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我的三国演義~まえがき『三国演義と青州』

2008年03月04日 | 我的三国演義
我的三国演義~まえがき『三国演義と青州』
さて、2007年7月21日から始まった“三国史跡ハント”ですが、2008年2月12日をもちまして一段落しました。
そこで、“我的三国演義”と題しまして、“三国演義”の世界に沿って、俺が今まで旅してきた(ハントしてきた)史跡を紹介したいと思います。

まず“三国志”は、中国の「後漢」末期から「三国」時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史の通称です。
この時代の歴史物語が“三国志”と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家「陳寿」(233年 - 297年)がこの時代の出来事について記録した歴史書の書名が、“三国志”であることにちなんでいます。
“三国志”は名の通り、「魏」・「呉」・「蜀」の三国の興亡を筋とし、三国の名を冠する作品は歴史書であれ物語であれ、そこに違いはありません。
しかし、内容を大別すると、「陳寿」の歴史書は撰者の「陳寿」が「魏」から皇位を禅譲されて成立した「晋」に仕える人物であったことから、「魏」が「後漢」を継承した正統王朝であり、正統な皇帝が支配する王朝は「魏」のみであったとする立場なのに対し、“三国演義”をはじめとする物語の多くは、朱子学的な血統による正統の継承を重んじる意識から、「漢」の皇室劉氏の血を引く者が皇帝として支配した「蜀」こそが「後漢」の正統な後継者であるとしています。
このような違いから、これらは同じ事実に対してもまったく反対の解釈をとっていることがあります。
一般に“三国志”として理解されている“三国演義”の逸話の多くは、講談や小説の作者の創作を盛り込んだ物語を含み、これを歴史事実として受け取ることはできません。
また物語の登場人物が使用する武器についても歴史的に見て誤りであるものが見られるのです。
中国が3つの勢力に分かれて抗争した「三国」時代は、中国では古くから講談や演劇の雑劇の題材として好まれ、その取材元として利用されたのが“後漢書”と「陳寿」の“三国志”でした。

「陳寿」自身の撰述した本文は民間伝承のように信憑性の乏しい情報の利用を抑制し、非常に簡潔な内容であることから歴史書としての評価が高く、また、「南朝宋」の「裴松之」が施した注が、「陳寿」の触れなかった異説などを“三国志”が高い評価を受けたために省みられず散逸してしまった多くの当時の歴史書からの豊富な引用によって紹介しており、講談作者は“三国志”の本文・注や、“江表伝”などのその他の歴史書から自由に素材を取捨選択して利用することができ、彼らの脚色によって様々なエピソードが作られていきました。

「北宋」の頃には、三国物の講談、説話等は、中国を舞台にした戦記のなかでも圧倒的な人気の高さを誇り、繰り返し上演されました。
「南宋」から「元」の頃にはこれらの物語は書物にまとめられ、“三国志平話”と呼ばれる口語体による三国物小説が生まれました。

その後、「明」代に「施耐庵」あるいは「羅貫中」が三国物語をまとめ直し、“花関索伝”や“三国志”などの歴史書から小説の筋に適合する情報を取捨選択して加えたものが“三国演義(三国志通俗演義)”です。
ややもすれば聴衆への受けやすさを狙って荒唐無稽に語られた三国物語を、文学として優れた作品の域まで引き上げた“三国演義”は、「明清」代の中国で広く好まれ“四大奇書”のひとつに数えられました。

“三国演義”が人気を博す背景には儒教的倫理観に裏打ちされ、『劉備』という人物の人柄と、民衆の熱狂的共感を受けやすい粗野な豪傑『張飛』に加えて、『諸葛亮』『関羽』といった半ば神格化されたヒーローたちを主人公に据え、小説の読者である知識人たちが好むように物語を改変したことがあげられます。
また、『曹操』のような魅力的な敵役の存在は大きかったと思われます。

ちなみに“四大奇書”とは“三国演義”“水滸伝”“西遊記”“金瓶梅”以上四作品です。
ですが、本場中国では「清」王朝中期になってから“金瓶梅”の代わりに“紅楼夢”を加えたものを“四大名著”と呼ぶようになり、“四大奇書”よりこちらの方が一般的になりました。

さて、俺の“我的三国演義”ですが、基本的には歴史物語としての“三国演義”を元に構成していきます。
ただ、俺は小説を読むのが苦手でして…この“三国演義”も「横山光輝」の漫画作品“三国志”で読んだくらいです。
なので、展開の中心は「横山光輝」の“三国志”からで、それ以外に百科事典やら解説本などで調べた内容を盛り込んでいくつもりです。
中国中央電視台製作の“三国演義”(1994年放送の連続ドラマ)のDVDも持っているんですが、日本語字幕が無いので細かい部分まで理解出来てないんですよね…


ちなみに、これが三国時代の地図です。
今まで俺の旅行記を見ていて、全く地名と場所が一致しない方が多かったと思いますので…
そして今俺が住んでいる“青州市”という町はどこなのか?
上の地図で言えば…右上の方に青字で“黄河”と書かれていますが、その「河」の字の右側辺りが“青州市”ですかね。(大体ですけど)
俺はこの約7ヶ月の間に、この地図上の主な“三国史跡”をハントして来たワケなんですよ。


これが「後漢」末期の頃の中国地図です。
現在の中国は“直轄市”“省”“自治区”“特別行政区”などの行政区画がありますが、「後漢」末期はこの地図上の字に“州”を付けたモノが大きく分類される地方で、“州”には“刺史”(または牧)、その中の“郡”には“太守”、更にその中の“県”には“県令”が置かれていて、これらの行政官はいずれも中央の“司隷”から派遣されて統治にあたっていました。
なので、今俺が住んでいる“山東省青州市”は、「後漢」時代は“青州”という大きな一地方に属していたワケですね。
その頃の“青州”の“刺史”の居城は、今俺が住んでいる“青州市”では無く、隣りの“淄博市臨淄区”にあたります。
ま、この“淄博市臨淄区”というのは、紀元前1046年 - 紀元前386年に渡り“斉”国の首都があった地です。
この“斉”は「周」建国の功臣『太公望』によって建てられた国であります。
ちなみに『呂尚』(太公望)は、紀元前11世紀ごろに活躍した「周」の軍師、後に“斉”の始祖太公。
姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙または牙。謚は太公。
「斉太公」、「姜太公」とも呼ばれますが、一般的には『太公望』という呼び名で知られています。
『太公望』という別名は、「渭水」で釣りをしていたところを「文王」が「これぞわが太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」と言われ召し抱えられたという話に由来する、と言われています。
中国で「太公望の魚釣り」(太公釣魚)と言えば、「下手の横好き」と言うニュアンスらしいです。
この故事にちなみ、現在でも釣り好きを『太公望』と呼んでいます。
また、「明」代の娯楽小説“封神演義”においては「姜子牙」と称し、殷周革命を指揮する「周」の軍師かつ崑崙山の闡教の道士として主役格で登場しています。
なので、“淄博市臨淄区”は「後漢」以前からも城下町として発展していたのでしょう。
今の“淄博市臨淄区”はと言うと…この“斉”国の遺跡が残る町ですが、特に発展している町のイメージはありません…

これは、2007年9月16日に行った“臨淄東周墓殉馬坑”です。

まだ“斉”国に関する遺跡はこの“臨淄東周墓殉馬坑”しか見ていないので、いずれ暖かくなったら、今度は同僚の中国人男性教師「M先生」を連れ出して“臨淄”に行くつもりです。

それでは“三国演義”のなかで“青州”はどう取り扱われているのか?なのですが…ほとんど「蚊帳の外」的な感じですね…
『劉備』は24歳のときに挙兵し、184年“黄巾賊”の討伐に立ち上がりました。
“黄巾賊”とは新興宗教“太平道”の信者で、中国各地で反乱を起こしており、“青州”も“黄巾族”と“官軍”の戦いの地になっています。
『劉備』『関羽』『張飛』らは、「涿郡涿県」にて「程遠志」率いる黄巾軍に大勝利し、翌日には“青州”からの援軍要請に応え、「鄒靖」と共にこれを鎮圧しています。
これが1度目の登場です。

192年『董卓』が『呂布』に暗殺され、内政が乱れると、蜂起した“青州”の“黄巾賊”100万が“兗州”に侵入しました。
“兗州”を統治していた「劉岱」と「鮑信」は100万もの“黄巾賊”の大軍と対峙することとなりました。
「鮑信」は持久戦を主張するものの、「劉岱」は討伐を主張し、あえなく討死します。
そこで「鮑信」は『曹操』に“兗州牧”の地位を見返りに応援を要請します。
初めは苦戦した『曹操』ですが、昼夜を問わず攻め続けると同時に和睦交渉も進めていました。
『曹操』の提案は、信仰を認める代わりに“黄巾賊”の一部の精鋭は自分の配下に帰属すること、そして『曹操』軍の指令に従うことでした。
こうして『曹操』は“青州黄巾賊”の精鋭30万人を配下にし、一気に兵力で他を圧倒しました。
後に“青州黄巾賊”の精鋭は各地で目ざましい戦いぶりをし、“青州兵”と恐れられるようになったと言います。
これが2度目の登場です。

“兗州牧”におさまった『曹操』は193年秋に父「曹嵩」をはじめ一族を“兗州”に呼び寄せることにしました。
そのとき“徐州牧”の「陶謙」は一行の護衛に200名(三国演義では500名)ほどの兵をつけたのですが、彼らは一行を皆殺しにし財物を奪って逃走してしまったのです。
報せを受けた『曹操』は怒り狂い、“徐州”に大軍を率いて攻撃に向かいました。
このとき『劉備』は“青州刺史”の「田楷」とともに“斉”(今俺が住んでる辺りかも?)に駐屯していましたが、「陶謙」からの報せを受け、救援に向かっています。
その後『袁紹』と同盟関係にあった『曹操』により、『袁紹』の子「袁譚」が“青州刺史”に任命され、「田楷」は「袁譚」によって追い出されてしまいました。
これが3度目の登場です。

194年『劉備』は「陶謙」の死後“徐州牧”になりました。
その後196年『劉備』は『呂布』に“徐州”を奪われますが、198年『曹操』に協力し『呂布』を討ちます。
そして『曹操』の計らいで“豫州刺史”を務めましたが、『袁術』討伐を理由に兵を率いて“徐州”に入りました。
ところが『袁術』が病死し、本来なら“許都”に兵を返さなければならないのですが、“徐州刺史”の「車胄」を襲い、“徐州”を奪ったのです。
この一件と『曹操』暗殺計画に名を連ねていたことが発覚し、200年『曹操』軍により攻撃されます。
『劉備』は“徐州”を捨て、「袁譚」を頼り“青州”に落ち延びました。
そして「袁譚」(三国演義では“徐州”の「鄭玄」)の取り成しで『袁紹』に迎えられ、“冀州”の「鄴」に落ち着きました。
これが4度目の登場です。

その後、200年の“官渡の戦い”で『袁紹』が『曹操』に敗れ、202年『袁紹』が病没します。
205年に『曹操』は「袁譚」を殺し、「袁尚」を北方の異民族の地へ追いやり(ともに袁紹の子)、“青州”“兗州”“冀州”“并州”の四州を支配しました。
207年には烏丸を征伐して華北を平定しました。
『劉備』は201年に『袁紹』の下を去り、“荊州牧”の「劉表」を頼っていました。
そこで『劉備』は「新野」の城を与えられ、約7年を過ごすこととなります。
ですが208年「劉表」が病死し、後を継いだ息子の「劉」は、華北を平定して“荊州”に攻め込んで来た『曹操』軍に対し、“襄陽”を無血開城してあっさり降伏してしまいました。
“三国演義”では、「劉」は『曹操』より“青州刺史”に任ぜられ、母「蔡氏」らとともに“青州”へ向かう途中暗殺されました…。
これが5度目の登場です。

これらは“我的三国演義”の本編で詳しく語っていくつもりです。
他には「横山光輝」の“三国志”には出てこないんですが、「孔融」(153年-208年)も“青州”に関係しています。
「孔融」は「孔子」20世の孫に当たります。
出身地も遠祖の「孔子」と同じく“青州”魯国の「曲阜県」です。

これは「曲阜」“孔廟”の“大成殿”です。(2007年1月2日訪問)

「孔融」は若年期より英明の誉れ高く、そのまま「後漢」の朝廷に仕えました。
一時逼塞しますが、「後漢」の最混乱期に「北海国」の“相”となり、さらに“青州刺史”として“黄巾賊”で荒れる山東地域を支えました。
また、そうした中でも「鄭玄」を招聘して学校を開くなど、儒学の教布に努めました。
また「鄭玄」の紹介で『劉備』と親交し、後に「陶謙」の遺託で、“徐州刺史”に強く推挙したといいます。
また、「孫乾」を『劉備』の参謀とすべく計らったともいいます。
その後、一時的に“青州”は安定しますが、今度は近隣で『袁紹』が急速に勢力を拡大し、「孔融」も『袁紹』の長子「袁譚」に攻められ、「許昌」に逃亡しました。
その後は中央の朝廷に仕え、「孔子」の子孫という立場と威厳ある風貌、さらには類まれなる文才で文人サロンの中心的存在となりました。
後に「建安の七子」の一人に挙げられています。
「孔融」は、時の権力者の『曹操』と、事ある毎に対立していました。
「孔融」は『曹操』の施政の中で納得いかない事があると、前例に喩えて厳しく詰りました。
しかし、当てつけがましく、屁理屈が多いため、『曹操』は「孔融」を嫌悪していました。
南方への遠征を目前の208年に、激怒した『曹操』はついに「孔融」と孔氏一家を逮捕し、一家揃って処刑しました。
『曹操』が聖人「孔子」の子孫を殺害したことは、後々まで『曹操』が非難される理由の一つとなりました。

これは同じく「曲阜」“孔府”の入口です。
「孔子」の子孫が暮らしていた邸宅です。
ここに「孔融」も住んでいたことがあるのか知りませんが…。

これは“孔林”の入口です。
「孔子」をはじめとする孔家歴代の墓所です。
でも、この“孔林”に「孔融墓」は無く、“淄博市臨淄区”にあります。
そこは一度ハントに失敗(それ以前の問題かな…)しており、リベンジを目論んでいるところです。

ちなみに“濰坊市”の「孔融廟」も、ずっと工事中でハントに失敗しています。(2007年9月10日訪問)
この「曲阜」の“孔廟”“孔府”“孔林”を合わせて“三孔”と言い、『世界文化遺産』に認定されています。
「曲阜」から近い「泰山」は『世界文化・自然(複合)遺産』に認定されていて、どちらも訪問(2006年12月30日~2007年1月2日)していますので、ブログを参照してみてください。

「孔融」が“青州刺史”として“黄巾賊”を討伐していた頃、「太史慈」(166年-206年)との話もあります。
「太史慈」は初め「東莱郡」の官吏を務めていましたが、ある上奏文を取り上げたために上司から疎まれ、「遼東郡」に逃走しました。
その留守の間、彼の母の面倒を「孔融」がみたといいます。
その恩に報いるため、「孔融」が黄巾軍の残党である「管亥」に攻められていたとき、「太史慈」は救援に駆けつけました。
しかし、「管亥」の攻撃は激しかったため、「太史慈」は単騎で敵の包囲網を突破し、当時は「平原」の“相”を務めていた『劉備』への救援要請の使者として赴いているのです。

まぁ他にも登場していると思いますが、“三国演義”と“青州”のつながりなんて、このくらいです。
だから、ここ“青州市”や“淄博市臨淄区”に“三国史跡”は残っていません。

このように「後漢」末期から「三国」時代にかけて、群雄割拠していた時代って日本の戦国時代とよく似ていますよね。
だから、シミュレーション・ゲームとして「信長の野望」や「三国志」は古くからのシリーズが今も根強い人気を持って続いているんです。
そして、2008年秋には映画「赤壁-RED CLIFF-」が日本でも公開されます。
どうやら二部構成(二部は2009年春ごろ日本公開かな?)になるようですが、「呉宇森(ジョン・ウー)」監督作品だし、“三国演義”の中の“赤壁の戦い”が映画化されるんですからね。
これは期待せずにはいられません。
キャストだって、「梁朝偉(トニー・レオン)」や「金城武」、俺が最も好きな中国人女優の「趙薇(ヴィッキー・チャオ)」が出演するんですからね。
恐らく、中国公開の方が早いので「日本語字幕が無くても見に行っちゃおう!」って思ってるんだけど…“青州市”に「赤壁」を公開する映画館があるだろうか…
…って言うか…“青州市”に映画館あったっけ? 

それでは、“我的三国演義”は不定期の更新なので次の「第一巻」はいつ更新するか未定です。
でも、それを読んでもらえれば、少しずつでも“三国演義”の世界と俺がハントしてきた“三国史跡”が分かってもらえると思います。

                      “三国史跡ハンター 臥龍”



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