日本最高の名医を襲った悲劇

どれほど優秀な頭脳の持ち主でも、どんな人格者であっても、認知症を発症するリスクから逃れることはできない。

認知症に罹れば、これまでと同じように暮らすことは難しい。周囲のサポートがなければ、日常生活は破綻していく。

それは、たとえ日本最高の名医であっても、まったく同じだ。

都内在住で70代半ばの内野敏和氏(仮名)は、日本の医療界で知らない人はいない外科医である。

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東京大学医学部を卒業後、国立大学医学部教授や国内屈指の医療施設のトップを歴任。画期的な術式をいくつも考案し、難手術を成功に導いてきた。「神の手」と称される内野氏に命を救われた患者と、彼の教えを受けた弟子たちは日本中に数知れない。「天才外科医」としてメディアにも数多く登場してきた。

だが、その内野氏に2年ほど前から認知症の症状が出始めた。彼をよく知る病院関係者が語る。

「当時、先生は都内にある総合病院の院長を務めていました。発症した当初は、病院のスタッフや秘書らがフォローして仕事を続けていました。ところが徘徊が始まってしまい、GPSをつける状態まで病状が悪化し、何度か警察に保護される事態も起きました。そのため昨年中には院長職を退任しています」

女たちは逃げていった

これを聞いた医療関係者たちは大きな衝撃を受けたという。

「60代後半でも長時間の手術をやり遂げるエネルギッシュな方だったので驚きました。一方で誰が先生の面倒を見ているのかと、心配にもなりましたね」(内野氏と親交のあった医師)

内野氏は、私生活では結婚と離婚を繰り返していた。'05年頃に長年連れ添った元妻・A子さんと離婚。長男と長女の親権はA子さんが持った。

「それから約2年後に内野先生は、周囲の反対を押し切って、30歳ほど年下の若い医師と再婚しています。ですが、結婚生活は上手くいかず、2年ほどでまた離婚したそうです。その後は家政婦や秘書が身の回りの手伝いをしていたのでしょう。仕事場との往復は運転手付きのハイヤーで、自宅にはほぼ寝に帰るだけの状況だったと思います」(前出・病院関係者)

2度の離婚を経験した後、内野氏は港区内にある3階建ての一軒家で悠々自適に暮らしていた。しかも数年前までは「内縁の妻」がいたのだという。

「相手は一言で言えば、教え子ですね。先生はその方と入籍して老後の面倒を見てもらいたかったんだろうと思います。高齢になって一人暮らしだと、将来に不安を覚えるのは当然のことでしょう。しかし、先生の希望は彼女に受け入れられず、破局してしまったと聞いています」(前出・病院関係者)

次第に悪化していく症状

同居人がいない中、70代半ばに差しかかる頃に認知症を発症し、内野氏の脳は徐々に壊れていく。

近所の住民が語る。

「1年半ほど前から、挨拶すると顔見知りのはずなのに、初対面のような返事をされるんです。それで、ちょっとおかしいなと思っていました。

あるとき、先生宅の玄関がたまたま開けっぱなしになって、中が見えていたことがあったんです。すると扉のあたりに『出かけるときは財布を持っていきましょう』『〇〇しましょう』と書かれたメモ紙がたくさん貼ってありました」

 

その貼り紙を見るたびに、名医のプライドが傷ついたことは想像に難くない。近所にあった飲食店の店員はこう明かす。

「ある日、先生がお勘定のときにドル札を出したこともありました。でも、本人はぼんやりしていて、指摘するまでよく分かっていないようでしたね。メニューを選ぶときも、隣の人が食べているものを指して『これにする』と言った直後に、別の人のテーブルを見て『これにする』と言うこともありました。また、いつもマスクをしていなくて、何度お願いしてもつけてくれなかったことを覚えています」

徘徊して、なんと北海道へ

そして、今年に入って”大事件”が起きた。

内野氏が徘徊した挙げ句、独りで飛行機に乗って北海道に行ってしまったのだという。

「以前の内野先生は学会に参加するためなど、出張で国内外を飛び回っていました。おそらく何年か前に北海道で講演か手術の依頼があったことを急に思い出したのでしょう。認知症の症状の一つとして、時間が分からなくなるということがあります」(前出・医師)

内野氏は現地の警察署に保護され、事なきを得た。だが、これ以上、一人暮らしを続けるのは不可能だった。

 

とはいえ、内野氏は独り身。兄弟たちは高齢で、元妻たちには介護する義務はまったくない。誰が責任を持って引き取るのか、親族たちは頭を悩ませたようだ。

「2番目の若い元妻とは、離婚後はほぼ連絡をとっていなかったとか。最終的には最初の元妻・A子さんと暮らしている長男が身元引受人となり、空港にも迎えに行ったと聞いています。元妻たちと違って、長男は遺産相続人でもありますし、放っておくわけにはいかなかったのでしょう。内野先生を自宅に連れて帰り、しばらく同居したそうです」(前出・病院関係者)

「私は他人なので」

本誌はA子さんと長男が暮らす自宅を訪ねた。すると、A子さんが事情を説明してくれた。

「今年2月頃から2ヵ月近く、(内野氏は)この家で過ごしました。その間に住所をここに変えて、息子が介護保険や老人ホームへの入居に関する手続きをしました。本人の病状が、私のことも誰かよく分からず、息子の名前もずっと間違えて呼ぶほど進行していたんです。

いまは老人ホームで問題なく過ごしています。要介護度が改善する可能性は低いですが、身体は元気だそうです。

もう少し早く介護に関する手続きができればよかったんですけれど、(独りで北海道に行った)状況がなかったら、息子も私も面倒を見る決断はできなかったと思います」

A子さんは最後に「私は他人なので」という言葉を強調して自宅へと戻っていった。

 

内野氏の兄も医師であり、彼もまた名医として知られる。本誌が取材を申し込むとこう話した。

「個人的なことはお話しできません。(一般論で言うと)きちんとした施設で、交代で面倒を見るのが一番正しいやり方です」

内野氏は人命を助けることを己の使命として生きてきた。だが、医学界の宝ともいわれたその手技と知識は認知症によって失われ、雲散霧消してしまった。

もっとも、彼自身がその異変に気づくことは、永遠にない。哀しくも、それは唯一の救いといえるかもしれない。

「週刊現代」2022年11月19・26日号より