まさおレポート

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イタリア紀行 10 アグリジェント 小さなホテルの主人はアーティストだった

2024-08-29 | 紀行 イタリア・スペイン 

小さなホテル 

巨大なシェパードの吠え声がするこのホテルの一角にはアグリジェントそのものを象徴する何かが感じられる。シチリア島の乾いた大地に立つこの街は、古代からの栄光と、歴史の荒波に耐え抜いた遺産を今に伝える場所であり、その背後には数千年にわたる壮絶な歴史が隠されている。

アグリジェントの歴史は、紀元前580年に古代ギリシャ人によって築かれた植民都市アクラガスに遡る。この街は、マグナ・グラエキア(古代ギリシャの植民地)として、南イタリアやシチリア島一帯に広がるギリシャ文化の中心地の一つとして栄えた。特に、火・風・水・土の四元素説を提唱した哲学者エンペドクレスの出身地としても知られ、その時代には文化や知識が花開いた。

しかし、紀元前406年、アグリジェントはカルタゴの攻撃によって破壊されることになる。第一次ポエニ戦争の一環として行われたこの戦いは、ローマとカルタゴの長きにわたる対立の一幕であり、やがてローマが地中海世界の覇者となるきっかけの一つとなった。カルタゴの攻撃で街は壊滅的な打撃を受け、その後、ローマの支配下に入ったシチリア島で、アグリジェントは再び再建されることになる。

ローマとカルタゴの対立は、最終的にローマがカルタゴを完全に破壊することで終結する。紀元前146年の第三次ポエニ戦争では、ローマ元老院が「カルタゴは滅ぶべし」(Carthago delenda est)としてカルタゴの街を包囲・陥落させた。街は徹底的に破壊され、生き残った市民は奴隷として売り払われた。ローマ軍はカルタゴの土地に塩を撒き、二度と再建されないようにした。わたしはチュニスでもカルタゴ的殲滅の地を見たがそれは凄まじいものだった。

これはホテルオーナーの作品。アグリジェント遺跡近くの小さなホテルに泊まった。2006年5月20日のことでスマホも翻訳アプリもない頃だ。パソコンの翻訳機能を使い何とか意思を通じた。廊下には小さめの額縁にホテルオーナーの絵がかけてある。

ホテルには遅くついたのですでに夕食の用意は終わったという。しかし腹が減っていたのでレストランでサラダとハムを用意してくれた。向かいのテーブルにはさきほどのホテルのオーナーである60過ぎの男が座り、夜食だか夕食だか判然としないがデキャンタの赤ワインを置いて食事をとっている。いつも思うのだが、赤ワインのデキャンタが置いてあるだけでそのテーブルは幸せな夕食の雰囲気を醸し出す。

美味そうなパイまで食べているので眺めていると男が微笑んだ。パイを指さし、これでよかったら食うかとイタリア語で言っているらしい。パイと赤ワインを分けてもらい、ささやかながら美味しい夕食をとることができた。

レストランの壁際の長テーブルには翌朝の準備で、ゆで卵の大胆な大盛りと立ち上る湯気が何年たっても記憶に残っている。

遺跡の観光客以外はひなびた寒村と言ったほうがふさわしい村で、男は妻を亡くしたのか30近い娘と二人でホテルを切り盛りしながら創作を続けていた。男に地下室のアトリエを覗くと埋もれ木を鉈や鑿で彫って人の顔らしき像を浮かび上がらせている途中だった。作品をホテルの仕事の合間に作り続ける男はこの島から一歩も出ずに一生を終るのだろう。世界にはそれぞれの土地の印象の代名詞のような人たちが、確かな存在感をもって生きている。

コンコルディア神殿 

シチリア島の太陽の下、アグリジェントの大地にたどり着いたとき、目の前に広がる光景に圧倒される。コンコルディア神殿は威厳を保ち続けている。その色合いが日本の土塀を思い起こさせ、石造りであることがすぐには感じ取れない。表面の風化が進んだ石肌に無数の孔が開いている。これらの孔は、何世紀もの間、風や雨、そして強い日差しに耐えた痕跡だ。

この神殿はゼウスを祀るための神聖な場所として築かれた。正面にはドーリア式の6本の柱が並び、側面には13本の柱が連なりシンプルで力強く、調和感じさせる。かつては三角形のペディメントとテラコッタの屋根がこの神殿を飾ったが、今ではその基礎構造のみが残る。

元々、この神殿は調和の女神コンコルディアを祀るためのものであった。紀元前5世紀頃、約紀元前440年に建設されたとされる。中世にはキリスト教の教会として転用されたが、これが神殿の保存状態を保つことに寄与した。

アグリジェントの神殿の谷は、1997年にユネスコの世界遺産に登録された。これにより、世界中の人々がこの地を訪れ、古代の遺産に触れることができるようになった。しかし、この地を訪れる観光客の波が絶え間なく押し寄せ、古代の静謐な空気に浸ることは難しい。団体が次々とやってきては、カメラを向け、ガイドの声が響き渡る。その喧騒の中で、古代の世界に入り込もうと試みるが、現実に引き戻されることもしばしばだった。

神殿の谷

写真に写っているのは、アグリジェントの街並みを遠方から望んだ風景。眼下には広がるオリーブの木々や緑豊かな大地が広がり、その背後にアグリジェントの現代の街が。

アグリジェントの神殿の谷には、古代ギリシャ時代の壮麗な神殿の遺跡が点在している。これらは紀元前5世紀頃に建設されたもので、マグナ・グラエキア(ギリシャの大植民地)の栄光を象徴している。

中央部分に位置するのが、最も保存状態が良いとされるコンコルディア神殿。

コンコルディア神殿の右手、丘の上に位置するのがヘラ神殿。この神殿もドーリア式で、紀元前450年頃に建てられた。ヘラ神殿は、結婚の女神であるヘラを祀っており、神殿に登る階段やその周囲の風景が特に印象的だ。この神殿は、紀元前406年のカルタゴによる侵攻で部分的に破壊されたが、現存する柱や基壇はその壮大さを感じさせる。

写真の中央にやや低く位置するゼウス・オリンピコ神殿。この神殿は、アグリジェントで最も巨大な神殿として計画されたが、紀元前480年の建設途中でカルタゴ軍により破壊され、未完成のまま残された。ここには、かつて巨大な人像柱テラモーネが立ち並んでいた。現在はその柱や瓦礫の一部が横たわり、当時の壮大な痕跡を見ることができる。

ゼウス・オリンピコ神殿の南側には、ディオスクーリ神殿があります。カストルとポルックスという双子の神を祀るこの神殿は、現在、4本の柱が復元されており、アグリジェントの象徴的な遺跡の一つとなっている。この神殿も、カルタゴの侵攻により大部分が破壊されましたが、残された柱が当時の建築技術を今に伝えている。

神殿の谷には、これらの他にもヘラクレス神殿やアスクレピオス神殿など、様々な遺跡が点在している。

アグリジェント州立考古学博物館

バスで博物館を訪れじっくりと予習をした後に歩いて遺跡を巡るのが賢明なようだ。博物館でギリシャ人の風貌などを目に焼き付け準備を。

アグリジェント州立考古学博物館(Museo Archeologico Regionale di Agrigento)に展示されているアトラス像(Telamone)。この彫像は、古代ギリシャの神殿の支柱として使われた「アトラス像(テラモーネ)」。

この彫像は7.75メートルの高さがあり複数の石のブロックが組み合わされている。アトラス像は人型の柱としてデザインされており、両腕を上げた姿勢で建物を支える。古代ギリシャの影響を受け筋肉質な力強いポーズが特徴だ。

このアトラス像は、アグリジェントの「神殿の谷」にあるオリンピエイオン神殿(オリンピア神殿)から発掘された。アトラス像はその巨大な建築を支えるために使用された。

アグリジェント神殿壁画のレリーフ断片。鹿、オオカミ、ウサギ、植物が描かれている。レリーフのある建築部材石。夫婦像と波。古代ギリシャの陶器、赤絵式アンフォラ(amphora)アッティカ陶器の壺。女を口説く男はヌードで神話の神々だろう。

アンフォラは、液体や穀物の保存・輸送に使用される実用的な容器。前6世紀末から紀元前5世紀にかけて盛んに使われた技法で、黒地に赤い絵が描かれるスタイル。赤絵式は、黒絵式陶器に比べて人物や細部の描写が詳細かつ自然に描ける。

イフェイジェネイアの頭部。州立考古学博物館収蔵品。

女の顔のレリーフ。

祭器あるいは日常品。 

デッサン風、槍を持つ狩人あるいは兵士。見方によっては思わず噴出しそうな絵。デッサン風。

クーロス像

紀元前470年古代ギリシャのクーロス像(Kouros)。クーロス像は古代ギリシャの彫刻における代表的な作品。クーロス像は、主に紀元前7世紀から紀元前5世紀にかけて作られた彫刻で、ギリシャのアルカイック時代に特に人気があった。

クーロス像は、直立した姿勢で前を見据え、腕を体の横に下ろし、片足(通常は左足)を少し前に出している。これはエジプトの影響を受けたポーズだ。アグリジェントは、古代ギリシャの植民都市であり、多くのクーロス像が神殿や墓から発掘されている。

笛を吹きながら踊る男。赤絵式アンフォラ(amphora)アッティカ陶器の壺


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