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中国歴史紀行~河南省安陽県「曹操高陵」・湯陰県「ユウ里城」・淇県「紂王墓」編

2011年08月02日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
8月2日(火)1/2
今日は7:30に食堂に朝食を食べに行きました。

俺は好きな「油条」と「餅」だけで十分だね。
この河南省では各地に点在してる史跡をハントしなきゃならないのに、朝から雨だよ…
俺は傘を持って来てないんで、食後フロントに「対面のデパート何時に開店するの?」って聞いたら「9時よ」と言うんで、それまで待つことにしました。

9:00雨は小雨になってきたけど、今日は1日中雨みたいなんでデパートに傘を買いに行きました。
10元くらいので良かったのに売ってないもんだから、約30元の傘買っちゃったよ…
9:20チェックアウトし、今日最初の目的地である「曹操高陵」に向かうことにしました。
昨日「安陽」の地図を買ったのも「曹操高陵」がどこにあるのか全然知らなかったからなんだけど、フロントに聞いたら「安陽県安豊郷」にあるらしいんです。
行き方はよく分からないんで、とりあえず行ける所まで路線バスで行って、降りてからタクシーを拾おうと少し歩いた所にあるバス停から、9:45バスに乗りました。
まず座席に座って、その後車掌が来て行き先に応じて料金を支払うシステムのバスでした。
俺が来た車掌に「程寸営まで」と言うと、前に座ってた女の子が振り返り「程寸営で降りてどこに行くの?」と聞くんで「曹操高陵に行くんだ~」って答えたら、連れて行ってあげるみたいなこと言って誰かに電話し出したんです。
2人くらいに電話してたみたいだけどダメだったみたいで、「程寸営で降りてからどうやって行くの?」と聞かれたんで、「タクシー拾って行くつもり」って答えたら、「私と一緒に降りて」と言うんで、そこで降りれば「曹操高陵」に行くいい方法があるのかな?と思い、10:00その子と一緒に降りたバス停は結局「程寸営」でした。
「この辺りはタクシー拾うの大変よ」と言われたけど…確かに車は通るけどタクシーなんて通りそうもないなぁ。
そして、その子は俺に身分証を見せて「怪しいモノじゃないから大丈夫よ」と言ってたけど…写真が古いのか分からないけど別人か?って思っちゃった。
でも、それを今ここで突っ込んでる場合じゃないんでね。
その子は家に帰るところだったのに、俺がタクシー拾えるまで一緒に待つって言ってくれてるんだけど…雨も降ってるし、市内に戻るバスが来たら乗って引き返そうかと思ってたら反対側からタクシーが来て、その子が停めてくれました。
そして「この人日本人なんだけど、曹操高陵に行きたいんだって」と交渉してくれて、初め「曹操高陵」まで行って、ここ(程寸営)に戻って来て100元のところを80元に負けさせてくれました。
その子に「どうする?」って聞かれたけど、せっかくタクシー拾えたし、三国志ファンとしては「曹操」の墓は見ておかなきゃね…ということで乗ることにし、バタバタしてたけどその子のQQ(中国人が使ってるチャット)番号だけ聞いて別れました。

タクシーは農道をひた走り…10:20「曹操高陵」に着きました。
これは展示場みたいだけど、ドアが開いてたんで入ってみました。

中はパネルのようなモノばかりでしたが、裏に続く道があり…

これは発掘中の遺跡でしょうか?

これもですね…

一番奥に行ってみると…もしかして、この穴の中が「曹操」墓の発掘現場なのかな?
でも、周りには柵があって、この穴の入口へ降りることも出来なさそう。
そしたら「公安(警察)」だか「警備員」だかが来ちゃってさ…どうやら、まだ一般公開されていなかったみたいです。

外にもこの看板があるだけ…

ご覧のように周囲にもまだ何も無い…発見されたのは2009年末だったと思うけど、もう少ししたら一般に公開されるのかなぁ?
でも、あの入口までだけでも見られただけ凄くない?
10:30「曹操高陵」を出て、運チャンは「この後どこに行くの?」と聞いてきました。
俺が「羑里城」「紂王墓」「摘星台」…と言うと、価格交渉スタートです。
そして「程寸営→曹操高陵→羑里城→紂王墓他→摘星台」で280元で交渉成立し、そのまま「羑里城」へGO

11:35「羑里城」に着きました。

これは「文王(姫昌)」像です。

これは「儀門」です。

これは「山門」です。

これは「文王易碑亭」です。

これは「乾隆御碑亭」です。

「大殿」内には「文王」像がありました。

「大殿」内の壁画の一部を紹介しましょう。

「殷」でも実力を持つ四大諸侯は謀反の疑いを掛けられますが、西岐の「姫昌」は処刑は免れ、7年間の「羑里」幽閉で済みました。

長男「伯邑考」が処刑され、その肉で作られた肉餅を(気づいてて、あえて)食べますが、後日吐き出すと兎の姿になって野を駆けて行きました。

息子の肉で作られた肉餅とも気づかず食べてしまうほどに衰えたと7年の幽閉後、西岐に帰還が許され、そこで「太公望」と出会います。

これは「羑里井」です。

けっこう広いなぁ…さらに下に下りて行くと、

正面に「八卦陣」(迷路)があります。

その左側には「太公封神館」があります。

正面に「太公殿」があり、

中に「太公望」像と、

「封神演義」登場人物の絵がありました。

「太公殿」の左右どっちか忘れたけど、その建物には…

計8体の塑像がありました。

左から「魔家四将」の「魔礼寿」「魔礼海」、

「魔礼紅」「魔礼青」です。

こちらは「云霄」「瓊霄」「碧霄」の「三仙姑」です。

これは「趙公明」と「黄飛虎」です。

反対側の建物にも…

同じく8体の塑像がありました。

左から「李靖」「哪吨」「楊戬」、

「雷震子」「比干」、

「土行孫」「啍哈二将」です。
この「太公封神館」の近くに…

「吐儿塚(伯邑考)」の墓があります。
ここで「姫昌」が肉餅を吐き出したんだな…
「姫昌」は「朝歌」に呼び出されたときに異変を感じ、占いをして自分が7年帰って来られないことを予知していました。
息子をはじめ一族には「何があっても7年私の帰還を待ちなさい」と言い、「朝歌」へと発ったのです。
しかし「伯邑考」はもうすぐ7年になるので、貢物を納めて嘆願すれば父を釈放してもらえるだろうと「朝歌」に行ってしまいます。
そこで「妲己」に得意な琴を教えることになりますが、「妲己」の怒りに触れることとなり「紂王」に処刑されてしまいました。
そして「姫昌」を試すために、その肉は肉餅にされ、父に食べさせられてしまうのです…

「八卦陣」から右側は「周易与儒学館」で…

正面の「伏羲殿」には「伏羲」の塑像がありました。

同じく左右にも建物があり…誰か分からない塑像がありました。

「鄭玄」像もあるし、これらは学者とか占いの研究者たちかな?
また上の方に戻り…

これは「演易台」です。

中には「姫昌」像がありました。

そして12:20「羑里城」を出ました。
ご覧のように周囲には何もありません…でも、ここは「封神演義」ファンにはパラダイスでしたよ~
さて、次は「紂王」の墓に行くんだけど…俺もあまり詳しい場所を知らなかったんで、「淇県」に入ってからは、運チャンに聞き込みをしてもらいながら…

ようやく13:35「紂王」の墓に辿り着きました…って、俺もここがどの辺なのか?淇県内なのかも分からないほど郊外に来たよ。
こりゃ、後で価格交渉されるな…

これが「殷」最後(第30代)帝「帝辛(紂王)」の墓です。
「帝辛」は美貌を持ち、弁舌に優れ、頭の回転が速く、力は猛獣を殺すほど強く、それゆえ臣下が馬鹿に見えて仕方なく、諫言を受けても得意の弁舌で煙に巻いてしまうほどでした。
「帝辛」の増長はつのり、神への祭祀をおろそかにし、重税をかけて天下の宝物を自らの物にし、「尤渾」や「費仲」といった佞臣を重用し、「妲己」という愛妾に溺れ、日夜宴会を開いて乱交にふけりました。
また、「妲己」の言うことは、恐ろしいことでも全部聞き、行いました。
この時、「帝辛」は肉を天井から吊るし林に見立て、酒を溜めて池に見立て、欲しいままにこれらを飲み食いしたため、ここから度を過ぎた享楽の事を「酒池肉林」と呼ぶようになりました。
「帝辛」の親戚に「箕子」と「比干」という賢人がいました。
「箕子」は「帝辛」が象牙の箸を作ったと聞き、「象牙の箸を使うなら陶器の器では満足できず、玉の器を作る事になるだろう。玉の器に盛る料理が粗末では満足できず、山海の珍味を乗せる事になるだろう。このように贅沢が止められなくなってしまうに違いない。」と危惧し、贅沢をやめるように諫言しましたが、「帝辛」はまったく受け入れず、誅殺を恐れた「箕子」は狂人の振りをして奴隷の身分になりました。
「比干」は当時行われていた炮烙と言う残酷な刑罰をやめるように諫言しましたが「帝辛」は怒り、「聖人の心臓には七つの穴が開いているという。それを見てやる。」と言い、「比干」は心臓を抉り出されて死んでしまうのでした。

7年の幽閉後、西岐に帰還した「文王(姫昌)」は「太公望」を迎えるも死に、次男「武王(姫発)」が立つと、ついに天下の諸侯は「帝辛」を倒すために立ち上がりました。
「武王」は父「文王」の位牌を掲げ、軍を起こしました。
物語「封神演義」では、仙界大戦争みたいな感じになっちゃうんだけど…最後に両軍は「牧野(新郷市)」で激突します。
この時殷軍は70万を超える大軍でしたが、その軍は奴隷が多く占め、戦意は無いどころか「武王」がやってくるのを待ち望んでいたほどでしたので殷軍は大敗しました。
首都「朝歌」に撤退した「帝辛」は鹿台に上り焼身自殺し、その死体は「武王」により鉞で首を断たれました。
後世「夏桀殷紂(かけついんちゅう)」と呼ばれ、夏の「桀」と共に暴君の代名詞となりました。

事前調査で近くに「蘇妲己」と「姜王后」の墓もあるということだったんだけど…

こんな農道進むだけで、それらしきモノも無く、第一村人すら発見出来ず…付近で聞き込みすら出来なくなったため断念して引き返しました。

さて、続きは続編でお楽しみください。



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1 コメント

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行ってみたいです (唐猫)
2016-03-28 21:01:44
一度行ってみたい場所でした。貴重なお写真みせていただいてありがとうございます。
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