goo blog サービス終了のお知らせ 

MATSUKISM ~松木円宏の役者道~

~NO ACTING,NO LIFE~
-「演」を通じて 「縁」をつなぐ-
「感動」が「人」と「世界」を変えていく

コクリコ坂ツアー

2011年08月11日 | 日記・エッセイ
ポム4th『広島~』のメンバーが8人ほど集まって映画を観た。
山本ともだちさんがいろんな企画を立ててくれるおかげだが、公演が終わった後にこんなにも頻繁にあっているというのが不思議でしょうがない。
しかしながら、心地よさが確かにあって、一期一会からこうして繋がりを保てていることが、素直に嬉しく思う。
ポム発信でも企画たてちゃおうかな( ̄▽ ̄)

『コクリコ坂』はと言いますと、個人的には好きでしたね。
好きな瞬間がたくさんあった、キャラクターもそうだし、その世界の雰囲気(時代と言うべきか)もそうだし。
また、その人物や作品から表現者として、また脚本家として刺激を受けるところもあって、とても実りある時間でした。

さて、舞台まで一ヶ月を切ったところで、そろそろ宣伝もしなきゃだし、作品づくりにもより一層の精進を。

8月予定だったワークショップについて

2011年08月09日 | 日記・エッセイ


先月の公演の当日パンフレットに8月にワークショップを予定していると書いたのですが、企画が進まず小屋も決められていないので、9月かそれ以降に実施いたします。
詳細が決まりましたら、こりっち、ブログ、ミクシィにて告知致します。
よろしくお願い致します。



今の

何を

描くのか。

アンテナを張って、引き出しを増やしながら、心を豊かに。

只今、次回公演の脚本の構想を練っております。






疑問から生まれてくるもの

2011年08月09日 | 日記・エッセイ
舞台の稽古で相手役とセリフ合わせをしながら「何でこうなんだろう?」「そこがそうだとここは?」みたいなことをたくさん話すのだけど、これがまたおもしろい。
何を図ったわけでもないのに、こうかもしれない、ああかもしれないと、お互い一切の断定なしに話をしていく。
何も決めないで、ただただ話す。
そして、話し合いの中で、お互い頻繁に発見があるのだ。
自分の役だけじゃなく、相手役についてや、作品について。
そうしてドンドン作品が深まっていく。

断定は相手の想像力を潰す可能性がある

そんなことを改めて実感した。
誰もが知っているような俳優にアクティングコーチが付く場合があるのは、本来監督や演出の役目なのかもしれないが、そこに至る前に、俳優の仕事ととして、こういった疑問に追求していくことでたどり着ける域があるからではないか。
もちろん、一人でできるに越したことはないし、一人の作業が十分でないと深まらないと思うのだけど、経験してみてとにかく今はこの発見の連続が楽しくて仕方がない。

こんな風に新しい経験を重ねながら、自分なりの演出方法や役作りの仕方を、より効果のあるものにしていけたらいい。



友人

2011年08月07日 | 日記・エッセイ
稽古の後、高校の時の友人と食事をした。
舞台に来てくれたりはあるのだけど、ゆっくり食事するのは何年振りだろう。

変わらない。

変わらない関係がそこにある。
仕事も違うから、良い意味でお互い他人事で、だからこそ茶化したり、親身になれたりする。
演劇人は友人ではなく仲間という意識が、自分には強い。
さらに身近な人たちとは、助け合うというイメージよりも、「戦友」という言葉が当てはまる。
以前、お世話になっている方にそう言ってもらえたとき、そう思ってもらえていたこと、そして同じ感覚であったことが素直に嬉しかった。
だから、今ではあまり得る機会もない、学生の頃を共有した友人と呼べる存在がいて、良かったなと思える。
普段はそんなこと思わないのだけど(笑)

変わらない関係、これもまた一つ大きな財産だ。
年齢を重ね、滅多に会わないからこそ、こういう機会に改めて気づくのだろうなぁ。



演劇人交流会なるもの

2011年08月06日 | 日記・エッセイ
知らない人とその場で交流するというのは、得意そうに見えて実は苦手。
相手が気を許してくれた分だけ入り込めるという性質であるから、相手が警戒していたり、接する気がなければ特に自分から関わることをしない。
逆に、相手に少しでも接しようという気持ちがあれば、それには最大限応えられる。
そんなこんな、最初は居場所もなく早々に帰ろうかとも思ったのだが、偶然にも知り合いが居てくれたおかげで、最後には参加してよかったと思えた。

いろんな人が集まっていた。
そんな場から、学ぶことも多くあったし、得た繋がりもあるし、こういう会に参加しなければ気づかないことにも気づけた。
いろんな意味で非常に有意義でした。

今日という日

2011年08月06日 | 日記・エッセイ
地中から出てきて七日で命尽き果てる蝉に、大きな音を立てて一瞬の輝きと共に散りゆく花火。
それら思うと、夏には少しの儚さと、生命の尊さにも似たものを感じてしまう。

原爆が落ちてから66年が経ったのだという。
今日は浴衣を着て花火を見、その後はドイツビールを飲みながら、ドイツ伝統の生パスタなどを堪能。
今を生きる自分はこうして今日を生きている。
それでも忘れてはいない。
当時、今日という日の8時15分に何があったかを。

原発と原爆は全く違うものだけど、広島の人たちは福島の人たちの気持ちがわかるといい、精神的な支えになれると感じて行動してる方も多いようだ。
そういった意味では自分にできることはない。
でも、先のつかこうへい原作『広島に原爆を落とす日』の舞台を終えて、この現実が向き合うべき事実として、今まで以上に強く認識されている。
そして、その想いを持って生きることが、唯一自分にできることなのだろう。
今後何を表現していくにしても、この想いを「背負う」という意識は変わらないように思う。

あの日のすべてに、黙祷を。

達成感というもの

2011年08月05日 | 日記・エッセイ


何でこう自分が良いと思えるサイクルを繰り返せないのだろうと考えたときに、日々の達成感を感じる機会が少ないのではないかという考えに至った。
小さな成功体験を積み重ねていくことは、何かを継続するにあたって非常に大切なことである。
それが、たとえば役者の糧とするべき積み重ねとして、小説を読んだり映画を観たりしても、それこそ台本を読んでいたとしても、達成感にはなかなか繋がらない。
まわりはどうかわからないけど、なぜか自分は。
一ヶ月に何冊読むとか目標決めてやりきったらそれは達成感あるかもだけど、とにかく自分の場合、舞台を一本やり終えるとか少し長い期間が必要なんですよね。

とまぁこんな風に、やること、やり方によって達成感が味わえたり味わえなかったり。
でも今になって、どんな小さいことにも達成するという意識があれば、達成感は生まれてくるし、進んでいけるのではないかと思うわけです。
また、達成感を味わえるような工夫をするとかね。
そしていつしか、そんなことを考えるまでもなく進んでいるのが理想。

さて、理想への第一歩を。

がんばって

2011年08月04日 | 日記・エッセイ


小西真奈美さんの『手紙』というエッセイ集の中にあるうちの一つを引用したい。



がんばって


この言葉が嫌いだ、という人がいる。

言われなくても頑張ってるよと思うらしい。

けれど私は

「がんばりすぎないで」と言われる方が困ってしまう。

心身ともに気遣ってくれていることはよくわかる。

けれど“この事は今がんばらなくちゃいつがんばるの”

そう思うと、どう返事をしていいのか困ってしまう。

私はきっと、人が思っている以上に大雑把で怠け者。

しかも最後には“まぁいっか”と思ってしまう性格。

「今だ!」と思った時に心も体も動かないと、

私の「今だ!」は、何度も来てはくれない。

だから「がんばって」と言われると、

素直にうれしくなって、

がんばれてしまう。



与えられたもの、巡ってきた機会に対し、自分がどれだけの覚悟で行動を起こすことができるか。
しかし、今はそんな環境にすらないに等しい。
機会は自分で作らない限り誰も用意してくれないのだから。
そして、がんばるのは常であり、「今だ!」という瞬間も常なのだと思う。
構想は、具現化しなければ何の意味も成さない。
現実的な問題多々あれど、机上の空論は一つ一つ確実に卒業していかなくてはと思う。




創作意欲

2011年08月03日 | 日記・エッセイ


自分の中にないものに触れること。

映画でも、小説でも、人の話でも、何でも。

そういったものに触れることで、創作意欲が刺激される。

おもしろいものです。

そうそう、今日は久しぶりにきれいな空と出会えた。

ひどい通り雨もあったけど、視界が開けているところで空と雲の境目が見られたりもして少し幸せ。

写メで撮った空は肉眼で見る空より素敵な色に変わって、実際よりもどこか幻想的だった。

切なくて、好き。