真宗 と カウンセリング (with PTA活動)

ブログマスター「MANU.」の日々味わう、真宗・カウンセリング・親子コミュニケーションを通じた日常の記録

DPAということ、非構成エンカウターグループということ 〜DPA研究会ワークショップに参加させていただいて

2012-05-20 17:07:33 | エンカウンターグループ

DPA研究会のワークショップ「非構成エンカウンターグループ」に参加してきました。
DPAとは「Dharma-based Person-centered Approach =仏法を根底にした人間尊重のアプローチ」ということで、カウンセリングの要となる「PCA Person-centered Approach」の関わりに、そこに居る一人一人が仏法によりつながっていることを大事にする場だと認識しています。
これは真宗カウンセリング研究会でも共通のことですね。

今回、DPA研究会さんでエンカウンターグループを立案された際に、ファシリテーターとして声をかけていただきました。
私自身はDPA研究会に所属していないのですが「外部の方の方が良い」ということで声をかけたいただいたようです。
そして、真宗カウンセリング研究会の方でDPAの理念は私なりに実践していますので、そう遠い人間でもないようでした。

普段世話人しているワークショップやグループは、その役割上参加者を把握していますが、今回は一部FB上で参加表明されている方以外は当日まで誰が来るか知らないままでした。

このPCA・「人間尊重のアプローチ」ということを考えたとき、その人の経歴・立場・思想・興味などは事前に知る必要はなく、今目の前に居るその人の「ありのままの姿」と触れ合うことが大事だと考えています。
もちろん、触れ合っていく中でその方の「持ちもの」は言動の中に現れてきますし、表に出てきた「今の姿」であるならば、その方がのぞむ「こう見て欲しい」という立場や状況なども受けとめさえてもらいます。

逆に、よく知っている方が参加されているとき、ある程度「知っている」ことがありますし、それを無いものとして関わるのは無理があります。
「その方を知っている私」というのは、その時点での「ありのままの私」ですから。
ただそのことを、当人が言葉にしないのに「この方はこういう経歴で」と私が代弁することは必要ありません。
他の参加者が、今目の前で触れる「その方の姿」であればいいのです。

そこに「Dharma-based =仏法を根底にした」が加わるとどうなるのか。
残念ながら提唱された西光先生にこのことを聞かせてもらう機会がありませんでした。
なので、法座や真宗カウンセリングで西光先生と触れ合ったところから感じている、高橋我流の考えだという前提で。
真宗カウンセリングだからとか、Dharma-basedだからということで、「仏法」「真宗」の話をしないといけないということはありません。
ただ、一緒に語り合っている中で、そのお一人お一人が根底に持っている「法との関わり」は放っておいてもにじみ出てきます。
それは真宗に限らず、いろいろな形で現れます。
「法座」となると、そこに「導き」というものも入ってくるかもしれませんが、一人一人のパーソンを大事にする場とすると、そこに「否定・批判」はなく、「あなたはそう受け取っているのですね」と受けとめあいます。
また、その方がまったく仏法にかかわりが無くとも、そこに居られること、ご縁があって同じ時間と場を共有していることだけで、私には「根底に流れる仏法でつながっている」と感じられます。
私にとっての仏縁ですね。
(それがキリスト教などであっても、私の仏法に刺激を与えてくだされば、私にとっての仏縁ですから)


次に「非構成エンカウンターグループ」という要素があります。
学術的に学んでいないので申し訳ないのですが、実践してきた中で私なりの「非構成エンカウンターグループ」感というものがあります。
聞くところによると、始まりも終わりもまったく「構成されない」ものもあるようです。
私はグループで場を共有するので、ちょっとした導入の区切りや、希望があれば自己紹介などガあっても良いと思ってます。
そして始まってしまえば、話題や進み方、姿勢や態度には縛りが無く「今あなたが話したいことを話ししたいように」と尊重することだけ大事にします。
複数の方がご一緒するので、話題についていけなかったり、気持ちが乗らなかったりすることもあるでしょう。
ただ、「今発言している」方を一番に大事にしたいことだけを芯にすえ、あとは流れに乗っていない思いでも出していける場を作ることを意識しています。

よく、参加する方が「自由にと言われると難しい」とおっしゃいます。
そのとおりだと思います。
ただ、その瞬間の「ありのままの私」が許されていることだけ感じていただければいいのかなと思っています。

そんな「非構成エンカウンターグループ」のファシリテーターはとても難しいものだと思っています。
「自由にしてくださってOKです」といいますが、放ったらかしにしているのはファシリテーターじゃありません。
いちいち言動を確認して交通整理するのも(そういうのもあるのでしょうが)違う感じがします。
もちろん、参加者ひとりひとりの安全を守るのは最低限の仕事ですが、「何が起こっても大丈夫」というところは誰よりも私自身が心得ておくべきことですね。
「放りっぱなしではないが、干渉はしない」というスタンス、それを無理して役割とするのではなく、そうあっても大丈夫な私で居ること。
これは今後も学びと実践の中で経験していくことだと思ってます。


と、昨日のワークショップだけでこれだけいろんなことを振り返れました。
当然、ワークでの話題の中身もいろいろありましたが、それはここで私が触れることではないですのでね。

DPA研究会に興味を持たれた方はこちらへ。
「DPA研究会」 

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名乗りを捨てる

2012-05-07 01:13:34 | 真宗カウンセリング

 

GWも終わり、明日からPTA関連が慌しく動き出す。
いろいろするべきことが山積していて、これはこれで気持ちの張り合いがあり、充実感がある。

一方で、今までの関わりとの距離感が変わってきたことはここでも何度か触れているが、中途半端な位置づけが精神的に悪影響を及ぼしていることも感じている。
気持ちの中では方向性は決まっているが、「これこれしようと思う」というだけではどうもダメなようだ。
気持ちの踏ん切りをつけることだけでは、頭では切り替えても、腹底の方のもやもや感は払拭されず、たとえば単純作業時の”妄想”に現れて心悩ます。
(おかげさまで、気になって眠れないという性格ではない)
具体的にその「方向性」を決定付ける儀式が必要なのかもしれない。
そのこともある程度決めてはいるが、まだ実行できていない。

それとは別に、ここ1ヶ月ほど気にしていたことがある。
「カウンセラー」という名乗りについてだ。
私は数年前から「相談」を受けることがあり、話を聞かせてもらうことを大事にしてきた。
「カウンセラー」とはどういう人か…「クライエントが居て、継続的に話しを聞く人」というのがひとつの定義であるので、そういう意味ではカウンセラーとしての活動はしている。
しかし、「カウンセラーの資格」を認定している団体があるが、私はその資格は有してない。
私が所属している「真宗カウンセリング研究会」もその団体に属しているから、団体に所属する「真宗カウンセリング研究会」としてカウンセラーを名乗るには、資格の有無は重要になってくる。
ちゃんと資格を取っている人と同列に「カウンセラー」と名乗るのは、ちょっとおこがましいという気がしてきた。

また逆に、私の周りで資格を有して「カウンセラー」という名乗りの元に活動されている方も多く居られる。
その一部に、「身近な人を苦しめる」ことを平気で行う人も居たりする。
また、カウンセラーとクライエントの関係を超えた、感情の関わりをしてしまったり。
クライエントが心を開けば開くほど、そこに芽生える「依存」には心を配らなければいけない。
それが、逆に依存感情を取り込んでそれを超えた感情になってしまうとそれはカウンセリングではない。
(もっとも、当人はすでにカウンセリングの関係ではなく、ただの恋愛関係になっているんだろうけど)

こうなってくると、資格があるから「カウンセラー」と名乗るのも違うと思えてくる。
私としては、”実”の部分で、相談者に寄り添う聴き手でありたいと思っている。
資格やテクニックで「カウンセラー」であろうとは思わない。

こう考えてくると、「カウンセラー」と名乗ろうとするから、資格のある人におこがましいと感じたり、およそカウンセラーらしからぬ人と同列にされたりするのを困ったりするのだろう。


広く、職業として「聴き手」であるためには、わけの分からない名乗りよりは世間で通用するカテゴリーに属するほうが親切ではある。
が、私は開業しているわけでもなく、人づてで「高橋に話を聞いて欲しい」という方と関わりを持たせてもらっている。
なので、カウンセラーという名乗りにこだわりはない。
もちろん、関わりを持たせていただくのは「カウンセラー」の仕事として、精一杯関わらせていただく。
その”実”さえぶれなければ、名乗りはさほど重要じゃない。

かつて親鸞聖人が、僧籍を捨て「非僧非俗」として立たれた。
そして行なわれた活動は、そんじょそこらの「名乗っているだけの僧侶」には出来ない、本当の伝道活動だった。
名乗りではなく、”実”だ。

私は「カウンセラー」という名乗りを捨てようと思う。
なにか良い言葉があればそれを名乗っても良いが、「愚禿」を超える良い名は思いつかない。
(僧を捨てた親鸞聖人は自らを「愚禿」(愚かなはげ)と名乗られた)

名乗りはなくとも、私にカウンセリングをして欲しい、話を聞いて欲しい、という方が居られれば、”実”のところで、しっかりと関わらせていただきます。

 

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自分の気付きを無駄にせず、活かして行く事を大事に

2012-04-27 03:34:00 | PTA

昨日、「小P連総会」を無事終えた。
前週、23年度の理事と24年度の新理事による第1回目の「合同理事会」があり、これまでの1週間いろいろと準備してきた。
また、それ以前からも準備はなされてきたし、「無事総会を終えて、新年度の実働に移りたい」の思いは結実した。

思い返せば1年前に理事になり、それまで知らなかった世界に飛び込んだ。
その思いは、昨年のブログにしっかり記録されている。
合同理事会のことは「京都市小学校PTA連絡協議会」というタイトルで。
総会のことは「熱意との出会い」というタイトルで、前回書いたはぐくみ報告会の話題と一緒に。
(どちらもタイトルをクリックしたら飛べます)


今年、役員という立場になって理事会や総会で皆さんを迎え、説明する立場になっている。
その中で、いろいろと質問・疑問を受けながら応えていくけれど、初めての「役員」という立場なので「個人の思い」と「役員としての対応」のさじ加減がわからず、もどかしさを感じていた。
しかし、質問・疑問を発する方の気持ちは、一年前私が感じていたものそのままだった。
もう少し早くそのことに気付き、一年前の私のような人が出ないようにするべきだった。
役員となって新たに経験することに余裕がなくなっていたのは事実だけれど、それは言い訳でしかない。
情報が足りなくて困惑した経験を生かせていないのはとても残念な結果となった。

なので、この苦い経験を糧として、今後の活動に関しては「一年前の自分の目線」を取り込みながら、「自分ならばどういう対応が欲しかった?」を頭において動いていきたい。
いや、動いていくと誓おう。

去年のブログ見たら、われながら良い事書いてるしね。


考えてみると、この一年前に感じたことを原動力として、多少なりとも単Pや支部で”動き”を始めてみた。
もう一年、継続する機会をもらったんだから、さらに充実できればうれしい。
今日も校長とミーティングをして、5月にはいるとすぐにある「南支部総会」の打合せもあった。
単Pの役員会や選挙開票を欠席したので、その件もミーティングで説明してもらった。
かけもちなんで、周りの人にお任せ気味だが、ちゃんと動いていく。
とても楽しみな部分だ。


そして、一年前に小P連会長と出会って受けた影響。
それが、今年は役員としてサポートすることも増えながら、ひきつづき関わりを持っていけること。

今年、小P連の役員をすることが、降って沸いてきたことじゃなく、大きな流れの中で継続的につながっていることをあらためて実感しながら、今までの私の気付の実践をしていく事が大事だと再認識させてもらった。

いろいろブログに残しているので、これからは先に一年前の自分を思い返しながら、それを糧によりより活動を目指して行きたい。

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流れはさらに大きく(はぐくみ委員会報告会に参加して)

2012-04-25 23:56:56 | PTA

今日は「はぐくみ委員会の報告会」と、引き続き「小P連の総会」。
そして夜は懇親会でした。

4月に入って準備してきたことが、総会を終えて一段落、これからは承認された内容にしたがって実践に移ります。
で、今日の日を終えたことで公言できること…今年度の京都市小学校PTA連絡協議会の役員として参加することになりました。
いやぁ、永年役員などをされてきた先輩がたが、最後の子どもが中学に進学することで小P連を卒業されていく中、私なんぞにその穴埋めが出来るかというと…。
でも、その人の代わりになることを求められているのではなく(求められても困りますが)私のできることをやるだけですね。


今日のはぐくみ委員会の報告会、昨年度一年の活動の報告会です。
昨年度は「発達障害」をテーマに、研修会や交流会が開かれており、その内容報告や各支部での取り組みの報告。
こうやって振り返ってもらうと、私にとってとても大きな一年になっていました。

昨年度のテーマに「伝える・受けとめる・広める」というものが採用されたのですが、これは小P連の「伝える」というテーマを聞いたときに、私がコミュニケーションワークを通じて学んできたことをついついえらそうに言ったことを引用して決められたそうです。

「伝える」ということを簡単にいうが、ほとんどの場合「伝え手」が言いたいことを言って「伝わっただろう」と錯覚していることが多い。
聴き手が「どう聞いたか」を確認して、伝えたかったことが受けとめてもらって初めて「伝わった」と言えること。
また、こちらの話を聞いてもらうためには、それ以上に相手の話を聞いてあげることが大事。
思いを吐き出してもらって、コップを空にしてもらってからこちらの水を注ぎだす。
満タンのコップに注いでも、あふれるだけで終わってしまう。
だから、伝えるということは先に「受けとめる」気持ちを持つことが大事。

こんなことを言ったような気がします。

あと、交流会のワークショップに参加した方の感想の中で
「わたしメッセージを教えてもらったことが印象に残ってます」と。
おそらく、私がファシリテーターをしたグループに参加した方で、親子のコミュニケーションに悩んでいるという話題の中で「伝え方の工夫で代わるきっかけになりますよ」と私が言ったことだと思います。
たとえで話されたことはまさにそのワークで話題にしたことで、「○○しなさい」ではなく、「○○してくれたらお母さんうれしいな」という伝え方。
あぁ、こういう風に今でも影響を受けてくださってるんだと思うと、とてもうれしくなります。

なんか自慢話のようになってきて恥ずかしい感じもあるのですが、私の中でたとえば「カウンセラー」という名乗りの元、講義のようにしてコミュニケーションワークを聴いてもらうのではなく、一緒にコミュニケーションしていく中で、私の中に培われたものが相手に伝わっていくことは、とてもうれしいことだな、と。
ちょうど今、その「名乗り」ということに関していろいろ考えていたので、余計に「肩書き」ではなく、この「高橋」の話を聞いてくれる方に、私の中にあるカウンセリングマインドや仏法に根ざしたものが伝わるのは、望外の喜びだなと。

 

もう一方で、この「発達障害の学び」ということが、この一年で大きく動いていることを感じました。
このテーマの研修会に出る以前、自分の子どもの傾向として「発達障害」のことが興味の中のひとつとしてありました。
それが、研修会や交流会で学ぶ間に、子どもの特性だけでなく私の中にある特性として、「発達障害」は身近なテーマになってきます。
そういうことをこのブログやエンカウターグループの中で話題にしているうちに、カウンセリング仲間の中に専門的に学び会を開いて「発達障害」と向き合っている方が居ることを知り、私も参加させていただくことになりました。
さらには、京都で新たに「考える会」を設立し、知識でだけではなく現実に「発達障害」と関わっている方々と活動していく流れに乗っています。

一年前に出会った「はぐくみ委員会」から始まった流れが、大きなうねりとなって動き出し、もしかしたら今後PTAの方に「考える会」の活動をフィードバックしていくことも出来るかもしれません。
これこそ”縁”というものだろうし、偶然のように思えることが、私にとっての”必然”だったと言える気がします。


この後の総会についてもいろいろあるのですが、まずはここまで。

このブログの一年前のエントリーを読み返してみて、ほんと必然の流れになる”種”があったなぁと思えたりします。
「熱意との出会い」

発達障害のことだけではなく、今年度役員になる流れも一年前に動き出してるのがわかって、面白いですね。

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動き出しています

2012-04-20 18:14:24 | 日常雑感

前回アップしたのは卒業式の話題。

じつは、寒い体育館での式典が続いたのが響いたのか、その後体調を崩してました。
風邪と花粉症だろうと高をくくってたら、もうちょっと深刻な炎症を起こしたりしてまして。
元来病院嫌いの素人判断ですので、市販の風邪薬とできる範囲での)休養で…はどうにもならず、医者にかかってちゃんとした薬を処方してもらって、ようやく回復して来ました。

 

その間に、4月を迎えていろいろと変化・動きがでてきています。

まず新しい動きとしては「新しい傾聴を生み出す会」がスタートしました。

「傾聴トレーニング研究会」としてプレワークしてきたものが、名称を決め正式に始まっています。
残念ながら第1回目は体調不良のあおりで欠席、今週初めにあった第2回に参加です。
お世話役もしながら、新しい学びが始まっています。
案内は後日させてもらいます。

また、3月の終わりに参加した「発達障害を考える会」から、派生する新しい形での集まりが始まります。
PTAの23年度の学びのテーマとしてあった「発達障害」と、カウンセリング仲間のつながりで聞かせていただいた「発達障害」が、不思議な感じで継続的につながっていきそうです。
面白いタイミングだなと思ってます。
この話題も、またあらためて。

PTAの方では、昨年に引き続き息子の学校のPTA会長を。
その関係で、南支部の理事も継続し、京都市小学校PTA連絡協議会にも理事として参加します。
もうひとつそこからの発展もあるのですが、それは来週の総会が終わってから話題にしましょう。

あと、今年の夏にある「日本PTA全国研究大会京都大会」の方にもお手伝いとして参加していて、月数回の会議を重ねながら本番への準備に勤しんでいます。
いつもブログにつかってる余剰時間が、これらの資料作成などの時間でなくなってます。
が、夏までは優先事項として突っ走る予定です。

真宗カウンセリング研究会の事務方も継続。
しかし、PTA関係の会議などで月例会などの参加が減るかもしれません。

同じことは華光会の法座などにも影響が現れてますね。
もっとも、モチベーションの部分でいろいろあったりしますので、私の中の優先順位として影響を受けてる感じです。

 

これらの活動をしながら、ふとしたところから宗教的な話題になったり、コミュニケーションの話題になったり。
そういうときに、何をしていても私の中に「真宗 と カウンセリング」が活き活きしていることに気付けます。
いろんな活動でのつながりが、そこに集約されてくる。
偶然ではなく必然であり、ますます私の帰る場所がはっきりとしてくる。

人や組織に依るのではなく、根本なんですよね。

 

こんな感じで、不規則なアップになるとは思いますが、無理ない範囲で継続して行きますので、期待せずに覗きに来て下さいな。

 

明日は人権パレード
一年前に、ブログにアップしていました。
 

 

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お祝いの言葉 2012卒業式

2012-03-23 19:06:47 | PTA

年度末、いろいろ行事もあり、ブログにしておきたいこともいろいろあります。
が、同時に時間がない。
どうしても、先にすることをしておかないとってことで、ブログが後回しになっちゃいます。

今年一年、大きく変わったのはPTA活動との関わり。
このブログタイトルに「With PTA活動」とつけるようになったくらいですから。

そんな一年の活動も、今日行なわれた「卒業証書授与式」で一区切りです。
4月の入学式につづいて、最後の卒業式でも祝辞を送らせていただきました。
年度始めから分かっていたこととはいえ、実際に内容を煮詰めだすのは1週間まえくらい。
ある程度決まり文句はあるのでそれはそのままに、あとはいろいろ想いがめぐります。

たとえば、上手なことを言って、これから新しい環境になる子どもたちに「大人からのアドバイス」を贈ることも出来るでしょう。
私なんかの言葉では頼りないから、偉人の言葉を引用して贈ることも出来るでしょう。
が、へそ曲がりの私は、つたなくても良いから”自分の言葉”を投げかけたいという想いがあります。

中身を欲張ると、ろくなことになったためしがないので、できるだけ伝えたいことを絞って。
そこで、今回は「ありがとう」をテーマに。
「今・ここ・わたし」が”在る”ことは、当たり前じゃない、「在り難い」ことなんだと。
まぁ、私としてはいつもどおりのものです。
そして、この時期、子どもたちにも大きな影響を与えている東北大震災…ここへの想いを、単純に「震災」ということや、「絆」という言葉で終わらせずに、その事実を自分に引き寄せたところでぶつかる「いのち」ということを。
あぁ、十分欲張ってますね。
でも、何とかまとめてみました。

祝  辞

 ようやく寒さも緩み、木々の緑も春らしくなってきた、この良き日に、九条塔南小学校を卒業していく皆様に、お祝いの言葉をPTAを代表して贈りたいと思います。
 卒業おめでとうございます。お祝いとしてのこの「おめでとう」と言う言葉とともに「ありがとう」という言葉を届けたいと思います。みなさんのおとうさん、おかあさんの代表として、ありがとう。
 この「ありがとう」という言葉のもとは「ありがたい」という言葉です。「当たり前」ということの反対の意味です。
 みなさんが生まれてきて、この卒業までに十二年の日々がありました。この学校に入学してからだけでも六年です。その間、毎日のようにニュースで「死」という言葉を見ます。そうです、今日この日に生きていることは「当たり前のこと」ではないのです。
 毎日当たり前に食べている食事、そこには元々生きていた動物のいのちがあり、それを捕る仕事の人、運ぶ仕事の人、売る仕事の人、そして料理する人のおかげが必要です。
 当たり前ではない「ありがたい」ことなんですね。
 みなさんのひとりひとりの「いのち」は、そういう「おかげ」で出来ているんです。

 でも、そういう当たり前のような食事が出来ずに死んでいく人もいます。思わぬ事故や災害で死んでいく人もいます。
 だけど、今皆さんはこうして元気な姿を、お父さんやおかあさん、先生たちの前に見せてくれています。
 だから、ありがとう。ここに居てくれることは当たり前じゃないんだと。ありがとう。

 最後にひとつだけお願いをします。どうか、今ここに生きていることを大事に、いのちを大事にしてください。自分のいのちを大事にして、周りのいのちも大事にしてください。
 ひとりひとりに親の願いや多くのおかげがかかっています。ありがたいことです。

 保護者の皆様、お子様のご卒業おめでとうございます。
 六年前、大きな願いと不安とともにこの学校の門をくぐられたことでしょう。子育てほど難しいものは無く、ご苦労されたことだと思います。しかし、今日こうして大きく育ったお子様が居られることは、保護者の皆様の願いが結実している姿だと思います。
 こうして壇上に立たせていただき、立派なお子様がたの姿を拝見させていただけることは大きな喜びです。ありがとうございます。

(このあと、定型的な来賓への挨拶が入ります)

では、卒業生の皆さん、楽しい中学生生活を送って下さい。


  


まぁ、言ってる事は保育園時代の謝辞や、入学式の祝辞とあまり変わりません。
それだけ、私の中では末通ったテーマなんでしょうね。

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「3.11」を迎えるために

2012-03-08 22:54:59 | 日常雑感

「3.11」今、日本でこの数字を見てピンと来ない方はいないだろう。
この日が近づくにつれて、新聞やテレビ、雑誌の記事や政府刊行物などで様々な特集や取り組みが知らされる。

実は、ちょっと違和感を持っている。

この災害が未曾有なものだったこと、まだまだ復興は終わっていないこと、なにより悲しみ・苦しみの中に居る人が一杯おられることは、なんら否定することでもないし、そのための多くの活動を批判するつもりは無い。
ただ、この「3.11」に話題が集中することになんともいえない感じをぬぐえないのだ。

このブログでも震災後立て続けに思いを言葉にしていた。
それと同じことを今も考えているのだなと振り返っている。

先日、あるキーワードでニュースを検索をしてみた。
「ニュージーランド 地震」
昨年の2月22日に起こった地震だ。
この頃、連日のように現地の様子がレポートされ、遺族の悲しみが伝えられ、救助隊の活躍が報道されていた。

3.11以降、報道の目は東北に向いた。
話題になることが無くなった。
では、ニュージーランドで被災した遺族の悲しみは無くなったのか…
「もっと多くの方が亡くなったのだから、私は我慢しなければ」なんて思えるだろうか。

昨年の2月の終わりに祖母を亡くした。
3.11の災害によって、「私は祖母を一人亡くしただけだから、多くの家族や知人を一度に亡くした人の悲しみより軽い」なんて思えるだろうか。

悲しみ、苦しみに、深い浅いの差はない。
その人にとっては、悲しみでしかなく、苦しみでしかない。


それと同じこととして、3.11に悲しみ・苦しみを味わった人も居る。
多し少ないではなく”居る”
そして、その悲しみ苦しみは終わっていないのだろう。

3.11を迎えるにあたって、その日をイベントのように扱って満足するのではなく、忘れていたものとして思い返す日になればいい。
それは報道のように、無理やり感情を喚起させるものではなく、悲しみ・苦しみに寄り添うことを思い返すだけでいい。
そして、3.11以外にも悲しみ・苦しみがあり、終わっていないことが一杯あることを思い返してみたい。

震災から1年だからって特別にしなくても、日々出来ることもある。
毎日同じ時間にそっとお念仏される方も居る。
何度も被災地に渡って、直接的な活動をされる方も居る。
そういう人が居ることを、なんらかの形で知らせてもらうことで、思いをはせることも出来る。

そういう思いも抱きながら、3.11というキーワードに合わせて、当日活動される知人たちと時間を過ごしたいと思っている。

京都では「京都マラソン」がこの日行なわれます。
いろんな寺院で追悼の鐘を鳴らすようです。
各地で街頭活動が行なわれるようです。
私は四条河原町で基金をするPTAのもとに、子どもと一緒に赴こうと思っています。

東北のことを軸に、多くの悲しみ・苦しみに寄り添う気持ちで。
そして、私自身の悲しみ・苦しみに寄り添う時間として。

1年前のエントリー
「死 ということ」(3/14)
「大丈夫、間違ってない」(3/15)
「今だから…ではなく」(3/16)

 

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「伝える」と言うこと2題

2012-03-03 16:09:21 | PTA

相変わらず入力過多で、発信している暇がない。

FBなどで、こまめに思いを吐き出しているので、淀んでることはないけれど。

 

昨日は、朝から夕方まで小学校の職業体験のボランティア、夜はPTAと地域の交流会。

この二つのイベントで「伝える」ということが私のキーワードとして残った。

というか、この「伝える」は何に参加するにつけてキーワードにはなってるんだけど。

 

職業体験は「スチューデント・シティ」と言うプログラムで、廃校になった中学校校舎を利用して13の企業ブース(うちひとつは区役所)に、生徒たちが所属して仕事を体験するというもの。

企業ボランティアの方が指導し、各ブースで子どもらが店長や営業など役割をもって仕事する。

 

私は「京都銀行」で子どもらをフォロー(というか後ろで見てるだけ)するボランティアで参加。

 

プログラムの中で時間を区切って、ほかの企業を回るお客さまになるグループと、仕事するグループになるけど、その約束事や注意点をこまめにミーティングで企業ボランティアから提示される。

しかし、1から10まで話されることを子どもらは全部理解しきれないまま進んでいく。

 

「最近の子どもらは話をちゃんと聞かないからなぁ」という声が上がる。

しかし、果たしてそれだけが理由だろうか。

 

確かに話をしても返事がなかなかなく、聞いているのか、分かっているのか不安になる。

 

ならば、「今の話をどう聞いた?」という問いかけをしてレスポンスをもらうと言う工夫はできないだろうか。

大事なことを繰り返し3度言って伝えるよりも、一度言ったことを「なんて聞いたか言ってみて」と復唱してもらうほうがはるかに伝わる感じがあるのではないだろうか。

伝える側が工夫できることは工夫する。

 

一つの伝えたいことを、相手に伝わったことを確認するまでは次のことに移らない…そのくらいの覚悟を持って伝えないと、「伝えた」という満足で終わって、「伝わった」という相手の状況を尊重しないまま終わってしまう。

 

 

夜は、PTAと地域の方が意見交換する企画が行われた。

そのままの交流だと、言いたいことを”勢いのある方”が一方的に言いだして、時には否定批判が中心になり困ったことになるので、教育委員会からコーディネーターを派遣してもらってワークショップ形式で行う「子育てほっこリ広場」というプログラムを通じて行った。

 

構成的エンカウンターグループでもある。

 

その内容は「ここで聞いたことはここだけの話しにする」というルールのもとに行われたので控えておく。

 

 

障りのない程度で、私の感じた大事な部分を書くとする。

流れが進むと「伝える」ということに関して話題が成熟していった気がする。

 

地域と子育てを連携するためにどういう試みがあるか話していくうちに、「イベントはいろいろあるのに参加が少ない→イベントが周知されていない」という側面が浮き彫りになった。

せっかく良い企画があっても、参加してもらえないのでは後につながらない。

なので、その伝え方を工夫する余地はないかと。

 

ここでもやはり「ちゃんと伝えてるのに」と発信側が留まっていると後に続かない。

「伝える」と「伝わる」は違う。

相手に伝わったことを確認できれば良いが、体面告知ではない書面配布では難しい。

「昔はもっと対面のコミュニケーションがあった」という側面もあるが、時間をかけてそういう地域づくりをするのも行いつつ、現状に合わせた”少しでも効果的な”伝達方法を工夫することから考えても良いと思う。

 

 

 

ワークショップ、エンカウター、カウンセリングをしていると、「伝える」というコミュニケーションに最大限の配慮を感じているが、まだまだ一般コミュニケーションでは「伝わっているもの」として話が進められていくことを、この日の二つの関わりで再確認した。

私が学びで気付いたことを(影響は微々たる物だろうが)発信していくことは続ける意味はあるかな。

 

 

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まぁ、私にもこういう面があるということで

2012-02-24 00:54:53 | 日常雑感

今回の書き込みはちょっと感情的な部分が入り込みます。

 

感情を一切殺すことはできないまでも、できるだけ怒りの心は抑えるように努めています。

しかし、自分の中に「刺激されたくない」部分があり、そこに抵触されるとその感情はどうしても噴出してきます。

 

先日の「傾聴トレーニング研究会」でのロールプレイで、最近の出来事を話しているうちに少しその正体に触れた気がします。

 

私の父親との関係を意識せざるを得ない状況になるとき、思わぬ反応が私の中からでてくるようです。

 

父親に「こうあって欲しい」という幻想を抱いていて、現実はそうではなかった部分…それを誰かに投影して、それが裏切られたときにもそれは起こります。

 

父親のように思いたかった人がそうでなかったとき、ある程度距離を置いて冷静に「求めているものは幻想だ」と落ち着こうとします。

実際、関係が薄れ、沈静化していきます。

 

その後、ちらほらと関わりが出来たりするのですが、まぁ気持ち的に処理できる程度でした。

 

しかし、ある一線を超えてしまうと感情が揺さぶられます。

 

あるとき、直接的なアプローチがありました。

まぁ、今までの例に倣って距離を置こうとします。

しかし、こちらの感情を逆なでするアプローチに変わってくる。

 

と、ここまで書いてきて、こうやって振り返っていくこと自体が嫌になってきました。

 

噂では私の名前を使っていろいろ動いているようです。

まぁ、噂ですからその真偽はわかりません。

(直接確かめる気もおこりませんから)

 

今では怒りの感情よりも、情けない気持ちの方が大きいでしょうか。

 

 

本当は、噂と言うことについて書きたくて、その序章としてこの話題をさらっと触れるつもりでしたが、ちょっと気持ちがざわついてうまく着地できません。

噂の問題は、また落ち着いてからふれることにします。

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傾聴トレーニング研究会 第1回プレワーク

2012-02-20 00:15:40 | コミュニケーションワーク

 

 

金曜日に参加した新しい研究会。

びわこカウンセリングルーム」を会場に、4月からの本格開催に先駆けてプレワークが行われた。

 

真宗カウンセリング研究会でご一緒している「びわこカウンセリングルーム」の所長さんから半年位前にお話をいただき、私も世話人として名を連ねさせていただいている。

基本的な方針は定まっているが、その内容は参加者で話し合って進めていくことになりそうだ。

 

案内(こちら)にも記載されているが、「相談される立場」のかたのトレーニングが主体。

とはいえ、自分自身が「聞いてもらう」立場を経験し、相談者の気持ちに立ってみることがなければ、相談される立場として心もとない。

 

私なんかは、学術的理解より、先に現場で「聞く」実践を積んできたものだからそうは思っていなかったのだが、介護や福祉の現場に立つために勉強してきた方は、実戦経験が少ないまま現場に赴くことも珍しくないようだ。

そういう方には、実践形式で学ぶ場に参加することはとても大きな意味があると思う。

また、様々な相談現場に従事している方も、客観的に見直すことや、自らの経験を参加者で分かち合って、相互成長することも大事だ。

 

 

そういう意味では、単なる体験学習だけではなく、異分野間での”気付き”合いが、みんなが同じ方向に向かって学ぶのとはまた違う(時には回り道もあるかもしれないが)面白さがあると思う。

 

 

と、前置きが長くなったが、この日やっと動き出すこととなった。

 

今回のプログラムは、参加者代表2名によるロールプレイをほかの方が観察しコメントする実践、私が提供したアイスブレークのワーク、びわこカウンセリング所長による統合失調症の座学の3つ。

 

今後、参加者が持ち回りで担当する時間も設けられていくので、様々な角度から学んでいくことが出来る。

 

まさに、これから育っていく研究会となるだろう。

私自身、新たな扉の前に立ち、そっと扉に手をかけた感覚でワクワクしている(私なんかが世話人で良いのだろうかという不安もあるが)

 

この研究会があるおかげで、PTAなどの集まりで学んでいくことがまた楽しくなってくる気がする。

インプットしたものをアウトプットする機会がもらえるのだ。

人に話すと言う行為ほど、自分が聞いてきたことを深められるものはない。

自分で聞いただけなら「自己流解釈」に留まってしまうものが、反すことによって確認されるし是正もされていく。

 

3月7日にもう一度、見学無料のプレワークがある。

興味のある方はぜひお問い合わせください。

manu.takahashi@nifty.ne.jp

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