久堀弘義師の「真実に遇う-教行信証講話-」(本願寺出版社)で大江淳誠和上の言葉が紹介されていました。
「飛行機に乗ろうと思えば、空港まで足を運ばなければならない。船に乗ろうと思えば、港まで足を運ばなければならない。列車に乗ろうと思えば、駅まで足を運ばなければならない。この世の乗り物はすべて私が足を運ばなければならない。けれども、大悲の願船はむこうから迎えにきてくださるのだ」(大江淳誠和上)
「ああしたら」
「こうしたら」
が一切なく、
「ただ助ける」
と仰せになられた如来さまの仰せのままに法語を発しておられる大江和上の言葉は味わい深いです。
他力のご法義には、
「私が~したら」
「私が~すれば」
といういわゆるタラレバがない。
「ただ助ける」
の仰せばかり。
なぜ阿弥陀さまがただ助けると仰せになられたのか。私の上に「タラ」も「レバ」もないからなんですよね。
自力で生死を離れるような持ち合わせが全くない。放置しておけばまた迷いから迷いを繰り返す。
だから南無阿弥陀仏となって私に飛び込んでこられた。
そのおいわれをお聴聞したら、いう言の葉も絶えて、南無阿弥陀仏と申すばかりです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
「飛行機に乗ろうと思えば、空港まで足を運ばなければならない。船に乗ろうと思えば、港まで足を運ばなければならない。列車に乗ろうと思えば、駅まで足を運ばなければならない。この世の乗り物はすべて私が足を運ばなければならない。けれども、大悲の願船はむこうから迎えにきてくださるのだ」(大江淳誠和上)
「ああしたら」
「こうしたら」
が一切なく、
「ただ助ける」
と仰せになられた如来さまの仰せのままに法語を発しておられる大江和上の言葉は味わい深いです。
他力のご法義には、
「私が~したら」
「私が~すれば」
といういわゆるタラレバがない。
「ただ助ける」
の仰せばかり。
なぜ阿弥陀さまがただ助けると仰せになられたのか。私の上に「タラ」も「レバ」もないからなんですよね。
自力で生死を離れるような持ち合わせが全くない。放置しておけばまた迷いから迷いを繰り返す。
だから南無阿弥陀仏となって私に飛び込んでこられた。
そのおいわれをお聴聞したら、いう言の葉も絶えて、南無阿弥陀仏と申すばかりです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏