Drマサ非公認ブログ

スポーツに価値などあるのか

 朝起きると、テレビでモーニングショーがやっていた。相変わらず大谷ネタである。

 スピンドクターで、メディアが目くらましして、社会の重要事から目が逸らされる。そんなこともあるかと思うが、人々の文化志向が娯楽やスポーツに向いているからこその事象であろう。まあよくいう需要である。

 そもそもスポーツに価値はあるのか。娯楽に価値はあるのか。フとそんなことを考えてしまう。ボールを打って遠くに飛ばす。なんの価値があるのか。で点数多いほうが勝利。ネットでエンタメ見て楽しい。テレビでバラエティ見ている。沈潜すると、無価値が待っていると思うのは、僕だけではない。そういう人物がいるに違いない。生き難いね。

  まあニヒリズムの1様態、それだけでしかない。でもどうしても割り切れないものが残る。大谷のホームランで一喜一憂する私は、あるいは私を含む人間や社会は、そもそもどこに存在するのだろう。人間の喜びとは何か?人間とは何か?との問いを持てば、一喜一憂することの意味は霧散する。ここでは共感の力学は置いておこう。

 少しわかりやすくすれば、勝つ姿を見て喜ぶ姿を想起すると、なんだか「醜いなあ」という感じが襲ってくる。勝利に酔う。つまり常軌を逸している状態。

 通常勝敗を競うようなスポーツやその他コンテストは勝利を目指す。その時点で、勝利を信じて行動を決めていく。その行動にはどうしてもある一点を目指すことの暴力性がある。人々の心がある一点を目指すという点で、他を考慮しないので、心が単純化してしまい、心のもつ複雑さや豊饒さが後退していく。

 時に勝者は敗者を顧みないで、敗者の思考を奪ってはいないか。だから逆説的に敗者に心遣いしたり、敗者の美学や、失敗の美学を挙げ連ねる。

 この結果、勝利をひたする向かう姿勢から欠落を感じざるを得ない。それは全体性を考慮する志向であり、おそらく哲学的志向なんだろうと思う。大谷を英雄とする英雄賛美には少しばかり、そこに人間の危うさがある。

 別にそこで大谷を英雄として扱うのを禁止するべきということではなく、英雄視することの危うさを少しは自覚しておく、そういう人間の慎重さが必要ではないかと。実際に通訳の水原氏の問題を思い出せば、わかりやすい。それがスポーツやエンターテイメントにある落とし穴。

 スポーツであれば、スポーツに過ぎないし、スポーツという勝敗の基準が明確であるのでわかりやすいが、人生に勝敗の基準など何もないのだから、ルサンチマンが生じやすいように思う。そういえば、勝ち組負け組って、人生の意味を考えると、本当になんの基準もないとうのに、現代人は信じてしまっている、そんな気がしてきました。

 まあ生き難いわなあ?

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