高杉晋作率いる長州軍は、幕府軍の欠点を見抜き、3,000人で15万人を迎え討った。
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引用:http://www.historyoffighting.com/resources/Takasugishinsaku_kendo.jpg



15万人が400人に負けた戦争

明治維新に至る長州と幕府軍の戦争が長州征伐だが、260年間続いた徳川幕府が小藩に負けた。

長州と幕府の直属の軍事力を比較すると、意外にも徳川幕府は強大ではなく、むしろ弱かった。

徳川幕府軍の瓦解の始まりは、1864年(元治元年)の第一次長州征伐から始まる。
 

同年7月19日、尊皇攘夷を掲げる長州藩は、京都守護職の会津藩や幕府から朝廷を解放するため、京都御所に攻め込んだ。

前年の8月まで朝廷は長州藩に攘夷を命じるなどし、長州藩は主導権を握っていたが、幕府の巻き返しによって京都から追放されていた。

長州藩はこれを幕府の陰謀であるとして、朝廷を解放すると共に、再び京都で主導権を握る狙いがあった。


7月19日の禁門の変で長州藩は散々に打ち破られ、敗軍として帰還し、7月23日に朝廷は長州追討の勅命を発した。

14代将軍徳川家茂の号令に15万人が集結し、長州藩は戦わずして降伏し、幕府も犠牲を出したくないので、形式的な処分をして引き上げた。

1866年(慶応2)6月に幕府は再び朝廷から長州討伐令を得て、再び15万人の兵力を得て、兵力3,000人あまりの長州藩に襲い掛かった。


ところがなんと兵力15万人の幕府軍は、実質1,000人程度しかいなかった長州軍に、こてんぱんに負けて逃げ帰ってしまった

高杉晋作と山縣有朋率いる長州軍の主力部隊約400人は、元治2年(1864年)1月5日に絵堂を、1月7日に太田を奇襲し占領した。

幕府軍は総崩れとなり、後は散り散りになって逃げ帰るだけとなり、この時実質的に徳川軍は崩壊した。


どうして幕府軍は弱かったか

15万人で400人に負ける徳川軍が、薩長連合に勝てるはずが無く、連戦連敗で1868年(慶応4年)に江戸城を明け渡した。

ここまでで誰しも疑問に思うのは、どうして幕府軍は15万人もいて、長州の数百人に勝てなかったのだろうという点でした。

薩摩藩は1866年(慶応2年)に薩長同盟を結び、長州藩に近代鉄砲などを渡していたが、幕府軍の敗因はこれでは無かった。

徳川幕府軍の編成には根本的な欠陥があり、1600年に豊臣軍と戦うために編成され、260年間そのままでした。

まず幕府軍には直属の兵士が1人もおらず、全員が「借り物」のレンタル兵士でした。
戦国期以前の軍隊では、配下の武将に領地を与えて、後はほったらかしで自給自足させます。

徳川軍には旗本八万旗が居ましたが、領地を与えただけで徳川幕府は、何の面倒も見ていないのです。

旗本は兵士から武器まで自前で揃えなくてはならないが、関が原の合戦で使用した甲冑や槍しか持っていませんでした。

また旗本が戦争に参加する義務は無く、「参加したくない」と断る武将が多く居ました。

戦意無き幕府軍

というのはもし長男が戦争に出て戦没したら、家禄没収でお家取り潰しになり、何もメリットが無いからです。

参戦しなくても罰則は無く、せいぜい出世が遅れる程度だったので、多くの旗本は代理人を立てたと言われています。

お金で代わりの人を雇って出兵してもらい、「形だけで良いから」と言って送り出しました。

当然そうした人達が真剣に戦うはずが無く、長州軍の鉄砲の音を聞くと逃げ回り、さっさと帰還してしまいました。

徳川軍の欠点は江戸開城の時にも現われ、薩長軍が江戸を包囲したとき、江戸城を守るべく集まったのは、500人だけだったと言われています。

500人は幕府から直接給料を貰っていた同心達などで、旗本は今回も参戦せず、降伏するか逃げ出していました。

直接雇っていた兵士の人数で比較すると、長州は3,000人、幕府は500人だけであり、むしろ幕府軍のほうが少なかった。

しかも幕府が直接給料を払っていた500人の同心は犯罪捜査などをしており出兵しませんでした。

幕府についた諸藩も旗本と同じで、参戦義務もやる気も無く、何のメリットもない戦いに戦意は停滞していました。

鉄砲などの装備はむしろ徳川軍が優れており、長州藩より少ないことはなかった。

参戦義務のない武将や兵士が十万人居たとしても、結束した数百人には勝てませんでした。