2021年10月9日のライプツィヒ

コロナのせいで日独の間の往来はもちろん、ドイツ国内の移動も不便になって、すでに1年半が過ぎた。私が旧東独のライプツィヒに越したのは今から2年余り前だが、せっかく素晴らしいドイツ東部の文化や風土を、まだ十分に堪能することができずにいる。

旅行に行こうにも、長いあいだホテルはビジネス客しか泊まれず、レストランも閉まっていた。オペラ座やコンサートホールも閉鎖が続き、ようやく開いたあとも小さい編成の、あまり知られていない演目ばかり掛かっていた。今、だんだんそれらが急速に元に戻り始めているのが嬉しい。

 

ちなみに、これまで休暇は外国で過ごすことの多かったドイツ人だが、現在、国内の観光地がブームになっている。たとえお隣のイタリアやフランスであっても、予期しないコロナ禍に巻き込まれる面倒は避けたいという防御反応が働いているのだ。ドイツには風光明媚な場所が多々あるので、皆、思いがけない「ドイツ再発見」に、結構満足しているようにも見える。

ライプツィヒ市はザクセン州に属し、ポーランドと国境を接している(ザクセン州の南部はチェコとも繋がっている)東西ドイツの統一は1990年だが、これは統一というより、西による東の併合だった。

東の人が喜んだのは束の間で、あっという間に西の「占領軍」がやってきて、民間企業でも役所でも大学でも、長と名のつく役職は全て奪っていった。東の人々にしてみれば、不平等条約が横行するようなやりきれない思いだったと想像する。

以来すでに31年が過ぎたが、人口は東から西へとコンスタントに流れ続け、東の過疎と高齢化には今も歯止めがかからない。

 

東西を結ぶ鉄道網は、南北方向の路線に比べると貧弱だし、東の新しいアウトーバーンは交通量が少ないため、サービスエリアやガソリンスタンドの密度が低い。東で働いていた人と、西で働いていた人の年金には、今なお差があるし、人々の心のわだかまりも無くなったわけではない。

ところが、その旧東独の中で珍しく人口が増えているのがライプツィヒだ。現在の人口は60万5000人で、ザクセンの州都ドレスデンよりも5万人近く多い。出生率もV字回復中という元気な町である。

ドイツの中心は東にあった

私はここへ来る前、シュトゥットガルトに37年間も住んでいた。シュトゥットガルトというのは自動車の町で、ベンツとポルシェの本社がある。当然、その関連会社も山ほどあり、景気は良く、人々は自信満々。地価の高騰さえ自慢の一つだった。そして、西の人間の例に漏れず、たいてい東を少しだけ見下していた。

さて、そんな町に住み、漠然とドイツのことは知り尽くしているような気になっていた私だが、ライプツィヒに住み始めると、目から鱗ともいうべき新たな発見が多く、衝撃的だった。

まず、肌で感じたのが、そもそもドイツの中心は、東にあったのだという歴史的事実。その中でもライプツィヒは、学問、商業、芸術(特に音楽)、どれをとっても、まさにその頂点を極めた町で、その名残は、今も町のそこかしこに色濃く残っていた。

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町の中心には、バッハが25年も音楽監督をしていたトーマス教会があり、当たり前のように礼拝やコンサートが行われていたし、通りがかった建物にさりげなく貼ってあるプレートを見ると、「クララ・シューマンの生家」などと書いてあった。

ライプツィヒ大学の入口ホールには、ここで教鞭を取ったり学んだりした人々、たとえば哲学者ライプニッツや、メビウスの輪で有名な数学者メビウス、ゲーテやニーチェなどの胸像がずらりと並んでいた。また、入り組んだ建物の間には、過去の瀟洒な商館を彷彿とさせるパッサージュと呼ばれるアーケードなどがそのまま残っていたりもした。

ライプツィヒはまた音楽のメッカでもあり、ここで音楽会を訪れると、シュトゥットガルトとは一風違った空気が漂っていた。人々は、ステータスを見せびらかすためではなく、音楽を聴くために粛々と集まってきた。

 

東独時代の40年間、西に比べて娯楽の少なかったこの国で、人々が愛し、守り続けた伝統が、今もなお頑固に受け継がれているように感じられた。今まで私が聞いていた音楽がデジタルなら、ライプツィヒはアナログで、人間の息遣いが残っているようだった。

市内の建物は、東独時代には煤けて見窄らしくなっていたに違いないが、今ではすっかり修復されて、有名なものも、そうでないものも威風堂々としている。そして、その建物と空気に、何世紀分もの歴史が澱のようにへばりついていた。

ライプツィヒに来て、私はようやく思い出した。戦前までのシュトゥットガルトは貧しい土地であったということを。ライプツィヒの長い栄華に比べれば、自動車産業やIT産業の勃興などつい最近の話だ。その西の人間が東を見下すとは、まるでお門違いだと思った。

東の人たちは寡黙なプライドを胸に秘めつつ、何も言わないけれど、ひょっとすると、心の中で西の成金ぶりに苦笑しているのではないか。

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2年ぶりに開かれた「光の祭典」

1989年のベルリンの壁の崩壊を招いた国民運動は、ライプツィヒで始まった。町の中心にあるニコライ教会で、毎週月曜日に開かれていた集会は、最初は宗教のヴェールを被っていたが、そのうちに「外へ!」というスローガンとともに教会から飛び出した。ドイツ史に名を残すことになる「月曜デモ」である。

9月4日、デモの参加者は初めて1000人を超えたが、独裁国での政府に対する抗議集会であるから、当然、逮捕者が出た。しかし、人々は諦めず、25日には8000人、10月2日には1万5000人と、参加者は鰻登りに増えていった。

真の突破口となったのは10月9日だ。この日、参加者は一気に7万人に膨らんだ。当然、その情報は当局に筒抜けで、ホーネッカー書記長は警察に武力介入を命じていた。夜、サーチライトの光る中、集まった市民と武装警官隊の間には一触即発の緊張が張り詰めた。惨劇になってもおかしくないはずのところ、しかし、この夜、警官隊はホーネッカーの命令に従わなかった。市民が勝ったのだ。

この後、全東独で抵抗運動が炸裂し、ちょうど1ヶ月後にベルリンの壁が落ちる。東西ドイツの統一は、国民の力で民主主義を達成した無血革命と言われるが、中でもライプツィヒ市民の果たした役割は大きかった。

 

それを記念して、ここでは毎年10月9日の夜、「光の祭典」と名付けたイベントが催される。去年はコロナ禍で中止されたが、今年はそれを取り戻すかのようで、夜の帳が下りるころには、町はすごい数の人々で溢れた。あちこちで、小さなキャンドルを入れたプラスチックのカップを配っており、皆がその一点の光を手に暗い町をそぞろ歩く。ただそれだけで絵になる美しさだ。

今年のイベントは、密集を避けるために3ヵ所に分けられたが、オペラ座の前のアウグストゥス広場でのイベントが特に印象に残った。

広場の中心の櫓に設置された映写機から周りに向かって、何本かの光が放射線状に放たれている。そして、そこに用意されている長い柄のついた看板のような形のスクリーンを、集まった市民がそれぞれ自主的に手に取り、頭上に掲げて、映写機からの光の束を受ける。すると初めて、映写機から出ているその光が、それぞれのスクリーン上で像を結んだ。

映写されたのは、1989年の10月9日のデモの写真だった。モチーフは、デモの参加者の真剣な表情や、彼らが持ち寄った手作りのプラカードなど、当日の現場写真だ。そして広場中にBGMのように、デモのオリジナルの音声が響いていた。当時の悲痛な呼びかけや、人々のシュプレヒコールを聴きながら立っていると、あたかもデモの現場にいるような緊迫した臨場感に包まれた。

スクリーンは、何人かが協力して横並びにくっつけると、映し出される映像は細切れでなく、大きくなる。見知らぬ人たちのそんなさりげない共同作業が、無言のままにも、辺り一帯に心地よい連帯感を醸し出していた。スクリーンの持ち手は、しばらくするとそれを誰かにバトンタッチして去っていく。ただ、それだけなのに、なぜか感動した。

 

ライプツィヒでよく思う。私はドイツをまだまだ知らないと。これまでろくに旧東独を知らずにドイツを知っているつもりだったのは、恥ずかしいことだった。おそらく、ライプツィヒと、旧東独のその他の田舎の間にも、今の私が想像もつかないほどの大きな差があるのだろうと思う。

ある国を完全に知ることなど不可能だが、今、ライプツィヒのおかげで、しばらく忘れていたドイツに対する興味が再び蘇ってきている。