まさおレポート

当ブログへようこそ。広範囲を記事にしていますので右欄のカテゴリー分類から入ると関連記事へのアクセスに便利です。 

バリのパラダイスを支える3元論 スカラ・ニスカラ

2020-09-19 | バリ島 文化・風習・葬祭・ヒンドゥ・寺院・宮殿

バリのスカラ・ニスカラを考えていると日本の空也、一遍、さらには称名念仏やお題目、クラシックやジャズ、ロックにまで考えが及ぶ。さらにはなぜ人はパラダイスやシンギュラリティーを追うのかととめどもなく興味は広がっていく。そしてその行き着く先には陶酔とトランスによる共同体の共通感覚があるのではないかとの手ごたえを得た。しかしその追及はまだまだ道なかばだ。デッサン的なメモを作ってみた。(このような簡単なメモではいいたいことの数パーセントも伝えられないこともよくわかっていますが、なにせ書いておかないとすぐに忘れてしまうので)

 

バリのパラダイスを支える3元論スカラ・ニスカラを考えるにあたって次の二つの引用文から始めたい。中村雄二郎の「南方の知」、河合徳枝のバリ島文化という光などのキーワードがわたしにメモを書く刺激を与えてくれる。

①近代科学によって捉えられた現実とは、基本的には機械論的、力学に選び取られ、整えられたものです。近代科学の基本原理を要約すると、「普遍 性」、「論理性」、「客観性」になると思いますが、この原理が見落とし排除したものこそ、「コスモロジー」、「シンボリズム」、「パフォーマンス」でし た。私の言う「パトスの知」、「南方の知」、「臨床の知」は、言うなれば近代科学の知の限界を内側から照らし出すことを意味するのです。http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/0406.cfm.html 中村雄二郎

②よく知られているように、ルネ・ デカルトは、意識すなわち自覚でき るこころの働きを第一の確実な実体 とし、延長すなわち意識で捉えるこ とができ三次元的に計測可能な物体 の空間的拡がりを第二の確実な実体 とした。そして、意識を精神の本 性、延長を物質の本性とし、物質と 精神すなわちものとこころとを互い に独立して操作する二元論をうちた てた。この二元論は、西欧近代科学 の礎となり、物質世界の解明と制御 に驚異的な発展をもたらした。

それは、西欧近代文明を、これまでのあ らゆる文明と一線を画する水準に到 達させる原動力となってきたことを 否定できない。しかし一方で、精神世界の解明と制御については、物質世界で発揮したような効力を現したとは到底いえないのではないだろ うか。ここに観られるものとこころ との間の極端なアンバランスについ て、バリ島文化という光を当てて、 考えてみたい。http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/pdf/vol6/vol6_p28-33.pdf 河合徳枝

 

バリは知覚情報と超知覚情報を対等に位置づける。むしろ超知覚情報を重要視してきた。超知覚情報はニスカラと呼ばれ、このニスカラの世界を感知して体系化し共同体の共通感覚とする。このことを①と②を中心にメモしておきます。

神々の祭りの島バリ島社会は、土着のアニミズム(祖霊信仰)に仏教やヒンドゥ教が混淆したヒンドゥ・バリといわれる独特の信仰体系を持ち、人々は信仰に篤く、日々、神々への供物と祈りを絶やすことがない。

教義は存在せず、キリスト教会のように日曜日の説教があるわけでもない。一般のバリ人にも年間200日以上あるといわれる祭りイコール信仰であり、これは空の理論や無明などで頭を悩ませる日本の仏教事情からはうらやましくもあり、、またあまりにも多いので煩わしくもある。このバリスタイルの信仰は信仰とはなにかを見直す刮目すべきモデルにみえてくる。

(いや日本も室町時代の空也、鎌倉の一遍の踊り念仏は仏教への理屈を不要とし、音楽とダンスの陶酔のなかに超知覚情報への目覚めを誘い救いへと導いた歴史があるのだが)

バリの人々から見れば2元論や3元論の議論すら無縁のしろものかもしれない。しかしこうした考えに慣れたわたしはこの議論を無視して通り過ぎれない。2元論か3元論かを考える上でこのスカラ・ニスカラは非常によりどころとなる。

スカラは見えるもの、ニスカラは見えないもの、神々、祖霊、マジックの力、人間の表現されない感情、時間もニスカラ。空間は見えるものでスカラに入る。デカルトの2元論でいえば精神とその延長としての物質だが、この精神がさらに人間の表現される感情と人間の表現されない感情に分かれる。

人間の表現されない感情はニスカラとして分類され、見えないもの、神々、祖霊、マジックの力、人間の表現されない感情、時間もニスカラとくくられる。

デカルトの2元論が精神の一元論に延長する物質を加えて2元化したように、バリではさらにスカラ、ニスカラと別れ、3元論に展開される。トリニティー、三位一体と称せられる世界観をもっている。これはバリ島だけではなく日本も含むアジア全体で持っていたものだろうが、デカルトの2元論の科学文明に対する圧倒的効果によって完全に刷り込まれてしまった。

さて、スカラ・ニスカラの時間と空間の分類は非常に興味深い。
音が時間現象であるところからニスカラになる。従ってガムラン音楽もニスカラだ。絵も非現実な世界を描くとニスカラになる。バリの伝統的絵画はニスカラだ。シュピースの描いた絵画も非現実な世界でありニスカラになる。

地球上には昼と夜とがあって空間は変化する。光の量が時刻によって違う。変動するものがスカラで、音つまり空気振動は非常に安定しているのでニスカラともいえる。

音は楽譜に書けるように離散的つまりデジタル的な認知ができる。ヴァルター・シュピースの後期絵画は色づかいもシンプルだが構図はニスカラ的だ。

中村雄二郎はリズムによる導きが大事であると説き、芸能山城組主催者大橋力や河合徳枝はガムラン音楽のもつ高音域によるトランスが共同体の共通感覚(神々の世界ニスカラ)へと導くと科学的アプローチを試みる。

参考

①大江健三郎、井上ひさし、武満徹、中村雄二郎、大橋力、河合徳枝はバリを訪れバリ島文化に興味をもったことも知った。

②海辺のカフカで昔の世界は男と女ではなく、男男と男女と女女によって成立していたと記す。これって3元論。

「昔の世界は男と女ではなく、男男と男女と女女によって成立していた。つまり今の二人ぶんの素材でひとりの人間ができていたんだ。それでみんな満足して、こともなく暮らしていた。ところが神様が刃物を使って全員を半分に割ってしまった。きれいにまっぷたつに。その結果、世の中は男と女だけになり、人々はあるべき残りの半身をもとめて、右往左往しながら人生を送るようになった」海辺のカフカ 上巻p79


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。