21st schizoid mannerism

書き殴り捨てさkdぁえjlうぇfかdさ

「かたちと力 -原子からレンブラントへー」2ルネ・ユイグ

2008-10-07 08:31:19 | Weblog
第二章 かたちの生成

われわれが生命と呼ぶものはおぼろげになる。生命が、生命の意義に場所を譲るのである。すべてのものがかたちと化し、そのかたちのなかに、したがってその意味のなかに、上澄みを写し取られている。眼はいぜんとして眺めているのだが、しかしその眼は思考へといたる途の半ばでもってすでに理解している。おそらく真の知識の秘密は、できごとの断片化された細部にしか出会わない歩行者と、ひからびたその残骸を図式化する地図製作者とのあいだ―行き当たりばったりに手探りで進む諸感覚と、方程式すなわち現実的であったものの数学的軌跡とのあいだ―のまさしく中間に隠されているのだろう。かたちは、生きた力をその永遠性のなかに刻み込んだもの、人間的観念をその固定性の中に刻み込んだもののいずれでもあり得る。そのことが理解できねばならない。加えて、かたちのレパートリーが、それら両者の果てしない弁証法的葛藤を通じ少しずつでき上がりつつあることも。(P72)

■歩行者と地図製作者、無自覚な思考と自覚的な思考、未開と近代
弁証法的なそのあいだ。


しかし、諸々のかたちの連鎖の順序を確かめるには、自然界がそのことを予感させてくれているとおり、人間とその芸術の進化をわざわざ召還するまでもない。子供の精神的な発達段階を、その描画の歩みを通じて辿るだけで十分なのだ。子供がまずするのは、その力を実行に移すことである。手を衝動にまかせて自由気ままに動かす。するとその運動の軌跡が紙の上に記録される。これは、はつらつとした力の動きをとどめた線が、右や左に入り乱れながらもいまだかたちをなさない、なぐり描きの時期である。同じように、水も、重力の力のもとで流れを描いていた。(P103)
■力の反映としてのかたち 起源

子供が直線を模索する必要を感じ始めるようになるまでには、知性の発育にもうひとつの新しい段階がなければならない。この段階に入ると、目的に向かって回り道せずにまっすぐにいく思慮深い意思から思考が現れる(十二世紀以降、droit(まっすぐ)というのはdirigere(導く)の過去分詞directusから派生した。そこからは十三世紀になってdirect(直接)も導き出されて、後に使用に供されることになったのではないか)。円が左右に引き伸ばされる。楕円化し、そしていまだ不確かなものだとはいえ、棒が出現することがわかる。こうした概念的な把握は、空間の主たるふたつの方向である、垂線の交差へとやがて行き着くだろう。そこで直角が誕生し、ある期間までは、それが多様な斜線に抵抗することになる。思えば、モンドリアンが、デ・ステイル・グループのなかで対角線を持ち込もうとして「分派」的な仲間たちと仲たがいしたのは、彼が原初的な純粋さというものにとり憑かれていたからではなかったのか。(P104)
■思考の誕生、円から楕円、直線へ

同じように芸術の歴史でも、かたちのなかに永遠性の秘密を探ろうとする古典主義と、安定性というのをことごとく揺さぶり、力の戯れを解き放つバロックとが交代した。十五世紀からこのかた、抑えようのない衝動がギリシア以来築き上げられてきた諸々のかたちを攻撃するよう絵画に仕向け、肉体的な力あるいは内的な力を表現しようと試み、色や光の粒子がきらめく印象主義において肌理こまかなマチエールを粉々に砕き、ついにはバウハウス、デ・ステイルの運動とともにかたちを、かつてないほどドグマ的、高圧的なものとしてその源泉に回帰させた。(P108)


第三章 精神現象としてのかたち

「かたち」とは、ひとまとまりの諸要素に対し、それらななかのあるものに何らかの変更を加えたとき、この変化が残ったものとそのまとまり全体とに同時に波及せざるを得ないほど、それらを各々のあいだでそのまとまりとの関わりにおいて連帯的なものにするようにして、視覚的・英知的な統一性を授ける原理だと言ってよい。(P111)


だが時間が召還されると、それにともなって「力」が現れ、話がこみ入ってくる。事実、「力」は、持続のなかで発揮される、「かたち」を不断に点検し直す活発な圧力として登場する。(P112)



「かたちと力 -原子からレンブラントへー」」ルネ・ユイグ

2008-10-07 07:38:14 | Weblog
第一章 認識への扉としての芸術

・「地」とかたち

しかしこうした掘り下げの挑戦はどれも、ふたつの分明な局面でその寄与を必ず同時的に表す、芸術作品の二重の本性を白日の下に晒し、どんな表現形態の分析においても遭遇する、地とかたちという旧来の問題をうたたび蒸し返したにすぎなかった。もっとも、この表現形態(moded'expression)という成句それ自体、「形態」と「表現」の二元性すなわち、一方は諸感覚によって知覚される側面とそれの構造――他方は外観がそこへの通路として役に立つ、眼に見えないがしかし伝達可能な内容、これらの二元性を含んではいないだろうか。
 要するに、作品が「提示するもの」と、それが「伝達するもの」とがあり、それらが互いに通い合っているということである。この二元性は、芸術作品の本性そのものから生じている。(P30)

・時間と空間のなかで「認識」を擁護する

まして歴史学の場合は、科学的な類型に帰着しようという野心など持ちようがない。歴史の自然な場は時間である。歴史学にとって知るべき諸々の事実が位置するのは時間の中だからである。そのことから歴史学は、適用して絶対に間違いのない諸法則を引き出すことをつねに自制するはめになり、蓋然性にしか到着しない。(P51)

・限界にある「科学」

たとえ「科学」に欠くことのできない諸学が「科学」を客観的なものに制限しているにせよ、客観的なものと主観的なものを結び合わせることのできる、一方から他方へと移行することのできるより広汎な認識に訴えることが当然必要となるだろう。もっとも明晰な認識の持ち主は、文科系と理科系のいずれに属した人であっても、そうした認識をこそ求めているのだ。(P58)

・芸術とその扉

芸術作品は、無私な活動としてもっとも気高いもの、すなわちわれわれの行為によって作用し「善」を目指すものである道徳と同じ高みで、完遂を求める。芸術はわれわれの制作活動によって作用しているが、いったい何を目指しているのか。かつては、「美」と呼ばれていたあの達成を。しかし今日、芸術作品は、これまでになく定義というものをすべて拒否している。定義とはすなわち到達点であり、それゆえ終局でる。生命は、その精神的な不完全さによってならそのことが理解されうるとしても、実際にはそのようなものを持つわけにはいかない。なぜなら生命というのはかならず、前もって、もっと遠くに投影されているからだ。要するに芸術作品は、道徳のように、価値の増大、質の向上を最終的に目指しているのである。(P64)

「かたち」は、現実のおよそすべての面に認められるひとつの定数であることがわかる。かたちをまとうこと、それは体を成すことであり、潜在的に残されていた可能態の星雲から抜け出すことである。それは不確定のものから、無へと、つまり存在しないものへと滑るあの恒常的な脅威を取り除いてくれる統一原理を引き出すことにほかならない。物質はかたちをまとわなければ、溶けて蒸発する。(P66)

・「認識」の手段としてのかたち

いかなる瞬間にあっても「かたち」は、それ自体についてばかりではなく、そのアンチテーゼのように見えるものすなわち、「力」について証言しているからだ。

結局のところわれわれは、その向こうはもはや何もわれわれには直接理解できないところのもうひとつの一対、すなわち空間と時間の一対の知覚可能な外観にほかならない。(中略)「力」、それは動いている時間である。「かたち」、それは空間への屈服である。しかも芸術作品は両者の遭遇点とでも呼べそうな地点に位置している。これは投光機に似ていなくもない。投光機というのは光の束を投げかける。その光束を眺めると、空気や煙や塵の流れのまにまで、それが無数の変動、無数の震えによって活性化されているのが見える。しかし光束が、光を断ち切る遮断面にぶつかると、それはスクリーンでかたちを結ぶ一定のイメージで動きを止める。そして光束はそれ以上先に進まない。同様に絵も、時間の中でそれに向かって突進してきた創造的飛躍の、描きこまれた、固定された終着点なのだ。

われわれは、現在においてしか実際上存在しない。現在にしか存在はないのだ。その現在とは何か。それは、時間と空間の交点そのもの、としてしか定義のしようがないものだ。(P69)

■力/かたち、時間/空間、「時間と空間の交点」としての「現在」