21st schizoid mannerism

書き殴り捨てさkdぁえjlうぇfかdさ

差別と区別

2007-08-18 00:17:50 | Weblog
はっとした文章。

「私はヨーロッパで、白人の婦人たちが、黒人の青年たちと腕を組んで街を歩いている風景をしばしば見た。(中略)周囲の人々は微笑してそれを見ていた。それは私にとって、恐ろしい風景だった。(中略)彼らは、黒人を差別して見てはいなかった。彼らは、黒人を「区別」していた。人間と、テリヤや、九官鳥が違うように。
 私はアメリカに一つの希望を持っている。それは、あの国に黒人に対する人種差別があるからだ。
 アメリカの男たちは、白人の女の入浴を盗み見た黒人に、激しい怒りを爆発させるだろう。彼らは、その黒人に嫉妬しうるからだ。つまり、黒人を同じ人間として感じているに違いない。アメリカにおける人種差別の背後に、私は白人種の黒人に対する不安と、嫌悪の葛藤を感じる。それは、彼らが、黒人を人間と区別せず、同じ族として考えているからではないかと思う。アメリカの人種差別問題は、肉親の愛憎に似てはいないだろうか。今後、黒人問題はアメリカの最も大きな苦しみになるだろう。そこには、誰かが言ったように黒人問題ではなく、白人問題がある。
 だが私は、黒人を区別する人間たちと、その世界を、ひどく恐いものに感じる。アメリカの差別の方に、より人間的な苦しみを見るような気がする。この人種差別の問題に悩み続けているアメリカに、ある種の希望を持っているというのは、そういう意味だ。」
(『風に吹かれて』五木寛之 より)

この文章に書かれていることは、著者自身の体験を元にした思考と感情の発露であって、随想のようなものだ。勘に近い思想とでも言えるかもしれない。
それに、70年代に出版された本に記されているこのような人種意識がヨーロッパでアメリカで、今なお続いているのか知らない。

けれども僕はこの文章になにか確からしさを感じて、ひきつけられた。

「私は差別はしませんけどネ、区別はするんですよ」と断ってから、たとえばジェンダーの差についてなど、ああだこうだとクダをまく人を一人知っている。

彼のいうこともいちいち最もである。でも自分の気持ちの中で「区別」という言葉と上から降ってくる言葉や決めつけの態度に、なんだか引っかかることがあったのも間違いない。

おそらく、「知識」とか「学ぶこと」というのは、どんなふうに物事を「区別」するか、を知るということなのだろう。
人は物事を知るにつれ、世界を区別し、切り分け、分類し整理して引き出しに収める。
それは悪いことではないけど、整理した引き出しを放っておいて、自分は正しいと居直りを決めこんでしまうのは、怖い。下から常に引き出しから飛び出すエネルギーをためている事物と、それを上から押さえ込んで安心を得ようとする知識。

区別することで安心したら、もう何もその先の可能性はなくなってしまうことを忘れてはいけない。

つらり

2007-08-05 07:32:03 | Weblog
何かしら生産的なことが書ける気になるのはアルコールが入ってるときだけだな。

ジェームズスターリング(イギリス)
チャールズムーア(アメリカ)
グンナール・アスプルンド(スウェーデン)
アルヴァ・アアルト(フィンランド)

の建築と共通点としての「地形化する建築」。という仮説。
北欧のナショナルロマンティシズムと近代建築の語彙の融合が表していた、地形的な質を持つ建築の実践と、

近代建築(インターナショナルスタイル)に対する様々な批判論の渦巻いた1950~70年代。
アルドロッシ「都市の建築」
ヴェンチューリ「建築の多様性と対立性」
コーリンロウ「マニエリスムと近代建築」「コラージュ・シティ」
ケネス・フランプトン「批判的地域主義」

そしてその反近代の批判論に影響を受けるかたちでのコンテクスチュアリズム→ポストモダニズムの建築実践の流れ。ポストモダニズムが表層性とバブル崩壊によって葬り去られると同時に切り捨てられたコンテクスチュアリズムを、「地形としての建築」と解いて再考する。オブジェクト、あるいは純粋な客体/対象としての建築に対するアンチテーゼ。「都市において場所をつくる」ということへのフォーカスの意識。非場所/場所の葛藤。

「地形」=「枠組み」人を飲み込む枠、知覚の枠組み、
「背景」=「地」?
「枠」の構築?
「建築」=「間築」となっているもの?(ちょっとチガウ)

「建築」が「建築(建てて築く)」/「間築(間を築く)」となること?

西欧の古典的な都市組織―都市連鎖/都市的創成物

具体的な分析手法―原型と変形(Tranceformation)の連続。
敷地状況からの「変形媒質」に影響を受けて、形が変わっていくものとして、読み解く。あるかたちが、どのように効いているか。組織構造を明らかにすること。


自己批評→すこし形態論的。超越的視線。ヒューマンスケール、アイレベルの軽視。場所と建築の関係ははそういうものではない?(もっと分析も横断的にやればよい)






8/1

2007-08-01 16:03:03 | Weblog
いやーあ。
だらだら、だらだら。
すべきことが、できない。
焦り。

これは、ふつうか?
駄目では、ないか?
完璧を求めすぎか?それで結局なにもできてないのか?
4年がこれほどつらいとはなあ。
長期持久戦の卒論。
まちうけるコンペ。
まちうけるラスボス卒計。
旅行を楽しまないで、どうするよ!?
データを集めろ。
情報を整理しろ。
結局、勉強は、自分の糧になるかどうかだ。
そこを忘れなければ、余計な葛藤はないはずだ。
カッコーの巣を飛び立つのは、誰だ?
未知の魅力を解せ、おれ

結局のところ、自分は保守的なんだろうな。
非常に流されやすいかたちでの保守。
貫く自分はなく、今属している集団の価値観(革新や異化)は実現しようとするくらいの保守。革新が集団の価値ならばそれを必死でやろうとする弱さ、という程度の保守。自分自身の感情といえば、再認、追認、同意、肯定、維持、日常、退屈、安穏を求めてしまう性向だな。

なぜこんなに弱いのだろうな。
このマイナス思考。
酒を飲んで、まぎらす

足の裏、爪、
指先と静電気、ほこり鳥の同意のリズム、
集会の中心で、股関節の筋肉が収縮凝固しているという、意識。
詩をしたためてやるという、知識人の捏造、欺瞞、装われた趣味
絶えざる自己批評を(ゆるやかに、示唆しながら)覆い隠す、ふわふわ系
かわいくねえ

ずるいことなどどうでもいいが、
風すら、友すら、好意すら疎ましむ自意識過剰批判的マイナス思考の終わらぬ輪廻。
ふああ

実に凡庸極まりない