史跡ハンター 臥龍

 ★戦国・幕末&中国に関する史跡を中心に紹介しています★

 ご意見・ご感想・ご質問など、気軽にメッセージください!

鎌倉「日蓮聖人」ゆかりの史跡

2013年07月23日 | 日本武尊・源平・戦国史跡めぐり
7月23日(火)
今日は11時に藤沢にある派遣会社に登録の予約を入れてあったんだけど…何を血迷ったか?自転車で行っちゃいました。
派遣の登録は私服でOKだったし、昨日都内まで行ってるから交通費を浮かそうと思い…ついでに史跡ハントもしたくて実行しちゃったんだよね…
藤沢まで往復40Km以上…俺のバイクの(電池の)調子が良ければ十分往復できるんだけど今はちょっと不安だったからさ。
それでチャリで行っちゃったんだけど…やっぱ夏にやるもんじゃないね…死に掛けたわ。

家を出たのは9時…2時間で藤沢駅周辺に着くだろうという見込みで、まずは難所の葉山を越えて最初の史跡を通り道でハントしました。

ここ「滝の坂不動尊」は「吾妻神社」とも呼ばれ、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東国遠征の際に休憩したといわれる場所で…今でも当時からの霊水が湧き出ています。

去年、茅ヶ崎に通勤していたときは毎日この近くの横須賀葉山線をバイクで通ってて「滝の坂不動尊」は知ってはいたんだけどね。

本殿横の井戸みたいのに説明書きがあって…
『日本武尊が東征の途次こんこんと霊水が湧き出るこの地で休憩され、走水から上総国へと向かわれたと伝えられている。本殿横の井戸よりかつては霊水が溢れていたが、県道横須賀葉山線の工事に伴い、水脈が変化し水位が下がってしまった。』と。
下の湧水(上の写真)は霊水なのかなぁ?帰り手を洗って(清めて)立ち去ったけど…
それから長柄に出て、長柄小学校付近にも吾妻神社があるらしく行ってみたんだけど…詳しい場所が分からず、下手に小学校に通ずる道に入って行くと、いくら夏休み中とは言え不審者に思われたらイヤだから捜索はしませんでした。
帰ってからネットでもう一度調べてみたら近くにあった急な石段を上って行けばあったみたいだけど、写真を観るととても神社と呼べるような建物ではなく、小さな社だけあるみたいよ。


そして桜山、逗子、久木、小坪を抜けて大町に入りました。

ここは「長勝寺」です。
「長勝寺」は日蓮宗の寺院で、建長5年(1253年)日蓮聖人が鎌倉の松葉ヶ谷に来て、初めて草庵を結んだ所の一つです。

帝釈天大堂の前庭の高村光雲作の日蓮大聖人辻説法像です。

日蓮聖人像の周りに四天王(持国天、増長天、広目天、毘沙門天)が聖人を護るように立っています。

本師堂と祖師堂 (法華堂)です…法華堂は創建当時の建物らしいよ。

本師堂と祖師堂 (法華堂)の間にある鐘楼です。


「長勝寺」を出ると近くに「日蓮水」と刻まれた石碑があったけど…何だろう?

「長勝寺」から2、3分の所に「安国論寺」があります。(拝観料100円)

これは本堂です。

境内にあったモノ。

日蓮聖人はこの御小庵で「立正安国論」を記し、前執権「北条時頼」に建白しました。

これは御小庵の横に建てられている「熊王尊殿」で、日蓮聖人の従者「熊王」が祀られています。

松葉谷日蓮上人遺跡の碑です。

「安国論寺」を出たのが10時半ごろ…あと30分で藤沢まで着くのかなぁ?

これは「上行寺」です…日蓮聖人弘教の霊場だってさ~
鎌倉大仏前を通過し、深沢鎌倉線をひた走り…何とか派遣会社がある近くのスーパーの駐輪場に自転車を停めて、ほぼ11時ジャストに入ることができたよ。
しかし、全然汗が引かず…1時間くらいで書類の記入、面談、テスト?やらを終えたけど、汗が引いたころ腕で塩化してたよ。
とりあえず、今回希望した業務は採用されるか分からないけど、一度登録しておけばまたどこか紹介してもらえるでしょう。
12時に派遣会社を出て、鎌倉片瀬藤沢線を江ノ島方面に進んで行きました。
途中、ついにコンビニで飲料(ペットボトルを凍らせてるヤツ)を買ってしまった…

12時半ごろ着いたのが「常立寺」です。

近くの「滝の口の刑場」で処刑された刑死者を弔う為に建てられた寺だそうです。

これは「元使塚」で、文永11年(1274年)10月の蒙古襲来(元寇)の翌1275年(建治元年)4月に元の使いとして日本にやって来た杜世忠ら5人は捕らえられて鎌倉へ護送され、「北条時宗」の命によって龍ノ口で斬首されました。
ここ「常立寺」に五基の五輪塔が建てられ、供養されたと伝えられています。

これは本堂です。

その6年後、弘安4年(1281年)5月に元は再来しましたが、再び台風に襲われ…こうして「北条時宗」は日本の国難を切り抜けることができました。


昔、営業で来ていた江ノ島駅近くの時計屋…まだやってたとは驚き。

江ノ島駅近くの「龍口寺」です…って、つまり俺は昔、月に1、2回はここに来てたんだよ。
でも当時(約15年前)は“史跡ハンター”じゃなかったからね…
日蓮聖人(1222年~1282年)がご入滅された後、直弟子の日法聖人が、延元二年(1337年)に「龍ノ口法難の霊跡」として、一堂を建立し、自作の日蓮聖人像と、首の座の敷皮石を安置したのが寂光山龍口寺の始まりです。

「龍の口刑場跡」です…鎌倉時代、ここは罪人を斬首する刑場でした。

「龍乃口」と書かれた仁王門を上がって行くと山門があります。

そして本堂が見えます。

これは妙見堂です。

これは御霊窟です。

龍ノ口法難の際、日蓮聖人が処刑までの間、一時入れられていた土牢です。

本堂左脇の石段を上がって行くと…

七面堂があります。

境内の日蓮聖人像です。

本堂と日蓮聖人像です。

これは鐘楼堂です。

これは大書院です。
日蓮聖人は「立正安国論」を鎌倉幕府に奏上したことが、貞永式目の「悪口の咎」にあたるとして文永8年(1271年)に捕らえられて市中引き回しの上、この地で斬首されることになりました。
しかし日蓮聖人が首切りの座に据えられたとき、にわかに雷鳴が轟き、刑吏が振り上げた刀は落雷で折れてしまい…処刑は不首尾に終わりました。
そして「北条時宗」の使者が来て処刑は中止、佐渡への流罪にとなりました…その刑場跡に立てられたのが、龍口寺です。

「龍口寺」前を通過する江ノ電です。

そして海岸沿いの134号線を走り…滑川から若宮大路へ。
今日はやたら屋台が多いなぁ…って思ってたら鎌倉の花火大会があるんだね。
でも夕方、突然大雨が降ったから…開催されたのかな?

ここは「日蓮辻説法跡」です。
安房の清澄寺で日蓮宗(法華経)を開宗した後、鎌倉入りした日蓮聖人は、鎌倉の松葉ヶ谷に小庵を結び、布教活動を行っていました。
当時、この辺りは説法するのに最適な場所だったんでしょうかね?

建長5年(1253年)に鎌倉に入りますが、当時の鎌倉は地震、暴風雨、干ばつ等で疫病が続発し、不安と恐怖におののく人々を救おうと道行く人々に辻説法を行い、法華経を熱心に説いていたのでした。


さらに1Kmほど進むと「源頼朝の墓」があります。(この石段を上がる)
だけど、もう何度も来て見ているんでスルーして右に少し進み…

この石段を上がって行くと法華堂跡があります。
法華堂は鎌倉幕府2代執権「北条義時」(北条政子の弟)の墳墓堂でした。
この石段を上がるとき、ついに脚(太もも)が攣ったよ…もう自転車でも30Km以上は走ってたからね。

さらに奥に鳥居があり…

近くの谷倉に「三浦一族の墓」があります。

宝治元年(1246年)6月5日、宝治合戦で北条軍に攻められ「三浦泰村」以下一族郎党500余人が法華堂で潔く自決しました。

鳥居の先の石段を上がって行くと…3つの谷倉の墓があります。

一番左は「毛利季光の墓」です。

真中は「大江広元の墓」です。
源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献しました。

一番右は「島津忠久の墓」です。
島津忠久と毛利季光(大江広元の四男)は宝治合戦に三浦氏に組して法華堂で三浦一族と共に自刃しました。

帰りはまた「安国論寺」前を通り、逗子、葉山を抜けて行ったんだけど…こりゃホントにキツかったわ。
せっかく交通費を浮かしたのに飲料や食事で金を使いたくなかったから、途中で飲料1本買っただけで昼飯も食わずに帰ったよ。
もうこういうムチャはやめよう…普通のチャリで40Km以上走らないでしょ、フツーは…
今日は日蓮聖人に関する史跡が多かったね…今年「鎌倉」は世界遺産に登録されなかったけど、再チャレンジするんですか?
ぜひ、再申請するなら頑張って欲しいですね。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前の記事へ | トップ | 今週のショッピング!? »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日本武尊・源平・戦国史跡めぐり」カテゴリの最新記事