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北陸・東海の旅②~越前福井・北の庄編 Part.3

2010年08月27日 | 日本武尊・源平・戦国史跡めぐり
8月27日(木)3/3

さて、福井駅の駐輪場に自転車を預け、15:50発のバスに乗りました。

電車だと17分で「一乗谷」に行けるんだけど、バスだと25分ほど掛かり、16:18ごろ「朝倉資料館前」に到着~。
バスだと「武家屋敷前」などの史跡前でも降りられるんだけど、この「朝倉資料館」でレンタル自転車を借りて、朝倉史跡の更に先にある「一乗滝」まで行きたかったんでさ。
で、「資料館」に入って、自転車を借りたい旨を係員に伝えると、「ここの営業が17時までだから(あと40分しかないので)貸せない」とか言い出しやがってさ。
だったら、こんな「資料館」で降りずに、史跡前までバスで行ってたわ。
だって、史跡前までだって、ここから約2Kmあるんだよ…

食い下がったところで、どうにもなるワケがなく、帰りは電車で福井駅に戻りたいから約1時間20分しか無い…
バスはもう当分来ないし、タクシーなんて走ってない…徒歩じゃ「唐門」くらいまでしか行けないけど、せっかくここまで来たんで歩き始めました。

こんな所、トボトボ歩いてるの俺くらいしかいないよ…

歩き始めて約30分、ようやく「唐門」が見えてきましたよ~

これは、江戸中期頃に再建された「義景館」の「唐門」です。

「朝倉義景」が居住した館跡の入口ですが、朝倉氏の遺構ではなく、のちに「朝倉義景」の菩提を弔うために建てられた松雲院の寺門だと伝わっています。

ここは「一乗谷朝倉氏遺跡」という名の通りの遺跡で、1967年から発掘調査が進みました。
「一乗谷」は4代目「孝景」が造った城郭都市で、1471年に本拠地をここに移し、一時は3万人の巨大都市にまでなっていました。

5代目「義景」は室町幕府復興を託されるほどの実力者でしたが、「織田信長」との戦いに敗れ、わずか17名で戻って来ましたが、あまりの負け方に住民が土地を捨ててしまいました。
「信長」はすぐにこの町を三日三晩焼き尽くしてしまい、それがそのまま埋もれてしまっていたのです。
なので、発掘したときには戦国期そのままの町が出て来て、それを復元したのがこの遺跡です。
あまりの貴重さに「特別史跡」「特別名勝」「重要文化財」と国の三重指定になっています。
三重指定は「金閣寺」や「厳島神社」など、全国にたった5ヶ所しかありません。

「義景館」内にある「朝倉義景墓」です。

「朝倉義景(1533-1573)」
―1568年「足利義昭」を奉じて上洛した「織田信長」は、やがて幕府政治の復活を目指す「義昭」と対立するようになり、「義昭」は信長討伐のため、「義景」にしきりに御内書を送るようになります。
一方「信長」は将軍命令であるとして、「義景」に対して2度にわたって上洛を命じますが、「義景」はそれを拒否したため、1570年4月「義景」は「織田信長」「徳川家康」の連合軍に攻められることとなります。
連合軍の攻勢の前に支城である「天筒山城」と「金ヶ崎城」が落城し、「一乗谷」も危機に陥いますが、「浅井長政」が「信長」を裏切って織田軍の背後を襲ったため、「信長」は京都に撤退しました。
1570年6月「織田・徳川連合軍」と「朝倉・浅井連合軍」は姉川で激突(姉川の戦い)しますが、朝倉軍の総大将は「義景」ではなく、一族の「景健」でした。
1573年8月8日「信長」は3万を号する大軍を率いて近江に侵攻し、これに対して「義景」は2万の軍勢を率いて出陣しますが、「田部山の戦い」で朝倉軍は大敗し、柳瀬に逃走しました。
しかし「信長」の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受けてしまい、「義景」自身は命からがら疋壇城に逃げ込みました。
その後「義景」は疋壇城から逃走して「一乗谷」を目指しましたが、この間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは10人程度の側近のみとなってしまいます。
8月15日「義景」は「一乗谷」に帰還しましたが、朝倉軍の壊滅を知って「一乗谷」の留守を守っていた将兵の大半は逃走してしまっていました。
8月16日「義景」は「景鏡」の勧めに従って「一乗谷」を放棄し、東雲寺に逃れました。
一方、8月18日に「信長」率いる織田軍は「柴田勝家」を先鋒として「一乗谷」に攻め込み、手当たり次第に放火しました。
この猛火は三日三晩続き、これにより朝倉家100年の栄華は灰燼と帰したのです―

「義景館跡」の先には有料の「復元町並」があり、更に4Kmくらい先には「バガボンド史跡」である「一乗滝」があるのに、俺の「一乗谷朝倉氏遺跡」はここまで。
また「資料館」方向に戻らないと、17:42発の電車に乗れないからさ…
ちなみに「一乗滝」は、「佐々木小次郎」が秘技“つばめ返し”を編み出した所として伝えられていて、「佐々木小次郎」像もあるんです。
もう2度と来ることも無いだろうから、行きたかったのに…

また約30分歩いて「一乗谷駅」に戻ります。

ホント、何も無い町ですよ…遺跡もそのまま残るワケだ。

先にあるのが駅かぁ?

17:30ごろ駅に着きました。

1両のみの「越美北線」です。
整理券取って、駅で降りた後に精算です。
俺以外にも公共の交通機関使って観光に来てる人もいるんだ…
18:00福井駅に着き、すぐ自転車を出しました。
レンタルだからね…ナンバーなどの写真撮っておいて良かったよ…回転式?なんで、少し場所が移動しちゃってたからね。

「朝倉氏遺跡」にいる時に、レンタル自転車屋に電話しておいたんだけど、店の閉店が18時だったらしくてさ…
でも、福井市内にハントし残した銅像があったんで、返却が18時半になる了承を得ていたんです。
これは「福井城内堀公園」にある「旅発ちの像(横井小楠&三岡八郎)」です。

これは福井城址にある「結城秀康」像ですが…「趙雲」みたい。

これは「福井神社」です。

「福井神社」の祭神は「松平春嶽」であり、この鳥居?から境内に入ると…

「松平春嶽」像があります。

近くの「中央公園」には「由利公正」像があります。
さぁ…やっと福井の史跡ハントも終わり、18:30自転車屋に返却しに行きました。
もう、ジイさんとバアさんしかいないらしく、店のシャッターも閉めるので裏の勝手口から入って欲しいと言われてたんです。
応対してくれたバアさんにお礼を言って、福井駅まで歩いて戻りました。

今日は「敦賀」にホテルを取ってあるし、余裕があるから「まちなか案内所」のオネーさんに報告に行き、それから少し「お土産屋」を探索して19:16発の「北陸本線」で「敦賀」に向かいました。
20:20「敦賀」に着き、予約しておいた駅近くのホテルにチェックインしました。

相変わらず、今日も朝食(パン)以来何も食べてないんで、フロントのオジさんに「近くに美味いラーメン屋でも無いか?」と尋ねたら、自分もよく食べに行くという屋台のラーメン屋を紹介してもらいました。
屋台なんで出てないかも知れないと言われたけど、どうせ何か食べに行くか、買いに行くかなんだから教えてもらった方角に歩いて行くと…
ありました「ごんちゃん」です。
さすが、地元のオジさんのお勧めだけあって美味しかったですよ。

今日は福井市の最高気温も36℃と、体感温度的にも凄く暑かったなぁ…
水分補給だけは欠かさずにしてるんだけど、今日は9本ペットボトルを買ってましたね…
それも、ほとんどコンビニの冷凍コーナーにある凍らせた飲料を買ってました。
これは、溶けるまでは身体を冷やす事に使え、半分くらい溶ければシャーベットのように飲めるしね。
ただの飲料だと一気飲みしないと移動中に温くなっちゃってるからさ…
今日1日で、けっこう日に焼けたよ。
明日は早朝から「敦賀」探索をして、10時過ぎには「関ヶ原」に着く予定です。
明日の最終日も頑張るぞぉ。



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