連続無窮

ベイスターズファンの名も無き同行が他力信心を通して知らされた世界を綴らせて頂きます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

われとなえわれ聞くなれど

2010-07-28 20:31:57 | 真宗・信心
 お同行の一人が、阿弥陀さまのご本願まことと目覚め、お念仏申す身になられたということを風の便りに聞きました。

 やっとお聴聞が始まるんですね。私もお聴聞が始まって間もない身ですが、一緒に聞こうね。

われとなえわれ聞くなれど南無阿弥陀仏 つれてゆくぞの親のよび声(原口針水和上)

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

長い間待たせていました

2010-07-28 06:18:44 | 真宗・信心

「一劫といふは、たかさ四十里ひろさ四十里の石を、天人の羽衣をもつて、そのおもさ、銭一つの四つの字を一つのけて三つの字のおもさなるをきて、三年に一度くだりてこの石をなで尽せるを一劫といふなり。これを五つなで尽すほど、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘と申せしとき、思惟してやすきみのりをあらはして、十悪・五逆の罪人も五障・三従の女人をも、もらさずみちびきて浄土に往生せしめんと誓ひましましけり」(正信偈大意)

 この「正信偈大意」のお言葉は、第8代宗主蓮如上人が、親鸞聖人の『教行信証』「行巻」の一番最後に置かれる「正信念仏偈」の文意を簡明に解説されたものであります。
 その中で、「五劫思惟之摂受」という言葉を釈したものであります。阿弥陀さまが私を助けるために、法蔵菩薩という菩薩になられ、本願を建てられんとして、五劫の間思惟されたのが「五劫思惟之摂受」という言葉の意味であります。
 この「五劫」とは、いかなる長さでありましょうか?これを、蓮如上人はこのように説明されておられます。

 一劫とは『大智度論』には四十里四方の石を、百年に一度ずつ薄い衣で払って、その石が摩滅しても劫は尽きないといわれておりますが、とてつもない長さですね。

 さらに、阿弥陀さまはその願を実現されるために、兆載永劫の間、ご修行なされました。

 そしてその願が成就して、十劫の時が経っています。

 つまり、我々の想像し得ない長きにわたり、阿弥陀さまは私たちの往生を願っておられるということです。

 私事で恐縮ではありますが、私が初めて
「南無阿弥陀仏」
と称えたのが、10代の前半でありました。

 以前より、如来さまに促され、後生の問題に疑問を抱いたとき、小学校の図書館で借りてきた学習まんがに親鸞聖人のご生涯が書かれており、そこに、
「南無阿弥陀仏と称えなさい。必ず救われます」
という法然聖人のご教示が吹き出しであったわけですが、それに触発されて、
「南無阿弥陀仏」
と称えてみたわけですが、暗い心に変わりはありませんでした。

 それから種々のお育てがあり、阿弥陀さまのご本願の通り、南無阿弥陀仏と称える身にさせて頂きました。10代の頃からの南無阿弥陀仏への疑問に阿弥陀さまがお答えを示してくだされたたわけです。

 しかし、よくよく省みれば、「我は10代」と偉そうな顔をするはるか昔より阿弥陀さまは、私に飽きもせず、今日は参るか、明日は目覚めるかとあの手この手で私を誘引しておられたのだなあ。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏


定まっています

2010-07-27 04:52:41 | 真宗・信心
 南無阿弥陀仏の六字は、必ず私を助けると定まっています。

 私の心は常に欲を起こしたり怒ったり、ぼやいたり、天狗になったりと常に散り乱れていますが、そういった妄念妄想は、南無阿弥陀仏の救いのさわりにはなりません。

 こういうご本願でなければ、間違いなく、私は流転していたでしょう。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

 もう自分で自分を責める必要はありません。

うぬぼれ

2010-07-26 06:26:36 | 真宗・信心
釈迦弥陀は慈悲の父母
種種に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり(高僧和讃)

(意訳)
 釈尊と阿弥陀仏は慈悲に満ちた父母のようである。さまざまに巧妙な手だてをつくして人びとを導き、わたしたちにこの上ない信心を開き起こさせてくださった。

「真摯に求道している」
「真面目にお聴聞している」

 綺麗なものが心の中にあって、無常に驚き、罪悪に怯えているように自惚れていました。
 実際は、仏さまの頭を踏んづけて、尊い人だと言われたくて求道ごっこをしているだけだったのに、たいそうなものがあると思っていました。

 勘違いも甚だしいですね。

 そういう私をご覧になられ、阿弥陀さまは、
「そのまま助ける」
と罪を告げずに救いだけを告げられ、あの手この手で導こうとしておられました。
 本当に申し訳ないと思います。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

皆さんのおかげ

2010-07-25 10:58:59 | 真宗・信心
十方恒沙の諸仏は
極難信ののりをとき
五濁悪世のためにとて
証誠護念せしめたり(浄土和讃)

(現代語訳)
十方世界にガンジス河の砂のように数多くおられる諸仏方は、自力の心が少しでも雑わっておれば極めて信じ難いという他力念仏の教えを説かれ、濁世の衆生のためにその教えの間違いのないことを証明して念仏者の信心が相続していくように護ってくださいます。

 阿弥陀経には、東西南北上下の六方の諸仏方が、口を揃えて、
「南無阿弥陀仏に間違いはないぞ」
とお勧めしておられると説かれています。
 それについて親鸞聖人が明らかにされたのが冒頭の和讃です。
 情けないことに、南無阿弥陀仏のこころを聞かせて頂く前に、先に聞かせて頂いたお同行に嫉妬してました。

「私は阿弥陀さまのご本願から漏れているのではなかろうか?」
「なぜ私はあの人たちのように喜べないのか?」

 そんな中、お同行の方々より、
「そのまま助けるご本願だよ」
と何度も押し出して頂きました。

 やがて、大悲やるせない阿弥陀さまの六字の呼び声が聞こえた時、阿弥陀経の六方段を思い出さずにいられませんでしたし、諸仏方が、お同行の皆さんに姿を変えて、
「南無阿弥陀仏に間違いはないぞ」
と勧めておられるのだと味わずにはいられませんでした。

 機を見れば傲慢不遜で人の上に立って威張りくさっている浅ましい我が身ではありますが、共に阿弥陀さまのご本願を喜ぶお同行を、私に阿弥陀さまのご本願を聞かせて下さった諸仏方の化身と味わい、お念仏申していく中に、お同行との人間関係をスムーズにするヒントがあるのでしょうね。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏