るのはやめます」

特に縁もなかった安倍氏からの電話に驚いた中村氏は「そんなことを突然、私に言われても」と思いつつ、返事をした。

「麻生さんは今回、安倍さんは厚生労働相でもやって禊ぎをし、次を狙えばいいと言っています」

この頃、麻生氏は後援会や福岡県議らに「谷垣禎一総裁でいく」と公言していた。ところが安倍氏は納得せず、こう断言した。

「もう待てません。今、私が総裁になって衆院選で勝って、政権交代して首相にならないと、日本はダメになります」

中村氏は当惑したが、「そこまで言うのなら」と思い直し、「麻生さんに進言しよう」と覚悟を決めたという。

その三日後の十日、中村氏は福岡県内の麻生事務所で麻生氏と向き合っていた。麻生氏は中村氏の顔を見るなり、安倍氏を含めた各候補の現状を滔滔と語り、「今回は谷垣氏でいく」と繰り返した。

 

これに対し、中村氏は説いた。安倍氏から感じた「熱」に突き動かされたのだろう。

「とはいえ、これまで谷垣氏は一度でも麻生先生を推してくれたことがありますか。仮に谷垣氏が首相になっても、麻生先生を重要なポストにつけて、国のために働かせることはしないでしょう。安倍さんなら先生と一緒にやるでしょう。先生が将来、政界を退いて、誰かと思い出話でもしようというとき、思い浮かぶ顔は誰ですか。谷垣氏ですか。石原氏ですか林氏ですか。違うでしょう」

すると、麻生氏は「うーん」と天を仰ぎ、中村氏に「安倍でいけるのか」と聞いてきた。

「先生が動けばいけますよ」

中村氏はこう答えはしたが、当時の麻生派はわずか十人しかおらず、内心「これだけの人数でどうなるのか」とも思っていた。

だが、麻生氏はしばらく考えて「分かった。安倍氏でいく」と決断し、中村氏に「ありがとう」と礼を述べたのだった。

そして中村氏が麻生事務所を後にして二、三十分後、安倍氏から「麻生さんから明日夜十時に家に来てくれと言われました」と電話があり、さらに当日の午後十一時にも報告の電話があった。

 

「麻生さんが応援してくれることになりました」

その後、安倍氏と中村氏は家族ぐるみの付き合いとなった。狂気じみた政治家の情熱が別の政治家へと伝播し、思いがけない結果へと導く。それが人の縁や関係性だけでなく、国のあり方すら変えていった一例だといえる。

このときの総裁選では、予期せぬ出来事がいくつも起きて、安倍氏は逆転勝利し、安倍氏は七年八カ月の長期安定政権を築く。

総裁選は当初、地方行脚を重ねて地方党員をまとめた石破氏と、古賀誠元幹事長ら党重鎮に推された石原氏の事実上の一騎打ちになるとみられていた。

ところが、自分を幹事長にしてくれた総裁の谷垣氏を差し置いて出馬し、谷垣氏を不出馬に追い込んだ石原氏は、麻生氏に「平成の明智光秀」と呼ばれて人望を失っていく。安倍氏をあてこするように健康さをアピールしていた町村氏は急病を患い入院して戦線離脱してしまう。

最終的には安倍氏が石破氏との決選投票の末に勝ったが、このほとんどの人が予想しない結果となったのは、安倍氏が「私しかいない」と物狂いとなって突き進んだからだろう。天運が味方したとしか思えない奇跡の勝利を掴んだのである。

 

総裁選を党再生につなげよ

安倍氏は普段は温厚な常識人だが、何かのきっかけでスイッチが入ると、誰も止められない状態となる。安倍氏自身、令和二年六月には、翌年の総裁選と自分の後継者を見据えてこう語っていた。

「菅(義偉官房長官、当時)さんは二世タイプは好きではない。強烈な情熱、私はこれをやるんだという意思を持つ人が好き。私は二世だけど、それがあるから昔からうまくやれた。政治は人を動かすかなりの要素、つまり情熱が大事だ」

安倍氏の言う強烈な情熱は、時に他者の目には狂気にも映る。

令和三年の総裁選で、高市氏が出馬した際の安倍氏の支援、熱の入れようも尋常ではなかった。自らの選挙でもないのに若手議員に直接電話し、時に脅すような文句も吐いて高市氏への投票を約束させた。麻生氏が「なぜ、そこまでするのか」と驚くほどだった。

実は安倍氏の祖父、安倍寛元衆院議員も「昭和の吉田松陰」と呼ばれた人物だった。ジャーナリストで歴史家の徳富蘇峰は、松陰について次のように書いているが、まるで令和四年の参院選の最中に暗殺された安倍氏のことのようにも感じる。

 

「彼が一生は、教唆者に非ず、率先者なり。夢想者に非ず、実行者なり。彼は未だ嘗て背後より人を煽動せず、彼は毎に前に立ってこれを麾けり。彼はいわゆる己が欲する所を以て、これを人に施せしのみ。もしくはこれを人に強いしのみ」

「彼は知己の感を以て、その子弟を陶冶せり、激励せり、彼は活ける模範となりて、子弟に先ちて難に殉ぜり。否な、子弟のために難に殉ぜり。懦夫といえども、なお起つべし、いわんや平生の素養あるものにおいてをや。いわんや恩愛の情、知己の感あるものにおいてをや。彼はその子弟に向かって我が如くなせといえり」(岩波文庫『吉田松陰』より)

もちろん、誰も安倍氏と同じようなことはできはしない。それは分かっていても、今の日本の政治のていたらくでは、泉下の安倍氏に叱られるのではないか。

七月七日に東京都内で開かれた第二回「安倍晋三元総理の志を継承する集い」で、高市氏がこう挨拶していた通りである。

「やはり安倍首相に代わる方は、これからも出てこないでしょう。(中略)代わりはいない、安倍首相に代われるような力を持った人もいないかもしれないけれども、みんなで力を合わせて一つずつそれぞれの持ち場で頑張っていきましょうよ。それが恩返しだと思います」

 

思えば一回目の総裁選に出馬する直前の平成十八年八月、小泉純一郎内閣の官房長官だった安倍氏は、小泉氏が松陰が投獄されていた山口県萩市の野山獄を視察した際に松陰の次の言葉を紹介した。前途に立ちふさがる困難を見据えて、自分自身を鼓舞していたのかもしれない。

「士たる者は其の志を立てざるべからず。それ志の在る所、気もまた従ふ。志気の在る所、遠くして至るべからざるなく、難くして為すべからざるものなし」

志とやる気があれば、遠くてもたどり着かない所はなく、難しくてもできないものはない。

現在の自民党はたび重なる不祥事や不人気ぶりに活気を失い、元気がないように見える。安倍氏が亡くなってからは、自民党だけでなく政治全体から明るさが消えた感もある。

だが、それぞれが志を掲げ、百折不撓の精神で死にもの狂いになって突き進めば、自ずと理解者や支援者が増えてゆき、道は開かれるのではないか。総裁選は、国民に自民党の新しい息吹と人材を示し、再生へとつなげる格好のチャンスである。

 

松陰の門下生からは伊藤博文、山県有朋の二人の首相をはじめ数多くの人材が出て活躍した。安倍氏も第一次内閣発足時の所信表明演説でこう述べている。

「吉田松陰は、わずか三年ほどの間に、若い長州藩士に志を持たせる教育を行い、有為な人材を多数輩出しました。小さな松下村塾が『明治維新胎動の地』となったのです」

今度はそれと同様に、安倍氏とともに働き、知遇を得て、謦咳に接した人たちの中から、先頭に立って日本を背負う人物が何人でも現れてもらいたいと切に願う。

月刊「正論」9月号から)

あびる・るい

産経新聞論説委員。昭和四十一年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、産経新聞入社。政治部で首相官邸キャップなど歴任。最新著書は『安倍晋三〝最後の肉声〟最側近記者との対話メモ』(産経新聞出版)。

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