Youtuberに典型だけれど、必ず誰かにその映像を観てもらうことを前提として行為する。だから映像の中は必ず演劇的なのだ。
別に大食いしたかったら、勝手に大食いしていたらいいが、それをYoutubeに投稿するということは、観てもらうことを前提とする。最近問題となる言葉にすれば、承認であろうか。
通常承認は3つのレベルの他者との関係で生じるものだ。簡単に紹介しよう。
1つは親和的他者との間の承認。つまり、家族や恋人、友人との間で。2つには集団的承認。学校や職場などの集団の中での承認。3つは一般的承認。見知らぬ大勢の人からの承認だが、社会の中で認められている価値を体現することで得られる承認である。例えばスーパーボランティアの尾畠さんの振る舞いは誰もが認めるところである。その利他性が誰からも承認される。
テレビに出る有名人や、先ほどあげたYoutuberは一般的承認のようではある。しかしながら、その承認の質は社会の中のなにがしか意義のある価値の体現であろうかというと、微妙な気がする。
おそらくは有名性自体が意義ある価値に昇華しているのであろう。実に空虚な価値だ。人々はよってSNSで自己表現に勤しむのだろうと思われる。まあ、このブログだってそういう一面があるのかもしれない。
ここでは、そういう問題を取り上げたかったのではなかった。最初に、「映像の中は必ず演劇的だ」と記したが、そこの部分を論じたかったのだ。
社会学者のE・ゴフマンは、社会状況の中での行為は必ず演劇的要素を含むとした。映像ではなくとも、演劇的なわけである。行為者は演技者であり、観客を意識した印象の演出者であるという。彼の社会的行為の理論は、どのような行為も自己呈示を含むという認識に止まらない、近代批判という側面がある。
演劇的に振る舞う私たち、自己呈示を自明視する私たちは、じつは近代が作り出した諸価値を体現するように行為するというのだ。ゴフマンに限らないのだが、E・フロムなどもそうだが、つまり、私たちのどのような行為も近代が作った台本通りということだ。
「成功したい」「金持ちになりたい」「有名になりたい」などの欲望は近代の欲望が微分した形式として現れているということだ。これらは自己の欲望のように見えて、それらを獲得することが自由であることの証明のように見えて、近代社会の台本通りの生き方に過ぎないというのだ。あるは合理的に把握することが正しいというのも、そういう近代化によって作られた台本通りというわけだ。
日本にも2兆円も資産がある人がいるらしいが、そういう近代の台本通りの欲望にもっとも適合した人物ということになる。2兆円となると、もう現実感もないのだが、ということは観念的な構築物であることがわかる。
このような事例からわかるのは、我々の文化は唯物論にみえて、人間の本質を観念的に理解しようとしているのだ。このような文化は台本通りなので、「規格化された人間」を作り出す。それゆえ、ゴフマンが言うような「役割」や「地位」という観念的なものによって評価してしまうのだ。ゴフマンはそのような文化を危ういと断じる。
私たちは従順、これが結論のようだ。ただ、ここで挙げたゴフマンもフロムもそれらに抗っている。