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リベンジ!石橋山古戦場

2012年11月27日 | 日本武尊・源平・戦国史跡めぐり
11月27日(火)
今日も電池の検証を兼ねてツーリング?…「石橋山古戦場」に行って来ました。
そこは25日(日)に近くまで行ったんだけど、135号線のどこから入って行けばいいのか分からず諦めたんです。
多分、ここから入るんだろう…という場所は分かっていた(案内板みたいのもあった)のに、その道路が狭くて下って来る車でいっぱいで一方通行かと思って諦めちゃったのさ。
今回はちゃんと地図で調べて行ったけど…そんなに複雑というか、道が多いワケでもないしね。

まぁ適当に走って、上からだけど「佐奈田霊社」に着きました。

治承4年(1180年)高倉宮以仁王の平氏追討の令旨を掲げて「源頼朝」が伊豆で挙兵しました。
伊豆・相模の武将の援軍を得て300余騎を従えた頼朝は、鎌倉に向かう途中の「石橋山」で前方を平氏方「大庭景親」の軍勢3,000余騎に、後方を「伊東祐親」の300騎に挟まれ大苦戦となりました…これが「石橋山の合戦」です。
頼朝方の先陣「佐奈田与一義忠」が敵将の「俣野五郎景久」と対戦したのを発端として戦闘に入りましたが、10倍を超える敵の軍勢に頼朝方は敗れ、箱根山中に逃れた後、真鶴から海路安房(千葉県)へ向かったのでありました。
この敗戦には俺の地元の「三浦一族」の援軍が酒匂川の増水によって足止めされて頼朝軍に合流ができなかったのと、三浦勢が到着する前に雌雄を決すべしと景親が夜戦を仕掛け、闇夜の暴風雨の中を大庭軍は頼朝の陣に襲い掛かったことが大きいです。

「佐奈田霊社」です。
この霊社は、与一が景久と組み討ち中、味方からの問いかけに対し「たん」がからんで声が出ず、そうこうしているうちに、敵に討たれてしまったという伝承にちなんで、たん、咳、ぜんそく、声に霊験があるとして知られます。



「石橋山の合戦」の説明が書かれていました。

境内にあった石碑たち。



これは「与一塚」です。

「石橋山の合戦」で、頼朝方の「佐奈田与一義忠」は敵将の「俣野五郎景久」を組み伏せましたが、与一の刀は血糊がこびりついて抜けず、その間に敵の「長尾新六」に討ち取られてしまいました。
その与一の遺骸を葬ったのが、この「与一塚」です。



石段を下って行くと「佐奈田与一義忠討死の地」がありました。
与一が俣野五郎景久を組み伏せた畑が、今でも「ねじり畑」として残っていますが、戦の後この畑の作物はみな「ねじれてしまう」ということからこの名になったといわれています。

これは「文三堂」です。



少し歩いたら「石橋山古戦場」の石碑がありました。
本来は下から上がって来るんだろうな…と分かりました。

帰りはさっきの駐車場から下って行くと…やはり一昨日下りの車で渋滞していた135号線に合流する道路に出ました。
…って、一通じゃないじゃん…一昨日は日曜で観光客が多くて?たまたま下って来る車に道が塞がれてただけかもね。
だから今日はそこから上がって行けたと思うけど遠回りしてたんだな…まぁいいけど。
今週末の大河ドラマ「平清盛」では、この「石橋山の合戦」が詳しく描かれるかどうかだね…楽しみにしておきましょう。



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