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細雪

2009-02-03 07:49:14 | Weblog

画面には、そんなにきれいでもない冬の川面に雪が降り続ける様子が映し出されている。
降っても降っても川面にたどり着いた途端に、雪は跡形もなくなっていく。
桜の花びらを思い出す。
降っても降っても、というのは川面の雪も、桜もおなじだろう。


「正月って、不思議に晴れるよね」という話をした。生まれてこのかた、といっても一歳や二歳の記憶は曖昧だけれど、正月に雨が降ったり天気が崩れたことがないように思う。
同じように七夕に空が晴れて天の川が見えたこともないし、桜は咲いたら首をかしげたくなるくらいに決まって空模様はあやしく、風も来れば雨もふる。
うまいこといかへん、もんだなと思う。


桜はあまり好きじゃないと、花見に誘われるたびに思っていた。
花見の宴会、うかれた群衆の怒号も、酔ったような色の花の色とおんなじで只、鬱陶しいだけだと思っていた。
人にたいしても、自分にたいしても、なににたいしても、どこか縺れ合うことから逃げたいなあと思っているところがある。
ずっと独りじゃ寂しいし、それじゃダメだと諌める気持ちもあるから向き直るのだが、やはり鬱陶しいなと思う自分がいる。昔っからそうだ。


けれど、この間、ふとこの「鬱陶しい」という文字面を頭に浮かべたときに、このややこしい感じの代表のような文字に「木」という字が2つ入っていることに気が付いた。
木や草が生い茂ってむんむんして匂い立つ様子がみえたような気がした。生い茂った草花のむせるような匂いはきらいじゃない。いい感じに酔っぱらう。
そう思うと、なんとなく鬱陶しいという字がイヤじゃないなと思って、恐る恐る、鬱陶しいなと思ってきた人やものや風景を頭に浮かべてみた。


鬱陶しいなと思ってきた人たちや風景はどれも、いとおしいなと思えるものでもあった。
時としてあまりにも濃度がこゆくて吐き気をもよおすコロンだって、思い返せば汗とまじって記憶をたどるヨスガになる。


あまりにも命が溢れ溢れて、たぎる気持ちの咆哮がたまらなくて、つい逃げたいと思ってきたのだと思う。
そして、そんないのちも、つむいで何とかしてきたつもりの人の気持ちも関係もはかないんだ。
咲いてもすぐ散らされる。
降っても水面におちたら瞬時に溶ける。
やはりいとおしいんだと、どこかで思ってることがわかった。



友人が焼いてくれて、久しぶりに市川崑の「細雪」をみた。
満開の桜ではじまる映画は、川面に降る雪でおわる。

なんだかんだと互いが互いを振り回したあとに、どうにかなったことと、なんだかうまくいかないことがある。
はじまりの予感もあれど、たぶん永遠におわってしまうことあるよ、と画面の雪は語ってるみたいだった。


映画もおわる頃、四人姉妹の長女役の岸恵子が言う、
「みんな、ええようにいったらええなあ」がとめどもなく胸に染みた。
子どもだった頃にはわからなかった。公開当時は14歳だった。
祈っても、かけずりまわっても、企んでもドタドタと咆哮しても、どうにもならないことはどうにもならない。
それでも人は、ええようにいったらええなあと願いつづけるのだと思ったら涙が出た。


鬱陶しいことは、いとおしい。
そこにははかなくても、いのちが匂い立つように息づいていて、
いつか消えることがわかっていても、互いにふれようと手を伸ばしあってるからなんだと思った。