21st schizoid mannerism

書き殴り捨てさkdぁえjlうぇfかdさ

卒論もんもん

2007-10-16 20:02:35 | Weblog
がんばれ~
卒論がんばれ

この嫌な感じはなんなのだろう。
過去事例の「選択のしかた」で満足してる自分。
しかもそれは、「好み」だ。
現代に抽出できるのは、何か。
抽出とか考えないほうがよいのか。
コンテクスチュアリズムを現在やるのはなぜか。
なぜか。都市の文脈?
懐古主義、地域主義、大衆主義、ではないのが、ポイントのはず

というかそれは、現在の設計の主流だ。
普遍化されたコンテクスチュアリズム。
今回の分析は、明らかに事例総当り的なやりかただよな。
6つのバラバラなコンテクスト、手法の作品の共通性は、広い概念「コンテクスチュアリズム」でしか拾い上げられない。

なんかないか?
「内部機能」→施主、社会、経済の要求
「外部」コンテクストとの応答→潜在的な要求、公共性、風景の質、、、

理想形(スキーマ)=抽象的空間 が、環境との応答を繰り返して、環境に調和する(あるいは不調和の調和)「適切なもの」になってゆく。

「適切」ってのもひっかkる言い方だ。
じゃあ「不適切」って何だ?
アレグザンダーは、「良い適合とは、不適合がないことだ」、といったんだったけ

「応答」はあきらかに「プロセス」、「設計のプロセス」のことを扱ってる。
分析でやってるのは、「理想形、原型」が「応答」によって「適合」するというストーリーに基づいた、「仮の設計ー応答プロセス」をそれぞれコンテクストの違う作品に当てはめてるんだ。

「応答するプロセス」…演繹法と帰納法が絡み合うプロセス→転繹法との類似?
「演繹された理想」が、「所与の環境から帰納」された要素によって変形するプロセス。

「建築と環境」の転繹的設計プロセスについて?

コンテクスチュアリズム再考 -建築と環境の転繹的設計手法-

分析手法を、設計手法として有効性を言う?
モダニズム批判うんぬんの話がないと、作品選定の説得力がない。

発表としては、コンテクスチュアリズム言わないやりかたも。
コルビュジエの「シャボン玉」設計手法と、ヴェンチューリの「ポシェ」を対置する。
内部の表出ではなく、内部と外部がせめぎあう設計の決定法。

モダニズム批判の実践のなかの北欧(アスプルンド・アアルト)ー批判論・コーリンロウ・ヴェンチューリースターリング・ムーアという流れで、そのようなポシェ的設計手法が見られるものを分析対象とする。

分析として、内部機能やその他の要求が、外部環境との関係のなかでせめぎあいによって決定されるという「設計の転繹的な仮のプロセス」によって分析する。

結果としての6つのパース。
都市のかたちからの影響や、自然の影響、風、視線、動線、人の動き、
さまざまな環境が作用して内部機能が変形する転繹的設計プロセスが、さまざまなコンテクストで有効なことをしめす。


うううむ。いけるか?

空間の生産

2007-10-08 00:03:58 | Weblog
政治の論理、経済の論理、社会の論理、仕事の論理、趣味の論理、建築の論理。
オトコの論理、オンナの論理、親の論理、創造の論理、消費の論理。

世界とは、それぞれの次元でのまとまりを為す体系の重合だ。
∞ではないいくつかの体系。
セヴェラルなツリーの重合。
「計画」とはそれぞれの論理を必要なだけ取り出して、ミックスしシャッフルし「ある課題」に対して説得力、効果をもたらすように再構成することだ。

だから「計画」とは基本的にツリーであって、それを逃れられない。
しかし「計画」は「構築」され実現化するとすぐさま「消費」され生きられる。
「人間のなかのある体系」によって。「時間」が不可避的に事物を覆うことでの
多肢化。
「時間」によってツリーという計画は不可避的にセヴェラルな可能性を持つ。
人間ー消費ー生活は基本的に、ツリーを乗り越えうる「可能性」である。
いくつかの「もう一つの道」が穴を開けているかもしれない。
突然変異のように、ある一人が「気づく」。「気付き」が、情報化されたネットワークの中で増幅され伝播し、再度「全体化ー社会化ーツリー化」する。

これは事物の「進化」のあり方と同じか?
ダーウィン「進化論」

つまりこの「生きられた空間」は、「表象としての空間」を乗り越え常に
空間を「再生産」しているのだ。

しかしそれも、ツリーたる「計画」に内包される多肢性に依存する。
時間を内在しての「空間の生産」の可能性を、計画の中に最大限にとりこむこと。

人間同士の相互作用が、空間にくみ出されること。
錯綜の末に霧散してしまう、あるいは内向してしまう「人間の意識」
に「枠」「方向」を与え「誘導」し、「空間の生産」を促すこと。
「劇場」という概念。「都市という劇場」
「劇場型政治」「ニュース・報道の劇場化」

「記憶の劇場」であり、かつ「未来の劇場」(コラージュ・シティより)

さらに、公共的商業空間を乗り越える、「エネルギーの生産」をも組み込むこと?
「環境問題」の政治化⇔「京都議定書CO2削減規定」
「エコロジー」「ロハス」などの概念の伝播、ファッション、大衆化。
経済原理の中にも組み込まれる「環境問題」

「生産の劇場」?
人と人の関係、距離、廻るエネルギー、生産と消費と再生産

「事物の関係性やエネルギーを再生産する都市の劇場」?

07/10/02

2007-10-03 01:17:08 | Weblog
昨晩ディスプレイが壊れる。

この大事な窮乏の時期に…!

きついが23000で新しいモノを購入。いい買い物?

18:00より下吹越武人氏の講演を聴く。

2年生の時の住宅課題の時に話を聴いて以来なので2年ぶりになる。

以前よりも少し面白かったかな?

とても素直な人柄のよい人で、その直戴な行動力と楽天性と人懐こさが、彼の建築家としての立場をつくってるんだなあ。あとイケメン。

ディテールの話は発見的で面白い。創作の瞬間。

古谷さん的な、話のうまさ。
建築の実践が人の状況に絡む、
構造主義+状況主義+モダニスト?
けっこう意匠的。恵比寿の集合住宅は見てみたいかも。
枠組みの質を追求・・

「建築家が都市の話をしなかったら誰がする?」
都市から撤退してる場合じゃない。
しかしの、愚か極まる法規制のチカラ。

ふぅ。