連続無窮

ベイスターズファンの名も無き同行が他力信心を通して知らされた世界を綴らせて頂きます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

お育て・おかげ

2012-01-09 19:13:14 | 真宗・信心
 私を別院へのお参りに誘ってくれた同行からメールが来た。
「欲に負けてお参りできない」
というようなニュアンスの言葉であった。

 このメールが来たのが別院に向かう列車の中であった。

「いったい何を考えているのか!!」

 頭にきてすぐメールを削除した。私は心の中で件の同行を痛罵していた。

 別院に到着し、勤行していても、怒りはおさまらぬ。仏さまの御前に坐しながら、腹の底に渦巻くは阿修羅の世界。

 とても仏の法を聞きに来た「人間」ではなかった。
 讃題は、「阿弥陀経」の光寿二無量のお言葉だった。

 法座が始まり、しばらく経った後、利井興弘師の言葉を通したお説教を聞いて私は居ても立ってもいられなくなった。

 私は念仏者だ、私は友同行が「欲に負けた」と言っている中、遊びをキャンセルして法座に参ったと言っているが、私の手を合わせ、口を開き、聞かぬ耳を開いて下さったのは、どこのどなたなのか……

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

 とどまることのないお念仏が口をついて出る。

 申し訳ない。日曜日に件の同行よりお参りの催促を受けながら、私は欲を満たすことばかり頭に浮かべていた。

 参る気のない私が、普段信仰の不徹底を指摘している件の同行に動かされ、お念仏を申しているのに何てザマだ。

 そんな時、合掌礼拝する左右の手を合わせさせ、南無阿弥陀仏と称える口を動かし、法座に参ろうとする心を動かすのはどなただったかが分かった。

 阿弥陀さまに動かされた諸仏のお働きではないか。
 現世利益和讃の諸仏護念の世界を、参らぬ私を参らす身体へのお働きとだけ味わっていたが、拝む手、称える口、感謝の念すべてが「おかげさま」なのだと知らされた。

 よくよく考えてみれば、門徒の家に生まれた訳でもないのにお念仏を喜ぶ身になれたのは、身近なお同行の阿弥陀さまを讃嘆する言葉とお念仏の声であった。
 件の同行も、実家が門徒でお念仏の声に育てられたとのこと。

「あの人も、この人も、おかげさまなんだなあ。そのおかげさまに動かされ、今ここに私の口からお念仏が出ているんだなあ」

 お領解文を頂きながら、曇天模様の心の空に、光がさすのを感じた。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

ノンフィクション

2012-01-03 14:13:19 | 真宗・信心
「お経」について、最初は「死者をいい所に連れていく不思議な呪文」だと勘違いしていました。これは幼稚園児から高校生までの大いなる勘違いです。

 その後、「浄土真宗」を名乗る団体で聞いていた時のこと。最初のうちは、「阿弥陀さまのご本願というのはとんでもない劫の昔にあったおとぎ話」だと勘違いしていました。

 やがて、「『宿善』が厚くなった先の世界を説いたもの」だと受け止めておりました。

 それから20年近い時を経て、私は浄土真宗に出遇いました。それより後は、お経は宗教的真実を記されたノンフィクションと味わっております。嘘も脚色もないです。
 主役は阿弥陀さまで、主人公である阿弥陀さまが純朗房義信を助けるために何をしたもうかが書かれています。

 あとは、言うた通りをそのまま聞いて、聞いた通りをそのまま思い、南無阿弥陀仏と申すばかりです。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

 実は読む人によって阿弥陀さまが誰を助けるのか、そのお目当てが違います。
 太郎さんが読んだら阿弥陀さまが太郎さんを助けるためと書いてありますし、花子さんだったら花子さんを助けるためと書いてあります。



 ふと思い出しましたが、、「おとぎ話」についてこんな風刺がありました。ロシアがソビエトと言われていた頃のこと。
・資本主義国と社会主義国のおとぎ話の違い。資本主義国では「むかしむかしある所に、…」で始まるが、社会主義国では「やがて、いつかは、…」で始まる。

 つまり、ソビエト連邦では「社会主義から共産主義になって云々」とさんざん喧伝されていたわけですが

謹賀新年

2012-01-03 11:30:56 | 真宗・信心
明けましておめでとうございます。

生の行方も知らず、死していずこへ向かうのかも分からない私に、阿弥陀さまはこのように仰せになられました。

「どうかお願いだから、我が国に生まれられると思うてお念仏を称えてくれよ」
 この仰せに従った相を加茂仰順和上はこのように言われております。

「私は阿弥陀如来の仰せの『助けるぞよ』をそのまま素直にハイと頂きましたのです」

 往生するために必要なものは、この私には持ち合わせがありません。
 阿弥陀さまがすべて用意されております。そして、阿弥陀さまのお呼び声は、この私に届いております。

 私は、自分で自分の心を手細工するのを止めて、阿弥陀さまの仰せに従い、南無阿弥陀仏と申すばかりです。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏