はっとした文章。
「私はヨーロッパで、白人の婦人たちが、黒人の青年たちと腕を組んで街を歩いている風景をしばしば見た。(中略)周囲の人々は微笑してそれを見ていた。それは私にとって、恐ろしい風景だった。(中略)彼らは、黒人を差別して見てはいなかった。彼らは、黒人を「区別」していた。人間と、テリヤや、九官鳥が違うように。
私はアメリカに一つの希望を持っている。それは、あの国に黒人に対する人種差別があるからだ。
アメリカの男たちは、白人の女の入浴を盗み見た黒人に、激しい怒りを爆発させるだろう。彼らは、その黒人に嫉妬しうるからだ。つまり、黒人を同じ人間として感じているに違いない。アメリカにおける人種差別の背後に、私は白人種の黒人に対する不安と、嫌悪の葛藤を感じる。それは、彼らが、黒人を人間と区別せず、同じ族として考えているからではないかと思う。アメリカの人種差別問題は、肉親の愛憎に似てはいないだろうか。今後、黒人問題はアメリカの最も大きな苦しみになるだろう。そこには、誰かが言ったように黒人問題ではなく、白人問題がある。
だが私は、黒人を区別する人間たちと、その世界を、ひどく恐いものに感じる。アメリカの差別の方に、より人間的な苦しみを見るような気がする。この人種差別の問題に悩み続けているアメリカに、ある種の希望を持っているというのは、そういう意味だ。」
(『風に吹かれて』五木寛之 より)
この文章に書かれていることは、著者自身の体験を元にした思考と感情の発露であって、随想のようなものだ。勘に近い思想とでも言えるかもしれない。
それに、70年代に出版された本に記されているこのような人種意識がヨーロッパでアメリカで、今なお続いているのか知らない。
けれども僕はこの文章になにか確からしさを感じて、ひきつけられた。
「私は差別はしませんけどネ、区別はするんですよ」と断ってから、たとえばジェンダーの差についてなど、ああだこうだとクダをまく人を一人知っている。
彼のいうこともいちいち最もである。でも自分の気持ちの中で「区別」という言葉と上から降ってくる言葉や決めつけの態度に、なんだか引っかかることがあったのも間違いない。
おそらく、「知識」とか「学ぶこと」というのは、どんなふうに物事を「区別」するか、を知るということなのだろう。
人は物事を知るにつれ、世界を区別し、切り分け、分類し整理して引き出しに収める。
それは悪いことではないけど、整理した引き出しを放っておいて、自分は正しいと居直りを決めこんでしまうのは、怖い。下から常に引き出しから飛び出すエネルギーをためている事物と、それを上から押さえ込んで安心を得ようとする知識。
区別することで安心したら、もう何もその先の可能性はなくなってしまうことを忘れてはいけない。
「私はヨーロッパで、白人の婦人たちが、黒人の青年たちと腕を組んで街を歩いている風景をしばしば見た。(中略)周囲の人々は微笑してそれを見ていた。それは私にとって、恐ろしい風景だった。(中略)彼らは、黒人を差別して見てはいなかった。彼らは、黒人を「区別」していた。人間と、テリヤや、九官鳥が違うように。
私はアメリカに一つの希望を持っている。それは、あの国に黒人に対する人種差別があるからだ。
アメリカの男たちは、白人の女の入浴を盗み見た黒人に、激しい怒りを爆発させるだろう。彼らは、その黒人に嫉妬しうるからだ。つまり、黒人を同じ人間として感じているに違いない。アメリカにおける人種差別の背後に、私は白人種の黒人に対する不安と、嫌悪の葛藤を感じる。それは、彼らが、黒人を人間と区別せず、同じ族として考えているからではないかと思う。アメリカの人種差別問題は、肉親の愛憎に似てはいないだろうか。今後、黒人問題はアメリカの最も大きな苦しみになるだろう。そこには、誰かが言ったように黒人問題ではなく、白人問題がある。
だが私は、黒人を区別する人間たちと、その世界を、ひどく恐いものに感じる。アメリカの差別の方に、より人間的な苦しみを見るような気がする。この人種差別の問題に悩み続けているアメリカに、ある種の希望を持っているというのは、そういう意味だ。」
(『風に吹かれて』五木寛之 より)
この文章に書かれていることは、著者自身の体験を元にした思考と感情の発露であって、随想のようなものだ。勘に近い思想とでも言えるかもしれない。
それに、70年代に出版された本に記されているこのような人種意識がヨーロッパでアメリカで、今なお続いているのか知らない。
けれども僕はこの文章になにか確からしさを感じて、ひきつけられた。
「私は差別はしませんけどネ、区別はするんですよ」と断ってから、たとえばジェンダーの差についてなど、ああだこうだとクダをまく人を一人知っている。
彼のいうこともいちいち最もである。でも自分の気持ちの中で「区別」という言葉と上から降ってくる言葉や決めつけの態度に、なんだか引っかかることがあったのも間違いない。
おそらく、「知識」とか「学ぶこと」というのは、どんなふうに物事を「区別」するか、を知るということなのだろう。
人は物事を知るにつれ、世界を区別し、切り分け、分類し整理して引き出しに収める。
それは悪いことではないけど、整理した引き出しを放っておいて、自分は正しいと居直りを決めこんでしまうのは、怖い。下から常に引き出しから飛び出すエネルギーをためている事物と、それを上から押さえ込んで安心を得ようとする知識。
区別することで安心したら、もう何もその先の可能性はなくなってしまうことを忘れてはいけない。