「泳げない人間は沈める」「年収100万円以下が当然」など数々の名言を残してきた。
柳井正の言葉の端々から感じられるのは日本への強い憎悪だが、その理由は柳井一族の出自にあった。
(『ユニクロ柳井正 語られない一族の出自と解放運動』http://www.thutmosev.com/archives/48935161.html)
ユニクロの起源は柳井正の叔父である柳井政雄の「小郡商事」が始まりで、政雄は要するにやくざでした。
柳井政雄の叔父(つまり柳井正の父の叔父でもある)柳井傳一は、解放運動の先駆けである全国の創設メンバーでした。
なぜ柳井傳一が最初期の解放運動メンバーだったかは、柳井一族が住んでいた山口県の村と関係がある。
「」というものを東日本の日本人はほとんど知らない筈で、首都圏周辺に少しある他は東日本にはあまりない。
ない理由は「渡来人」が西から上陸したからで、当時日本の中心だった九州から奈良周辺に多く居住した。
の起源は渡来人集落とされていて、新たな渡来者が来るたびにに加わり、今も大阪などでは拡大が続いている。
渡来人と民の関係
柳井傳一の出身地は山口県陶(すえ)で柳井政雄の出身地は同県小郡町、現在はどちらも山口市小郡郵便局の管区内にある。
全國調査(1935年)によると山口県陶には200戸、1000人以上の民が確認されていた。
また調査時に山口県には「柳井」という地名のが多数確認されていました。(山口県 - 地区Wiki)
は江戸時代に身分制度の底辺とされ、出身地で身分が固定されていて暮らしは過酷だったと思われる。
明治、大正、昭和期になっても格差は存在し、出身者とは結婚させなかったり就職できないなどの問題があった。
これには実際に出身者は低学歴で低収入だったり、出身者の犯罪率が他の10倍以上高いなどの事実もあった。
このように他の地域と隔離された理由は、渡来人と他の日本人の間に対立があったため、渡来人は渡来人だけの集落を作らせたと想像できる。
渡来集落は弥生時代から始まったが、江戸時代になっても新たな渡来が続き、現在でも大阪の鶴橋などは流入が続いている。
ヤマト王権や徳川幕府や明治政府は、新たな渡来人を渡来人集落に居住させて他と区別した。
上は弥生時代の渡来人集落、下は所在地で完全に一致する。
とは渡来人集落が元になっていると推測できる
柳井一族の日本人への怨念
渡来人集落が存在する場所とが存在した地域は完全一致していて、2つは事実上同じであるのが分かる。
さて江戸時代までで産まれた者は永遠に民だったのが、明治維新によってどこにでも自由に引っ越したり起業できるようになった。
柳井傳一がいち早く解放運動に参加した理由はここにあり、彼はの初期メンバーとして一目置かれる存在になった。
柳井傳一の甥の柳井政雄は職を転々とした後やくざになり、足を洗って傳一から資金を出してもらい簡易宿舎を始めた。
これが1932年の事で、当時の500円(現在の100万円相当)で始めた事業は木賃宿、材木商、運送業と拡大した。
柳井政雄は1946年に日本社会党公認で山口市議、次いで山口県議会議員に当選し、佐藤栄作から請われて自民党に活動を移した。
柳井政雄の弟が柳井正の父、柳井等(ひとし)で最初兄の会社の呉服部門だったのを1949年に独立して「メンズショップ小郡商事」を開業した。
柳井等も兄と同じでやくざ関係の交友が多く、小郡商事もその手の会社として始まりました。
柳井正は早稲田を卒業したが就職に失敗しぶらぶらしているのを見かねて、父が小郡商事に入社させた。
柳井正は「努力しろ」「苦労しろ」が口癖なのだが、学生時代はパチンコとマージャンにハマり、就職に失敗し親の会社にコネ入社して社長になった。
親から受け継いだのは会社だけではなく、日本人への憎悪と復讐心でもあるようです。
(この記事は公表されている客観的事実のみによって構成されており、個人を中傷するものではない)