21st schizoid mannerism

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磯崎新の革命遊戯

2008-02-26 05:55:47 | Weblog
磯崎新との対話「1」 建築・日本・歴史 エディプスとしての建築家
磯崎新+田中純

磯崎 だんだんモダニズムを変えていくのだけど、その変え方が単に様式の中だけの変え方なんじゃないか。つまりこれが今世紀後半の世界の建築の流れそのものだと思うけど、これはどうがんばっても19世紀の様式史観の枠から抜け切れていない。例えばコーリンロウは非常にすぐれた「理想的ヴィラの数学」といった論文を書いていて、あれなんかモダニズムをもっと批評的に捉えなおしている。モダニズムを単なる様式ではなく、むしろ建築を、歴史を批評的に捉えなおしている。その弟子のピーターアイゼンマンやリチャードマイヤーといったコーネル派の連中が、ロウの理論を受け取りながら、近代建築の、コルビュジエの空間構成のロジックを彼から学んで、モダニズムスタイルに置き換えていく過程で、マイヤーのスタイルができあがって、スーパースターになっていく。アイゼンマンは、ロウの理論をテラーニの分析に応用していく。
 結局、スタイルなんですね。スタイリングみたいなものできまっていく。タフーリ的な見方、ロウ敵な見方、それはヨーロッパの視点、そういう視点はアメリカの大学の中で議論されるが、表に出ると19世紀的な様式史観に吸い取られていく。(p24)

■ロウ「理想的ヴィラの数学」のもっていた構造的な批評性、
建築家の実践としては、スタイルの問題となっていってしまう。=5年交代のスーパースターの制度

現代における構造的な批評とは?アトリエワン?現象?複雑系?アルゴリズム?

磯崎 伊藤忠太さんの発想はダーウィニズムに近いような感じがして、それとフレッチャーなんかの建築史の展開は似ている。もともとダーウィニズムが批判されたのと同じ仕組みが、建築様式お問題、建築デザインの流行の問題にもあるんじゃないかと思いますね。(p25)

■伊藤忠太  ダーウィニズム… 遺伝子の突然変異と、自然淘汰?というより、ここでは、単線的な進化論としてのニュアンスか。


建築のポイエーシス 小林康夫(p75)

おそらく、建築ーーよい建築ーーには船のイメージが潜んでいる。一定の仕方で区切られ、閉ざされた一つの建築空間の内部が、小さいながらもそれ自体で自立したひとつの世界あるいは宇宙として建ち表れてくるとき(中略)それは「船」に、似通ってくるように思われる。ここで重要なのは、言うまでも無く、単に閉ざされたその空間のありようなのではない。船を思わせる空間表象が船を喚起するのではないのだ。そうではなくて、建築の中から「船」という起源が浮かび上がってくるのは、何よりもそれが何かを、おそらくは共同体に関わる何かを搬んでいるということが観取されるからなのだ。
 船は何かを搬ぶ。そして、建築もまた、何かを搬びつつ、動いていく。不動である建築が、共同体的な何かを搬びつつ動いていく。次官の中を動いていく。(中略)未来という来たるべき時間の分有を搬ぶとき、建築は船としてそのある起源を浮上させるのである。未来に向けて未来そのものを搬ぶ――それが船なのである。(p77)

■共同体をはこぶものとしての建築 大地に根付くというより、浮遊する、流動するものを係留する、滞留、留めておくための、建築。としての船?




建築をめざして ル・コルビュジエ著 吉阪 隆正訳

2008-02-20 19:20:33 | Weblog
三版に際して(p11)

1924年には、どこの国でも、「建築は住宅のこと、普通のどこにでもある住宅のこと、普通の平凡な人のためにそれを取り上げていた。宮殿は捨て置いた。これは時代の特色だ。」「普通の人々の住宅を研究することは、すべて、人間的なものの根底、人間的な尺度、普遍的な要求と情緒を見出すことだ。それだ。これが最重要で、全てだ。(再販の序文)(p12)

■「住宅」という建築の問題が、尖鋭化した時代。現代の日本における住宅?戸建?マンション?


1921年「エスプリ・ヌボー(新精神)」の創刊に当たって、(p12)

道具的住宅、「住むための機械」は流通貨幣となったのだろうか?「どのように住む」ための機械か?昨日のようにか、今日のためにか?この回答はあまり確かでない。衛生設備は日の当たる側になったが、われわれの心の中にある「情」は表現されているだろうか?(p12)

この本の革命的な点ー「住むための機械」を要求するという考えを、そして私たちはまた、その機械が「宮殿」となりうるのだと主張することで、この生まれたばかりの考え方をひっくり返したのだった。そして宮殿という言葉の意味として、家屋のおのおのの機関が、全体の中に配置されるその値の高さゆえに、感動を興さしめるような関係にあり、意図の高貴さ偉大さを示すことにいたると考えたいのである。そしてこの意図とは、われわれにとっては、「建築」だったのである。今日「住むための機械」の考えに没頭している人は、「建築、それはつかえるものだ」と宣言しているようだが、われわれはこれに、「建築、それは感動させるもの」と答えたのだった。その結果、我々は侮蔑的に、「詩人」と非難されたのだった。(p13)

■コルビュジエの「機械」の持つ幅。感情や。美を含んだもの。

工学技師の美学、建築

工学技師の美学、建築、この二つは互いに連帯しあい授けるものだが、前者はまさに隆盛を極めており、後者は情けない衰退に瀕している。
工学技師は、経済の法則に立脚し、計算によって導かれて、我々を宇宙の法則と和合させてくれる。かくて調和に達する。(p25)

道徳の問題だ。虚偽は耐えられない。人々は虚偽によって破滅する。(p26)

■建築の、虚偽?

建築家に対しては、「三つの覚書」を書いておいた。
「立体(Volume)」はわれわれの感覚がそれを通じて知覚し、測定するもので、全的に影響を受けるものだ。
「面」は立体を包むもので、その感覚に抑揚を与えるものだ。
「平面(plan)」は面と立体を生み出す源泉であり、これによって、すべてを確定的に決定するものだ。
それからもうひとつ建築家のために、「指標線」感覚でとらえられる建築を数学によって秩序を与える会館にみちびく手段の一つを示そう。(p31)

■立体、面、平面、指標線… 建築物を、装飾、様式の体系としてではなく、抽象的な幾何学的対象として、捉える。数学がもたらす調和を、「指標線」によって用いる。

今の「多くの建築家」は、型にはまったプランの塗りつぶし仕上げ唐草模様や、彫刻柱やあるいは棟の鉛の仕舞などの中に見失い、初源的な形という考えを獲得していない。美術学校で一度もそれを教わらなかったからである。
“建築的な考えを負っていないが、単に計算の結果にだけ導かれて(この宇宙を支配している原理に基づいて)「役に立つ器」という概念から、「工学技師たち」は今日初源的な形を利用し、ある基準に従ってこれらの関係を定めているが、そこには建築的な感動を起こさせ、人間の作品と、宇宙の秩序とを共鳴させるものがある。(p40)

■工業製品のパラメーターである数学や物理の法則、宇宙においても普遍的な秩序
が、美、あるいは「建築的な感動」である、という考え方。そして工学技師は、経済の法則にもあわせて、合理的なものをつくる。

■初源的な形…アルド・ロッシとの関係。
 差異を類推させる、大もと=普遍性、普遍な秩序?


かつてオーギュスト・ぺレは次の言葉をしたがえた。「搭状都市」を。

■コルビュジエ 1920年の塔状都市計画案。60階建て、高さ220メートル、塔の間隔250~300メートル。

■現代の都市開発、マンハッタニズム、東京の超高層開発、森ビルの戦略…
現代にも息づく、コルビュジエの唱えた合理性の論理。でも、土地を細分化して建てこんで所有している日本の土地を、結合して立ち上げる日本の高層ビルの過密ぶり。

指標線

「建築の宿命的な誕生について」
「秩序の義務。指標線はいい加減さを除く保証である。精神の満足を提供する。」
「指標線は一つの手段であって、処方ではない。その選び方も表現のあり方も、建築の創作と一体を為すものである。」(p64)

原始人がその荷車を止めて、ここを彼の領地と定める。(中略)原始的な人間というものはない。あるのはただ原始的な手段である。これは家屋のプラン。このプランには、初源的な数学が決めてとなっていることを見て欲しい。そこには寸法がある。すべては、「寸法づけ」によって決まる。この建設者は尺度として一案容易と思われ、いちばん変化が少ないと想定される歩、足、腕、指などをもちいた。(P66)
彼は寸法を測ることによって、秩序をもたらした。測る為には彼は自分の歩幅を腕を指を利用した。そして作られたものは、彼の寸法に合致し、使いよく、すみよく、彼の尺度が与えられる。人間的な尺度になる。彼と調和を保つ。これは重要なことだ。しかし囲いの形や、小舎の形、聖壇のいちを決定するのには、本能的に直角や軸線や正方形や円にたよった。軸線とか、円とか正方形などは、幾何学の真髄であり、(中略)幾何学は人間の言葉である。
だが、対象物の個々の間の距離を決定するに当たって、リズムを発明した。目に感じられるリズムであり、はっきりした比例である。それらは人間の生物的宿命に属するものと共鳴する。たとえば、子供も老人も、野蛮人も文明人も黄金比に惹かれる宿命と一緒だ。

■人体の寸法、身体モデュール→モデュロールへ。
 幾何学、軸線、円、正方形…幾何学の持つ根源的な(原始人だろうが、現代人だろうが)秩序。→黄金比、指標線という手法。「美」のつくりかた。

■建築における幾何学の用い方は進化している。構造主義、位相幾何学、物理法則に基づいた、構造、設備、などなど。複雑系、アルゴリズムの展開…

住居の手引き(pp103)

「結論」現代の人々の心にはすべて機械的なものがある。機械的な感覚は日常の活動の中からも生じ存在する。この感情は、機械的なものに対する、尊敬であり、感謝であり、愛着である。
機械的ということは、それ自体の中に経済的要素を含んで選択が行われる。機械的な感情はまた論理的な感情である。
知的、冷静な人が翼を獲得したのである。(p105)

■機械的ー合理性ー感情をも含めた合理性。経済性をも含めて…
現代の建築をも包含する概念?性能型の建築。一方、ポストモダン以後の細分化された世界、細分化された趣味に対応するものは?もうちょっと不合理な、個人的、趣味的差異が、付加価値となって世界に流通するものも、またある。

平面の幻覚(p137)

「プランは内から外へと向かう。外部は一つの内部の結果である。」
「建築の要素は、光と影、壁体と空間である。」
「秩序立てとは、目的の序列化であり、意図の分類である。」
「人間は、建築的なものを地上1メートル70の高さにある目で認識する。目に映ずる目標、建築の要素を尊重した意図だけが、当てになる。もし建築言語以外の要素に頼るなら、平面の幻覚に陥り、理解不足か、または虚栄への傾斜によって平面の法則に違反する。」

美術学校で用いられる軸は、建築の災害である。軸とは一つの目標にむかっての行動の指針である。建築においては、軸は目的を持たねばならぬ。学校ではそのことを忘れ、無限、無定、無明、虚無へとに向かわせ、目的がない星型に交わらせる。学校で用いる字句は一つの処方、一つの要領である。(p146)

良い例。アテネのアクロポリス。ポンペイのフォーラム。

違反

これから示すことは、空間を考えなかったが、紙の上に星をつくった。星になるような軸線を引いた。建築の言葉でない意図に頼った。概念の間違いからか、または虚栄への傾斜からプランの法則に違反した。(p152)

悪い例。ローマの聖ピエトロ寺院(ミケランジェロの構想の改悪)、太陽王ルイ十四世の、ベルサイユの宮殿。虚栄による軸の戯れ。

建設から建築に移るとき、そこには高い意図がある。虚栄を避けなければならない。虚栄は建築の虚栄のもとである。(p154)

■虚栄に満ちた平面プラン。耳に痛い言葉だ…
 アーティスト気取りの、下衆な完璧主義

量産家屋(p169)

量産の精神状態は建築家諸兄にとっても住む人々にとっても、(感染と説得によって)いまわしいこととされている。考えて見なさい。やっとこぎつけたのにそれもいきせききって到達したのに、地-方-主-義へだと。やれやれ。

■こんな捉え方。建築の個別性と普遍性についての価値観。
 ふうーむ。
 




現在の興味メモ

2008-02-14 05:39:15 | Weblog
卒計 ひと段落。

力不足に対して。
①スキル不足
②ディテール・工法・その他リアルな生産に関する知識
③研究テーマ(場所論から?)


卒計ーーー自分の、アーティスト気取りの下衆な完璧主義によって、合理的な設計の決定条件を崩していく。コルビュジエ?藤本壮介?のように、ある種のキーワード、ダイアグラムで示すことのできる設計が、テーマとなる問題を解決している状態にしたい、プレゼンテーションで伝わるものにしたい、早稲田建築のややアナクロな概念主義、造形主義をも踏まえた上で、評価される作品にしたい、という邪念。パートナーのリアリスティックな性能主義は理解できるが、もうちょっと抽象的に、独断的?概念的に、解決する、解決のヴィジョン?解決の魅力的ストーリー(モノローグ?)を構築することによって、紙上の計画として評価されたい、という意識。建築学科の非社会性に近いような立ち位置に適合するための社会性を追求したい。ーーー評価されたい、という個人的な弱さ。所属している組織に評価されないと…という焦り。人格的弱さ。

思考の整理ができていない。思考に時間がかかりすぎる。蓄積しない。常に始めから考え直そうとする優柔不断。---合理的に思考、手法を体系化していかない。適当に物事を捉えすぎ。あと、不安で最初からやり直したくなるという、気持ちの弱さ、人格的弱さからくるもの。


研究ーー自分の設計手法にとって。
自分の興味、構成的な手法、様々な要素、あるいはシステムがレイヤー、層状に重ねられて、複雑なリニアな空間ができていく。そして、どこがカタチの決定条件なのか。決定条件を定めないと設計が収斂していかない。

☆キュビズム、デ・ステイル、ピュリスム、ロウの透明性の議論、
抽象芸術の美学から、生産、技術的な整合性、経済性をともなっている抽象図形。
池原義郎、入江正之の抽象形態の意匠的造形、

水野さんの、スカルパのドローイング論に触発された部分。
二次元でのスタディー(平面・断面・パース)と3次元の建築空間との関係
いかにして実体の空間として2次元で設計できるか?

場所論とのからみ。抽象芸術の否定、モダニズム否定、となりがちな部分と、それに対しての場所定位の抽象、周辺環境を建築要素として抽象化したときの、例えば軸線、にあらわれるもの。(場所論とは、違うな。異質なものだな、無理につなげる必要ない)

場所論は、建築を通史、思想的に見ていくときの切り口だな。場所と、非場所。ネットワーク化された現代。都市に浮遊する自分。「場所」あるいは「場所論」を価値として見た時のアナクロさは、やっぱり避けたい。卒論の失敗だから。

かたちの永続性と、意味の転用可能性。「機能は、形態に従う」by中谷礼仁、アルドロッシ、などタイポロジー派。
印牧さんの修論、スカルパの庭における、断片、「意味の宙吊り化」→かたちとその意味が1:1対応でない、多義的?な状態。

■機能って、メタファーみたいなもの?言ったから、そうなる。そう見える。
象徴的な意味を込めた造形、あるいは象徴的な記号の形態なんかと、そんなに変わらない?形態の自立性。
でも、リアルな社会生活の上で、形態には機能にあったカスタマイズがされないとなりたたないという現実。


磯崎新の建築談義#3 ヴィッラ・アドリアーナ

2008-02-14 05:10:28 | Weblog
ヴィッラ・アドリアーナ
ローマ皇帝ハドリアヌスによる、都市スケールの個人的テーマパーク

大浴場ーローマ都市においては、浴場がひとつのコミュニティセンターの役割を果たしていた。

18世紀のピラネージがたびたび題材にとりあげた

ル・コルビュジエへの影響
1920年代のピュリスム(純粋主義)から、洞窟的なイメージ(ロンシャンの教会堂の初期イメージ)

コルビュジエが20年代末にセルトの案内でガウディ作品見て回る
→一番興味持ったのは、カタラン・ヴォールト。
コルビュジエはこれ使う

ハドリアヌス
パンテオンののち、アドリアーナを20年かけて建設
徐々につくる、つぎたしていく

三島由紀夫の自死との関連
同性愛者ー
「僕がローマで発見したのは、ボルゲーゼ美術館にあるヘルマフロディーテでした。両性具有の像なんですね。(中略)両性具有は奇形でも不具でもなく、混在した自我の身体的な表現にすぎないのです。」

ローマ時代の壁のつくりかた
不整形の小石をコンクリートで固めたオプス・インケルトゥム(乱石積み)平積みと網目積みを併用したオプス・ミクストゥム(混石積み)→「大浴場」に使われる。


「ヴィッラ・アドリアーナ全体を見渡して驚嘆するのは、一つ一つの建物が形式的に完成されていて、反復が少ない。それぞれ変化に富んでいる。まるで建築形式の資料集成のようです。なかでも「ピアッツァ・ドーロ(黄金広場)」は、特に独創的ですね。バロック的な構成を先取りしています。

「僕は1978年に、「間」とう展覧会をパリでーーー
僕と武満徹が招聘された。僕は、「間」というコンセプトを、日本の独特の空間、時間に対する感覚の捉え方であると言って、それを空洞、空白、沈黙などと関連づけました。→「日本から「間」というのが来た。それに対抗できるヨーロッパにおける概念は何か。バロックしかない。「間」展に対抗できるのは、バロックだけだ」
ヴィッラ・アドリアーナにバロック起源のヨーロッパ的なものがある。
光と闇のめくるめく対位法

■「間 空洞、空白、沈黙…日本的なるもの?
■対位法とは


桂離宮とヴィラ・アドリアーナ
堀口捨巳の桂離宮論(パルテノンと茶室を比較)
「僕は、桂離宮の構造と、ヴィッラ・アドリアーナの構造が非常に似ていると思う。ハドリアヌス帝の持つ記憶をいっぺん消化して、空間化して、それがひとつの集合体になっている」イソザキ