焼き豚の午後 椰子殻炭の火と、手のひらの記憶
バリの十月は、まだ乾いた光を残しつつ、庭の芝にほんのり湿気を含ませてくる季節である。
ある日の昼前、冷蔵庫の奥から誕生日会の名残で眠っていた豚肩ロース五〇〇グラムとラム肉七〇〇グラムを取り出した。輸入ハムは高価で、安物は“ソーセージ味”がする──そんな小さな不満が火種となり、「だったら自分で焼き豚を作ればいい」 という単純な結論に火が着いた。
仕込み
肉はまだ凍ったまま、表面にバリ塩と粗挽きのチリフレークを揉み込む。塩はサヌールの揚げ浜で作った粒の大きいもの、チリは市場で瓶詰めにした乾燥品だ。解凍を待つあいだ、炭起こしの準備をする。
椰子殻炭は火がつくと赤々しく長く燃える。値段は一キロあたり百円前後、これだけでいい火が買えるのだからありがたい。火ばさみで空気を送り、炭が白く粉を吹いた頃合いを見計らい、丸い小ぶりのグリルに炭を寄せた。遠火の強火 火床から約一〇センチの高さがこの日の勘どころである。
焼き
鉄網に肉塊を置く。右が豚、左がラム。チリの赤が脂に溶け、じわりと汗をかき始める。火は直接当てず、熱だけでゆっくり芯へと送り込む。音は静かだ。パチパチと脂が落ち、椰子殻炭の甘い煙が立ち上る。ついでにトマトとジャガイモを並べた。焼きトマトの酸味は肉の油を受け止めてくれる即席のソースになる。
陽が傾きはじめる頃、表面は深い琥珀色に変わった。三時間 少し焼き過ぎたかと心配しつつ包丁を入れると、豚は中心がほのかにピンクを残し、ラムはまるで低温で燻したハムのような紅を帯びていた。
味わい
一切れ口に運ぶ。塩の角がまろやかに融け、チリの微かな刺激が後を追う。豚の脂は過不足なく溶け、ラムは香り高いが決してクセが出ない。「キロ五千円級だ」 と軽口を叩きながら、実際に使った肉は一キロ千円ほど。火と塩と辛味が素材を底上げし、価格を超えた満足をもたらす バーベキューの醍醐味はここにある。
記憶としての火
のちにもっと大型のグリルを買い、温度計や蓋付きの本格装備でローストを試みたが、思い返すのはこの日の小さな丸グリルである。火力のムラさえ手探りの愉しみに変わり、煙と陽射しが混ざり合う庭で、時間だけがゆったり流れていた。
炭の匂いを含んだ風が頬を撫でるたび、自分で焼いた という原始的な達成感が胸に残る。
椰子殻炭の火は短い午後のあいだ燃え尽きたが、その温度だけは、舌と指先の感覚となって今も確かに残っている。