21st schizoid mannerism

書き殴り捨てさkdぁえjlうぇfかdさ

研究テーマえすきす

2008-03-31 11:13:47 | Weblog
現代の建築と場所

将来建築設計を生業としていくための基礎的な教養、そして自分の考え方、立ち位置を明らかにし、また磨くことを目的として、大学院に進学しました。卒業論文・卒業計画で考えたことをふまえ、文献研究を中心として研究をすすめていきたい。テーマは「現代の建築と場所」である。グローバリゼーションによる「場所」の喪失が詠われて久しいが、それでもなお現代人は、情報化された世界の中で場所の差異を認識し、みずからの身体を都市の場所に投入して生きている。アンリ・ルフェーウルの「空間の生産」を読む事から始めたい。 


卒業論文では、近現代建築の事例分析を通じ、ある固有の「場所」に建築を設計するときの、その場所と設計されたかたちの相関関係、設計プロセスにおけるそれらの取り扱いに関して分析・考察した。また卒業計画では、静岡県浜松市を敷地として、中部工業地帯に構造的に増加している出稼ぎブラジル人と日本人が相互に教育を行う施設を計画した。

建築を純粋に対象物、表現と捉えて意匠を追求するというより、建築を媒体としてその場所の風景や歴史にどう反応するか(場所との関係)、利用者の身体や行為とどう関わっていくのか(かたちと機能の関係)、どのような人々にどのように使われるのか(社会的関係の生産・固定)ということに自分の興味の中心があります。

それをふまえた研究を展開したいと考えております。
 

エスキス

2008-03-27 13:59:37 | Weblog
卒論では、あるかけがえのない固有の「場所」に新たに建築を設計するときの、その場所と設計されたかたちの相関関係、設計プロセスにおけるそれらの取り扱いに関して分析・考察した。

「場所」に関する様々な思想―ウィトルウィウスの時代から始まり、トポス、コーラ、ゲニウス・ロキといった様々な場所をめぐる言葉、近現代、実存主義以降の建築場所論、地理学などを参照した上で、現代都市において、場所性、場所の固有性と都市、建築との関係を考察したい。

グローバルに資本が流動化、世界化する現代都市においては、場所の固有性をはぎ取り、複製可能な技術・建築が様々な都市を覆っているが、それでもなお現代人は、情報化された世界の中で場所の差異を認識し、みずからの身体を都市の場所に投入して生きている。

現代都市における場所性を考えるうえで、インターネットという超物理・超時間的なツールが日常化し、大量の情報・記号が提供されることによって、身体的な経験、場所の体験なしに、場所が記号的に認識されている、という状況がある。
一方、もう既に存在する場所、かたちに実際に触れる、身体的に経験する中で、記号として認識された場所でなく、所与の環境の新しい意味、機能を身体が発見することもある。

現代都市における場所性は、人々が実際にそこで生を生きる中で、「認識された場所」というフェーズと、反対に「場所から発見される認識」この二つの相があるのではないだろうか。

研究テーマえすきす2

2008-03-27 12:42:49 | Weblog
卒論において、建築設計のプロセスにおけるかたちと環境条件の相関関係についての分析を行った。そのことをふまえ、設計するということと、利用するということの関係、つまり「かたちと機能」の相関関係について、アレグザンダーのパタン・ランゲージやアルド・ロッシのタイポロジー、構造主義建築に見られる形態図式、生態心理学のアフォーダンス理論の中に見られるかたちと機能の関係などを網羅的に調査する。
そして、かたちという静的なものに「時間」が導入される、生きられる時間というものが入ってくる事に着目した理論、文献を調査する。実存主義以降の建築場所論、時間というファクターの介入によって建築の「性能」の部分が問題となること、

そして、建築場所論、地理学の分野の文献をあたり、ある場所の固有性、特質に関しての歴史的解釈、そして現在における場所の固有性についての考察をする。


研究テーマえすきす

2008-03-26 06:49:13 | Weblog
「都市における「場所」に関して」

現代のグローバル経済原理による流動化によって、
都市の建築は科学技術・工業技術の著しい発展によって、工業生産され、複製可能な建築の集合体による都市を生み出した。いままで建築場所論の中で議論されてきた、かけがえのないアウラを持ったある「場所」という固有性を重要視する認識を薄めていくような都市の形成がなされてきたといえる。しかし、現代の人々はそのような「場所の薄さ」の上に、自らの生きる時間を重ねあわせながら、その生きる状況、生活の実践を通して、新たに固有性をもった「場所」を生み出している。既存の環境に対して、使い方を身体が発見していく、アフォーダンス理論や、ある場所の情報が記号として認識されることがもたらす影響についてを研究する。

デザインの生態学

2008-03-02 21:58:59 | Weblog
introduction 感覚の論理学

行為の中に、思考は圧縮される。たとえばスポーツ選手は、行為のさなかにいちいち理論的であることはない。行為中に理論的であるヒマはないからである。行為中に考えている選手はだめな選手である。しかしトレーニングの最中では、一つひとつの行為を解析しながら厳密にコントロールする思考が為されているはずである。
そこに込められた思考を一瞬のうちに圧縮して表現するおと。それが可能な者が優れた技を出しうるのではないか。
 デザインにおいても、事情は似ている。行為の中にいかに思考を埋め込んでいけるか。(中略)深沢直人は、デザインとは、未知であると自分では思っていながらも、行為や感覚のレベルでは、実は既に知ってしまったことを明らかにすることだという。身体では知っていたけれども、意識では気付かなかったことを発見すること。たとえばスポーツにおいて、思考を重ねてあるとき見出されたフォームは、それがむしろ最初からそうでしかなかったような自然さを持ち始める。試行錯誤を経た末の、なんだこれじゃないかという了解は、あたかもすでに知っていたことを発見しなおすような奇妙な感覚を伴わないだろうか。(p14)

■無意識の意識化のデザイン。身体や実存、現象に対して、遅れて理論や気づき、がついてくる。
もしくは、デザインにおいて、所与の形、形態、物質に対して、発見的に意味が見出される。突然変異?使い方、機能が、誘発される。解きだされる。発見される。

さらにそれが、有機的な時間の流れの中で獲得される。再現される。スポーツ(時間の流れを含んだ瞬間的な運動、身体)の中では例えば理論、分析、気づき、発見が、ある動きに凝縮されて発現できるのが、いい選手ということ。デザインの力というのもそういうこと。


環境のデザイン原理ーー複合するレイアウト   佐々木正人

サーフェス(表面 surface)とレイアウトの複合

これはエドワード・リードが言っているのですが、考古学の史料によれば、新石器時代から人類の歴史を何万年かたどってみると、人の周囲にあったものは、容器、棒、スポンジ、くし、叩ききるもの、楽器、ひも、衣服、装飾品、尖ったもの、縁(へり、edge)のあるもの、顔料、寝床、火 の計14種類のものでそれはずっと変わっていない。縁のあるものとは、ナイフや刀などです。私はここにスポンジがあることに驚いたのですが、水をよく含むもので身体を洗うということは生存にとってすごく重要なことなのです。
 (中略)たとえば地上のあらゆる「容器」は5種類の性質を徹底して探索したあげくにできたレイアウトです。いかに液体を側に置いておくことが人にとって重要だったか、容器のレイアウトによって、液体を飲む、という行為の様態が変わります。ビアマグは液体をのどに流し込む。猪口は液体を唇に止める。「楽器」を、容器のもう一つの利用法です。空洞があるといろいろな振動が生じます。(p43)

■道具(人間の行為が「モノ」と結びついたもの)の根源は、サーフェスが持つあるパラメーター(レイアウト)で決まる。

アフォーダンスとアートの境界

深澤:自分が理解できる中で現代アートを二分すると、ひとつは「意味」に関わるものでもう一つは「現象」に関わるものではないかと思います。現在ではどちらかというと「現象」的なもののほうが多い気がします。自分が認知していたものを、逆の方向から知るということを、アートとして表現している。アフォーダンスの考え方とアートの考え方が共有されるのはこの「現象」の部分だと思います。
 (中略)一方で、意味みたいなものがそこに込められていなければ、結局は単なる現象を表現しているだけですぐに飽きが来る。
 (中略)両手を合わせたときに、どっちがどっちを触っているのかはわからない。片方が「もの」でないかぎりはわからない。そのどっちがどっちという線を自分の中でヴィジュアル化するのもデザインなんじゃないかな。作り上げていくということは縁の関係性を追及するというようなところがありますね。(p51)

■手と手、人と人…主観的なものが二つ存在するときの関係性=縁、ということ…社会性の根源。関係性のデザイン。人とモノ、なら、主観のあり手は確定している。しかし、アフォーダンス理論というのは、人の「行為」と、「環境」(その人に属さないもの)とを同時に単位として扱う、「行為情報」が、存在するとする、「ひとつの捉え方」の提示。


後藤:理論は、作品の意味を説明することはできても、作品が出来事であることは示せないのではないか。作品とは、まずなによりも行為が物質と出会う過程で発生する出来事ではないかと思うのです。画家のフランシス・ベーコンが、自分の絵画はドキュメントだと語っていました。人間の身体が奇妙に歪んだベーコンの絵画は、決して想像力によって生み出されたファンシーなのではなく、この世界と絵画の中に働く力のドキュメントとしてある。出来事を記述するフレームとして考えると、アフォーダンスの試みは面白いと思うのです。(P52)

■記述、動的な変化、変わっていくこと、気付くこと、知ること、作家が製作するの中での変化を記述すること=ドキュメント?一方で、表現が鑑賞者に作用して、認識を変化させる、のが、「意味」型の表現。

深澤:アートにしても本人が全然気付かないところにいろんな意味づけがなされる。いい作品にはそういう余裕/幅があります。
 洗練するってことはすごくインテリジェントなことだと思います。たとえば茶道の作法では、あたかも無意識にやったかのように意図的に非常に無駄のない線をたどっていくことを極めている。無理に直線を引こうというのではだめだし、すっといかないといけない。
 
後藤:洗練というのは、そこに複数の思考が圧縮されて無駄なものが省略されている状態のような気がします。分析という行為は、それを解凍していく作業かもしれませんが、解凍するごとにそれぞれ違った解凍のされかたをしたりする。

深澤:かつてお茶を入れることに洗練を見出していた時代とは、現在はレイアウトが変わってしまった。だから、それをそのまんま洗練だとはなかなか言いがたい。だから、満員電車の中で一番隅にすっと立てる、あるいは最短距離で席が取れる、上手に新聞を折って読むというようなことが、いまのレイアウトの中ではもっとも洗練された技であったりする。
そこに焦点をあてるってことが面白いと思います。

ii)行為と即応するデザイン
デザインが結ぶ環境と行為(p81)

相即するデザイン――相即≒はまる

深澤:「相即するデザイン」という言葉をよく使います。哲学的ですが良い言葉です。なので、もう少しわかりやすい言葉で伝えられないかと考えて出てきたのが、「はまる」という言葉です。それは何か暗黙のあいだにセットされたものの合意の瞬間を見るときに使う言葉だと思います。「ああ、それははまっている」という風に言いますね。それは分析できないものに対して使っています。言ってしまえば、デザインというのは「はまる」ことを探すことだと思います。「はまっている」ということは、もう少し突き詰めていくと「必然」ということになるんじゃないでしょうか。(中略)そうなってくると、結局何かと何かの折り合いをつけるということになる。身体と空間もそうだし、デザインと何かの線もそうだし。何かと何かの「はまる」輪郭。すべての境目にある「線」。これが自分のデザインのメタファーだと思ってしまう。(p86)

■深澤さん、環境と身体、事物同士の関係性の網目に「はまりこむ」デザイン。
自分を消すこと。美学として、というよりも関係性をつむぐ、意識化するためのミニマリズム。

アクティブ・メモリー―――見えないものを見る

すでに存在しているという感覚を自分は大事にしています。自分が生み出すのではなく、すでにあるものの中から探してくる。もうひとつは、「自分が知っているにもかかわらず知らなかったこと」というのが重要なポイントです。自分の身体を自分が知らないということは、アフォーダンスのさまざまな事例から出てくることだと思います。自分が動物であるということを自分で自覚していない。自分が身体をコントロールしていると思っているけど、実は自分のことを何も知らない。知らなかったことに気づくというのが美的な行為としては楽しいことなのではないか、と思います。それを明かしてくれる可能性を持つのが、たぶんアフォーダンスだと思って期待しています。(p90)

■「知らなかったことに気づくというのが美的な行為としては楽しいことなのではないか」  同感する部分。

【アクティブ・メモリー】
ある個人にとっての特別な経験、意識的に記憶されるもののことではなく、誰もが共通に知っている日常の行為や事象からの、身体になじんだ記憶である。たとえば、毎日触っているにも関わらず、電車のつり革の形をよく覚えていないが、手はその形を感触として覚えているということがある。人間は異なる性格や考え方を持ち、個性としてそれぞれの違いを認識しているが、身体としてあるいは動物としては、多くの場合、同じような境遇や状況において、思考から外れたところでは同じような境遇や状況において、思考からはずれたところでは同じ行動や行為、反応をしている。共有感覚は、「アクティブ・メモリー」によって与えられている。(p90)

無意識の中の、共有の行為に付着した「メモリー」を核にしたアイデア使うことによって見えないつながりをデザインしようとしているのです。

■「見えない繋がり」という、無意識の行為、記憶での共通感覚。みんな一緒で、みんな違う。公共性を獲得する、デザイン手法。構造ミニマリズムの手法、わかりやすさ、同意しやすさ。


後藤:単に「方法」をマニュアル化すれば、駅の時計を腕時計にするというアイデアはできうると思います。その時にこれがデザインとして成立するか、というもう一つ先の問題があって、これはマニュアル化できないものですよね。ここがデザイイナーになれるかどうかの分岐点だと思います。

深澤:そうですね。「execution」という芸術の達成度を表す言葉があります。日本語で言うと「できばえ」という言葉が近いかもしれない。とてもよい言葉です。その「execution」を決定しているのが、人工的な力です。何かを見た感覚に人工的な力が加わらなければデザインにはならないでしょう。そういう意味でデザインは特殊な技術ですね。
 料理でたとえると、寿司は「アイデア」で醤油はそれを達成する「美」つまり「execution」です。猟師が釣り上げた魚をそのまま食べれば一番フレッシュだという論理に、人間の人為的なものである醤油を加えるわけです。そして、醤油の味を忘れて「寿司」を感じ取って味わっている。先ほどの時計で言えば、バンドがどのようなテクスチャーで何色かということは、それをして楽しんでいる人にはさほど重要ではありません。だからこそ、そこに注意を払わなければならないというのが、デザインなのです。「駅の時計がいいね」というところまでは共有できる感覚だと思います。その感覚を収束させていくときの、醤油の付け具合というか、作り具合が重要なところです。そこは解析できない部分ですね。

■そのとおり

制約ー偶然を必然に変える

佐々木:今日話してみて思ったのは、デザインを考える様々なパラメーターがいろいろなレヴェルにあって、それぞれがすべて徹底的に「動き」に関わってきますね。

深澤:動きの中にしかデザインはないからです。前提として固定したオブジェクトではないということです。

■動きとデザイン
 時間の導入、相互関係の導入、他者性、生きられる、実存の世界で、デザインを捉える。

後藤:深澤さんは、一つひとつのデザインの中で扱っている制約の種類が多いように思いました。どれかひとつの水準に合わせるというよりは水準の違ういろんな制約を扱っていて、それらがかちんとぶつかって一つ数が減る。まるでゲームのテトリスのような印象を受けました。ぴたっとはまったときに制約が減っていく引き算のデザインと言える。

■異なる制約をぶつけて、それを同時に解く?一手を見つける。
 
後藤:分析と制作の関係はけっこう入り組んでいて、分析ができないと制作ができないけれども、分析から直接制作は生まれてこない。(中略)おそらくスポーツの技術というのは、分析を通して得られた情報時間的に圧縮する技術なのではないでしょうか。直感と言われているものは、そうした技術のような気もするのです。一瞬のうちにうまく圧縮できれば、それが結果にあらわれる。デザインにおいても様々な問題を同時に並列して、あたかもレンズで拡大するようにして分析していたものを、一気に圧縮して整理できる瞬間がある。この技術が制作の技術なのではないか、と思うのです。(p126)

■そのとおり、分析だけでなく、瞬間に凝縮する力が要る。かたちが導いていく。

多様性のデザインとアフォーダンス
アフォーダンス――リアリティを再定義する

「アフォーダンス」はそのふたつの「情報」を混在させて持つ近代以降の人間に、身体が受け取ることのできる情報のリアリティを伝えている。それは地球は丸いというリアリティに打ち消される、水平線の向こうは滝であるという身体が受け取る情報のリアリティである。
 アフォーダンスが伝える環境の情報とリアリティは、知識化・情報化された社会における身体の本音なのである。身体が得る情報と脳に蓄えた知識としての情報のバランスが著しく乱れた社会に生活する人間に、アフォーダンスは我々自身に内在していた「リアリティ」を突きつけた。そして、人と人の距離感を制御する力を著しく求め、そのしぐさや行為の動きによる関係性に流麗な美を持ち込もうとぢた日本の文化がその「リアリティ」に興味を示さないはずがない。アフォーダンスの理解への欲求には時代性と文化、社会構造と環境が関わっている。(p142)

かたちを見ているのではなく姿を見ている(p147)