2022/11/24追記
下記のリンク先には父との不和と和解の告白が記されている。
不和がなんであるかは書かれていないが深刻な事柄であることは容易に想像できる。母については一切書かれていないのも生々しい原因が父と母との関係にあることを示唆している。
「カラマーゾフの兄弟」の父殺し、神話のそれをベースに精神の深層、阿頼耶識、末那識の世界を現代の筆致で描こうとしたのだろう。エントロピーの発散と収束の原理を切り口に使っている。
いずれにしてもスッキリとわかるという代物ではない。不可解な世界を摘出して物語にすることにやむにやまれぬ情動と情熱を傾けている。
漱石は迷いっぱなしで作家生活と人生を終えたが村上春樹は鉱脈のトンネルから晴れ上がった地上に出る作品を最後に臨みたいのだが。「カラマーゾフの兄弟」がゾシマ長老を描いたように。
あるいは迷いは迷いのままでさとりという仏教的世界観を描いているのだろうか。
2020/12/11 追記
「名前はなんていうんですか?」と僕はたずねてみる。
「私の名前のこと?」
「そう」
「さくら」と彼女は言う。「君は?」
「田村カフカ」と僕は言う。
「田村カフカ」とさくらは反復する。「変わった名前だね。覚えやすいけど」
僕はうなずく。べつの人間になることは簡単じゃない。でもべつの名前になることは簡単にできる。上巻 p65
会話の主の挿入の呼吸がよい。
「昔の世界は男と女ではなく、男男と男女と女女によって成立していた。つまり今の二人ぶんの素材でひとりの人間ができていたんだ。それでみんな満足して、こともなく暮らしていた。ところが神様が刃物を使って全員を半分に割ってしまった。きれいにまっぷたつに。その結果、世の中は男と女だけになり、人々はあるべき残りの半身をもとめて、右往左往しながら人生を送るようになった」p79
中国の言葉で似たようなものがあったが思い出せない。
「そうです。ナカタと申します。猫さん、あなたは?」
「名前は忘れた」と黒猫は言った。「まったくなかったわけじゃないんだが、途中からそんなもの必要もなくなってしまったもんだから、忘れた」
・・・
「・・・名前があるとなにかと便利なのであります。そうすればたとえば、何月何日の午後に2丁目の空き地で黒猫のオオツカさんに出会って話をしたという具合に、ナカタのような頭の悪い人間にも、ものごとをわかりやすく整理することができます。そうすれば覚えやすくなります」p94
吾輩は猫であるを連想する。
「・・・性欲というのは、まったく困ったものなんだ。でもそのときには、とにかくそのことしか考えられない。あとさきのことなんてなんにも考えられないんだ。それが・・・性欲ってもんだ・・・」p101
腑に落ちる説明。
今から百年後には、ここにいる人々はおそらくみんな(僕をもふくめて)地上から消えて、塵か灰になってしまっているはずだ。・・・どうしてこんなに必死に生きていかなくてはならないんだろう?
どうせ死んでしまうのに、どうしてあくせくしなければならないのか?
・・・意思とは生物に自動操縦させるための仕掛けのようなものだ。p114
思春期に恐らくだれもが思う疑問、人によっては強迫観念のように襲う疑問を普遍化している。自動操縦という言葉は昨今のAIによる自動運転を想起させて面白い。
「いいかい、私がこうして猫たちを殺すのは、ただの楽しみのためではない。楽しみだけのためにたくさんの猫を殺すほど、私は心を病んではいない。というか、私はそれほど暇人ではない。こうやって猫を集めて殺すのだってけっこう手間がかかるわけだからね。私が猫を殺すのは、その魂を集めるためだ。その集めた猫の魂を使ってとくべつな笛を作るんだ。そしてその笛を吹いて、もっと大きな魂を集める。そのもっと大きな魂を集めて、もっと大きい笛を作る。最後にはおそらく宇宙的に大きな笛ができあがるはずだ」p295
「時間があまりない。単刀直入に言ってしまおう。私が君にやってもらいたいのは、私を殺すことだ。私の命を奪うことだ」p298
1Q84のリーダーと同じくジョニーウォーカーは自殺を望んでいるができない存在だ。なぜ彼らは自殺が出きず、人に殺してもらうしか他に方法はないのか。小説内に回答は見当たらないように思う。
「というわけでつまり、君はこう考えなくちゃならない。これは戦争なんだとね。それで君は兵隊さんなんだ。今ここで君は決断を下さなくてはならない。私が猫たちを殺すか、それとも君が私を殺すか、そのどちらかだ。君は今ここで、その選択を迫られている。もちろんそれは君の目から見れば実に理不尽な選択だろう。しかし考えてもみてごらん、この世の中のたいていの選択は理不尽なものじゃないか」p301
この世の理不尽は村上春樹の最重要なテーマ。「自殺ができない人」も同じくテーマだ。
ジョニー・ウォーカーはくすくすと笑った。「人が人でなくなる」と彼は繰り返した。「君が君でなくなる。それだよ、ナカタさん。素敵だ。なんといっても、それが大事なことなんだ。『ああ、おれの心のなかを、さそりが一杯はいずりまわる!』、これもまたマクベスの台詞だな」p314
O, full of scorpions is my mind, dear wife!
Thou know'st that Banquo, and his Fleance, lives.
部屋の中には装飾的なものはなにもないが、壁に一枚だけ小さな油絵がかかっている。海辺にいる少年の写実的な絵だった。悪くない絵だ。名のある画家が描いたのかもしれない。少年はたぶん12歳くらい。白い日よけ帽をかぶり、小振りなデッキチェアに座っている。手すりに肘をつき、頬杖をついている。いくぶん憂鬱そうな、いくぶん得意そうな表情を顔に浮かべている。黒いドイツ・シェパードが少年を護るような格好でそのとなりに腰をおろしている。背景には海が見える。何人かの人々も描きこまれているが、とても小さくて顔までは見えない。沖には小さな島が見える。海の上には握り拳のようなかたちをした雲がいくつか浮かんでいる。夏の風景だ。僕は机の前の椅子に座って、しばらくその絵を眺める。見ていると、実際に波の音が聞こえ、潮の匂いがかぎとれそうな気がしてくる。p364
「老絵師の行方」を想起する。マルグリット・ユルスナールによって1936年に書かれた作品では絵の中に入って蒼い窮翠の海に姿を消す絵師が描かれる。原題は「ワンフーの次第」マルグリット・ユルスナール「老絵師の行方」
ただ、僕はこんな格好はしていても、レズビアンじゃない。性的嗜好でいえば、僕は男が好きです。つまり女性でありながら、ゲイです。p380
一ひねりしたLGBTを作出した村上春樹の意図はなんだろう。ゲイを客観的に見うるということか。
「・・・結局のところ、佐伯さんの幼なじみの恋人を殺してしまったのも、そういった連中なんだ。想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。・・・」p385
この僕は村上春樹そのものかもしれない。
「君のお父さんが殺された翌日、その現場のすぐ近くに、イワシとアジが2000匹空から降ってきた。これはきっと偶然の一致なんだろうね」p424
ハリーポッターにもニュースとして登場するファフロツキーズ現象。割れ目のように入り込んでくる不思議な現象を取り上げてこの世の不可解なもののに切り込んでいく。当然解決できないのだがそれでも切り込んでいくことが大事なことだと村上春樹は考えているのだろう。
2011-06-05 初稿 2015/09/14 追記
「海辺のカフカ」 3年ぶりに2回目を読み直してみると面白味も一層確実に増してくる。この3年間に「1Q84」と「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」それに「The Long Goodbye」(レイモンド・チャンドラー村上訳)を読んだ。特に「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」は村上春樹作品の舞台裏を語ったインタビュー記事集で彼の作品を読み解くのに大変参考になる。しかし矛盾するが、この中で彼は作品の解説なるものが無意味であることを何回も強調している。
解説ではなく、作品を何度も読み直して欲しい、その行為でしか内容を十分に楽しむことはできないと断言している。従って「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」の助けを借りて再読することは作者の本意ではないはずであるが、作者の思惑とは別に、つまり村上春樹には悪いのだが、このインタビュー記事を読んだ後では読み取りと楽しみが一層増したことを実感することになる。
遺体からでる気持ちの悪いもの 太平洋戦争末期に疎開先でUFO(らしきもの)を疎開先で見る。それを見た学童のナカタさんたち学童は意識を失うが、その後他の学童は意識が戻ると何の後遺症も見せずに回復する。その後ナカタさんだけは秀才から文字も読めない「頭のわるい人」に変身していた。その後50年ほど経ってナカタさんが猫殺しのジョニーウォーカーさん(中田カフカの父)を殺し、「入り口の石」を星野くんの助けを借りて見つけた後に安らかな眠りとともに亡くなる。
以下、「海辺のカフカ」抜粋とメモ
ある場合には運命っていうのは、絶えまなく進行方向を変える局地的な砂嵐に似ている。君はそれを避けようと足どりを変える。そうすると、嵐も君にあわせるように足どりを変える。君はもう一度足どりを変える。すると嵐もまた同じように足どりを変える。何度でも何度でも、まるで夜明け前に死神と踊る不吉なダンスみたいに、それが繰りかえされる。なぜかといえば、その嵐はどこか遠くからやってきた無関係な“なにか”じゃないからだ。そいつはつまり、君自身のことなんだ。君の中にあるなにかなんだ。だから君にできることといえば、あきらめてその嵐の中にまっすぐ足を踏み入れ、砂が入らないように目と耳をしっかりふさぎ、一歩一歩とおり抜けていくことだけだ。そこにはおそらく太陽もなく、月もなく、方向もなく、ある場合にはまっとうな時間さえない。そこには骨をくだいたような白く細かい砂が空高く舞っているだけだ。そういう砂嵐を想像するんだ
その嵐から出てきた君は、そこに足を踏みいれたときの君じゃないってことだ。そう、それが砂嵐というものの意味なんだ。
やがてカラスと呼ばれる少年は僕の肩にそっと手を置く。すると砂嵐は消える。でも僕はまだ目を閉じたままでいる。
「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年にならなくちゃいけないんだ。なにがあろうとさ。そうする以外に君がこの世界を生きのびていく道はないんだからね。そしてそのためには、ほんとうにタフであるというのがどういうことなのか、君は自分で理解しなくちゃならない。わかった?」
僕はただ黙っている。少年の手を肩に感じながら、このままゆっくり眠りに入ってしまいたいと思う。かすかな羽ばたきが耳に届く。
「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」とカラスと呼ばれる少年は、眠ろうとしている僕の耳もとで静かに繰り返す。僕の心に濃いブルーの字で、入れ墨として書きこむみたいに。p9
「行く先は四国と決めている。四国でなくてはならないという理由はない。でも地図帳を眺めていると、四国はなぜか僕が向かうべき土地であるように思える」p18
大阪府箕面市牧落から縁もゆかりもない遠く離れた四国の詫間の地で三年を過ごした。偶然の風向きが落ち葉の行方を決めるようにしてこの地に住んだが大きな節目であることを今さらながらに実感する。だからこの文はなかなか切実感を伴う。
たぶん午前10時を少し過ぎたころだったと思いますが、空のずっと上の方に銀色の光が見えました。銀色の鮮やかなきらめきでした。ええ、間違いなく金属の反射する光でした。そのきらめきはかなり長い時間をかけてゆっくりと、東から西の方へと、空を移動していきました。B29なのだろうと私たちは思いました。それは私たちのちょうど真上にいました。ですからまっすぐに上を見上げなくてはなりませんでした。雲一つない青空で、あまりにも光がまぶしく、見えたのは銀色のジュラルミンらしきもののきらめきだけです。
しかしいずれにしてもそれは、かたちも見えないくらい高いところにありました。ということは、向こうからも私たちの姿は見えないわけです。ですから攻撃されるおそれもありませんし、とつぜん空から爆弾が落ちてくる心配もありません。こんな山奥に爆弾を落としたところで、何の効果もないからです。たぶんその飛行機はどこかの大きな都市に爆撃にいく途中か、あるいは爆撃を済ませた帰りか、どちらかだろうと思いました。ですから私たちは飛行機の姿を目にしても、とくに警戒せず、そのまま歩き続けました。むしろその光の奇妙な美しさに打たれたくらいでした。
軍の記録によるとその時刻に、つまり1944年の11月7日午前10時前後に、その地域上空をアメリカ軍の爆撃機、あるいはその他の航空機が飛行していた事実はありません。
でも私と、そこにいた16人の子どもたちはみんなはっきりと見ましたし、全員がそれをB29だと思いました。そんなに高空を飛べる飛行機はB29以外にありません。県内に小さな航空基地はありましたし、ときおり日本の航空機は見かけることもありましたが、みんな小さなもので、そんなに高いところまでは上がれません。それにジュラルミンの光りかたというのは、ほかの金属の光りかたとは違っています。ただそれは大きな編隊ではなく、一機だけの飛行であるように見えましたので、ちょっと妙だなという気がしました。
あなたはこの土地の出身ですか。
いいえ。私は広島県の生まれです。昭和16年に結婚し、それから当地にやって参りました。夫はやはり当県の中学校で音楽の教師を勤めておりましたが、昭和18年に応召いたしまして、昭和20年6月にルソン島の戦闘に参加し、戦死いたしました。マニラ市近郊の火薬庫の警備にあたっております際に、米軍の砲撃を受けて引火爆発し、亡くなったと聞いております。子どもはおりません。
そのときにあなたが引率していた学級の児童の数は全部で何人でしたか?
男女あわせて16名、病欠していた2人を除いて、学級の全員でした。内訳は男子が8名、女子が8名です。そのうちの5名は東京から疎開してきた子どもたちでした。
私たちは野外実習をするために、水筒とお弁当を持って、朝の9時に学校を出ました。野外実習と言っても特別な学習をするわけではありません。山に入ってキノコとか、食べられる山菜を探すのが主目的です。私たちの住んでいるあたりは農村部ですので、まだ食料にそれほど不自由しておりませんでしたが、決して食べ物が十分にあったわけではありません。強制的な供出の割り当ては厳しいものでしたし、一部の人を別にすれば、みんな慢性的におなかをすかせていました。
ですから子どもたちも、食料になるものをどこかで見つけてくることを奨励されていました。非常時ですから、勉強どころではありません。そういう「野外実習」は当時はみんなよくやっていました。学校のまわりは自然に恵まれて、「野外実習」に適した場所がいくらでもあったのです。そういう意味では私たちは幸運でした。都会にいる人々はみんな飢えていました。当時はもう台湾や大陸からの大陸補給路は完全に断たれていて、都市部での食糧不足、燃料不足は深刻なものになっていましたから。p22
私も20代の前半にUFOと今でも確信している物体を目撃している。1970年代の初め頃、調布市仙川にある当時の電電公社中央学園の門を自転車でくぐり講義の出席を急いでいた。遅刻していたので周りには誰もいない。前方の上空は青空が広がり雲一つない快晴であった。突然オレンジ色に光る点が現れた。本当に青空から突然明確な強烈に光る大きめの点が現れたのだ。それはくっきりとしたオレンジ色の軌跡を直線で描いて直角に折れ再び直線の軌跡を描いて突然消えた。
それ以来40年ほどが経つ。しかし2度と同じ体験は巡ってこない。雲一つない快晴の青空・突然現れたオレンジ色の直線の軌跡・直角に曲がった軌跡 これらの三点は現在の飛行物体では不可能だろうと思う。いったい何だったのだろう。このUFO事件でナカタさんは優秀な子供からアタマが悪い人になったのだが私には特に何も起こらなかった(ように思う)。
一番奇妙なのは目でした。そのぐったりとした状態は、昏睡している人の状態に近いのですが、でも目は閉じられていません。目はごくふつうに開かれて、何かを眺めているみたいに見えました。ときどきまばたきもします。ですから、眠っていたというわけではないのです。そして瞳はゆっくりと動いていました。まるでどこか遠くにある風景を端から端まで見まわしているみたいに、静かに左右に動いていました。その瞳には意識がありました。でも実際にはその目は何も見ていません。少なくとも目の前にあるものを見ているのではありません。私が目の前に手をかざして動かしても、瞳は反応らしきものを見せませんでした。p28
ナカタさんの表象がショーペンハウアーの言うところの別の表象に切り替わる瞬間だろう。
バスは高速道路の上を一定の速度で走り続けている。 耳に届くタイヤの音は高まることもなく、低くなることもない。 エンジンの回転数もまったく変化しない。その単調な音は石臼のようになめらかに時間を削り取り、人々の意識を削りとっていく。p31
時間と意識を削り取ると残るのは何か。意志の原型が残る。
「プラトンの『饗宴』に出てくるアリストパネスの話によれば、大昔の神話世界には三種類の人間がいた」と大島さんは言う。「そのことは知ってる?」
「知りません」と僕は言う。
「昔の世界は男と女ではなく、男男と男女と女女によって成立していた。つまり今の二人ぶんの素材でひとりの人間ができていたんだ。それでみんな満足して、こともなく暮らしていた。ところが神様が刃物を使って全員を半分に割ってしまった。きれいにまっぷたつに。その結果、その結果、世の中は男と女だけになり、人々はあるべき残りの半身をもとめて、右往左往しながら人生を送るようになった」
「どうして神様はそんなことをしたんですか?」
「人間を二つに割ること?さあ、どうしてかは僕も知らない。神様のやることはだいたいにおいてよくわからないんだ。怒りっぽいし、あまりにもなんというか、理想主義的な傾向があるしね。想像するに、たぶんなにかの罰みたいなものだったんじゃないかな。聖書にあるアダムとイブの楽園追放みたいにね」
「原罪」と僕は言う。
「そう。原罪」と大島さんは言う。
「とにかく僕が言いたいのは、人間がひとりで生きていくのはなかなか大変だということだよ」 p65
この文章は次のショーペンハウワー「意志と表象としての世界」と通じ合う。
キリスト教が伝えようとしている大真理は、ひとつだけである。それは、最初の人間が犯した原罪(意志の肯定)が、キリスト(意志の否定)により救済されるという教えである。キリスト教には、根拠の原理から解放された箇所がある。それは原罪であり、アダムが性欲を満足させたことである。これは、生殖という種族の絆により、個体に分散してしまった人間が統一を回復するというイデアを教義にしたと言える。各個体は意志の肯定としてアダムと同一であり、意志の否定としてキリストと同一である。 ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」
あんた・・・・・・ちょっと影が薄いんじゃないかな。 地面に落ちてる影が普通の人の半分位の濃さしかない。 オレはね、前にも一度、そういう人間を見たことがある」 「つまり、ナカタのような人間がいたということでしょうか?」「おれはね、前にも一度そういう人間を見たことがある」 p87
影を無くした男は富と引き換えに影を売り渡すがナカタさんは外的に強制的に影を薄くされる。神様が気まぐれに刃物を使って全員を半分に割ってしまったのみならず影まで半分奪った。
彼女は裸になると、白い腕が僕の身体にまわされる。僕は彼女の暖かい息を首に感じる。太腿に彼女の陰毛があたるのを感じる。佐伯さんはたぶん僕のことを、ずっと昔に死んでしまった恋人の少年だと思いこんでいる。そしてこの部屋で昔おこなわれたことを、そのまま繰り返そうとしている。ごく自然に、当たり前のこととして、眠ったまま、夢を見たまま。
そして君自身、時間の歪みのなかに呑みこまれていく。
彼女の夢が君の意識をあっという間もなく包んでいく。羊水のように柔らかく温かく包んでいく。佐伯さんは君の着ているTシャツを脱がせ、ボクサーショーツをとる。君の首に何度も口づけし、それから手を伸ばしてペニスを手に取る。それはすでに陶器のように硬く勃起している。彼女は君の睾丸をそっと手に包む。そして何もいわず、君の指を陰毛の下に導く。性器は温かく濡れている。彼女は君の胸に唇をつける。君の乳首を吸う。君の指はまるで吸い込まれるように、ゆっくり彼女の中に入っていく。
やがて佐伯さんは仰向けになった君の身体の上に乗る。そして脚を広げ、石のように硬直した君のペニスを自分の中に導いて入れる。君は何かを選ぶことができない。彼女がそれを選ぶ。図形を描くように深く、彼女は腰をくねらせる。・・・ほどなく君は射精する。もちろん君にはそれをおしとどめることはできない。彼女の中に何度も強く射精する。
村上春樹の作品でこの世ならぬものと交わるときは必ず騎乗位であり、それは何かのメタファであるのだろうが未だによくわからない。騎乗位は女優位で男をかどわかすからアダムをそそのかしたイヴの原罪に通じると解釈している可能性もある。なんだかそれが確かそうだ。
「僕はその先にあるデリケートな生地の下着を想像する。その下にある柔らかい乳房を想像する。僕の指先で固くなるピンク色の乳首を想像する。想像したいわけじゃない。でも想像しないわけにはいかない。その結果、もちろん僕は勃起する。どうして身体の一部がこんなに硬くなれるんだろうというくらい硬く勃起する」
「誤解されると困るんだけどさ」と彼女はいう。「よかったらこっちにおいで。一緒に寝よう。私もうまく寝付けないんだ」
「僕は寝袋から出て、彼女の布団の中に入る・・・
「変なふうに考えないでね。お姉さんと弟みたいなもんだよ。わかった?
「わかった、と僕はいう」
「君は思考のスイッチを切る。そして彼女を抱き寄せ、腰を動かし始める。ていねいに注意深く、それから激しく。・・・さくらは目を閉じて動きに身をゆだねる。彼女はなにもいわない。抵抗もしない。彼女は表情を殺し、横を向いている。でも君は彼女が感じている肉体的な快感を、君自身の延長にあるものとして感じることができる。君には今ではそれがわかる。樹木は重なりあい、黒々とした壁となって君の視界をさえぎる。鳥はもうメッセージを送らない。そして君は射精する。」
六歳上の姉ともいつか交わることになるだろうとの父の予言をこんな形で果たす。
「昼過ぎに暗雲がとつぜん頭上を覆う。空気が神秘的な色に染められていく。間をおかずはげしい雨が降りだし、小屋の屋根や窓ガラスが痛々しい悲鳴をあげる。僕はすぐに服を脱いで裸になり、その雨降りの中に出て行く。石鹸で髪を洗い、身体を洗う。すばらしい気分だ。僕は大声で意味のないことを叫んでみる。大きな硬い雨粒が小石のように全身を打つ。そのきびきびした痛みは宗教的な儀式の一部のようだ。それは僕の頬を打ち、瞼を打ち、胸を打ち、腹を打ち、ペニスを打ち、睾丸を打ち、背中を打ち、足を打ち、尻を打つ。目を開けていることもできない。その痛みには間違いなく親密なものが含まれている。この世界にあって、自分が限りなく公平に扱われているように感じる。僕はそのことを嬉しく思う。自分がとつぜん解放されたように感じる。僕は空に向かって両手を、口を大きく開け、流れ込んでくる水を飲む。」
この場面はドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の次の文を彷彿とさせる。
彼の頭上には、静かに輝く星たちをいっぱいに満たした天蓋が、広々と、果てしなく広がっていた。天頂から地平線にかけて、いまおぼろげな銀河がふたつに分かれていた。
微動だにしない、すがすがしい、静かな夜が大地を覆っていた。寺院の白い塔や、金色の円屋根が、サファイア色の空に輝いていた。建物のまわりの花壇では、豪奢な秋の花々が、朝までの眠りについていた。地上の静けさが、天上の静けさとひとつに溶けあおうとし、地上の神秘が、星たちの神秘と触れあっていた。…彼は、地面に倒れたときはひよわな青年だったが、立ち上がったときには、もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた。…あのとき、だれかがぼくの魂を訪ねてきたのです」と、彼はのちに、自分の言葉へのしっかりした信念をこめて、話したものだった…亀山訳1p109
「僕は女だ」と大島さんは言う。
「つまらない冗談はよしてください」背の低いほうの女性がひと呼吸おいてからそういう。・・・・
「僕はこんな格好はしていても、レズビアンじゃない。性的嗜好でいえば、僕は男が好きです。つまり女性でありながらゲイです。ヴァギナは一度も使ったことがなくて、性行為には肛門を使います。クリトリスは感じるけど、乳首はあまり感じない。生理もない。さて僕は何を差別しているんだろう。どなたか教えてくれますか」
「僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T.S.エリオットのいう<うつろな人間たち>だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩き回っている人間だ。・・・僕が我慢できないのはそういううつろな人間たちだ。」
T.S.エリオットのいう<うつろな人間たち>は次のような出だしで始まる頭を藁くずで埋めている男。
We are the hollow men
We are the stuffed men
Leaning together
Headpiece filled with straw. Alas!
「大島さんには預言する能力があるんですか」
「ない」と彼は言う。「幸か不幸か、僕にはそんな能力はない。僕がもし不吉なことばかり預言するように聞こえるとすれば、それは僕が常識に富んだリアリストであるからだ。僕は一般論で演繹的にものをいう。するとそれはとりもなおさず不吉な預言に聞こえるようになる。どうしてかといえば、僕らの周りにある現実とは不吉な預言の実現の集積でしかないからだ」
村上春樹は大島さんの口を借りて、常識に富んだリアリストつまり村上春樹は不吉な未来を推測できると述べている。骨絡みのペシミズムを心に宿してビールを飲みランニングと早起きのストイックな生活をおくる修行僧。常識に富んだリアリストつまり彼は、それにもかかわらず、ときにとんでもない反日的な言動を漏らし、読者を混乱させる。
世の中のほとんどの人は自由なんて求めてはいないんだ。求めていると思いこんでいるだけだ。すべては幻想だ。もしほんとうに自由を与えられたりしたら、たいていの人間は困り果ててしまうよ。覚えておくといい。人々はじっさいには不自由が好きなんだ。
カラマーゾフの兄弟「大審問官」はイワンがアリョーシャに語って聞かせる彼の創作になる物語だ。舞台は15世紀、スペインに降臨したキリストに対して大審問官は捕えて火あぶりの刑を宣告する。地下牢に一人で現れた大審問官はキリストに向かって、いまだ自由を扱いきれない人間に対し自由を与えることでパンを奪い合い、返って人類を不幸にしたと批判する。
無言で聞いていたキリストは最後に否定も肯定もせずに大審問官にキスをする。自由にすると互いにパンを奪い合って結局は破滅する人間は、奇跡と権威と神秘つまり悪魔の力を借りてコントロールしないと破滅するとキリストにいいつのる大審問官の心のなかに深い苦悩を感じ取り、憐みと共感のキスをする。彼の思想と行為はキリストの思いを否定したものであり、許すことはできないはずであるが、今そこにある大審問官の苦悩を感じ取ることで憐みと癒しのキスと与えると解釈したい。この話が無神論者でこそないが神の作った世界を認められないイワンの口から語られることで深い説得性をもつ。
退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。
彼の小説観、音楽観を端的に言い表している。
流し台の鏡に向かい、自分の顔を注意深く眺める。そこには僕が父親と母親から―とはいえ母の顔は全く覚えていないのだけど―遺伝として引き継いだ顔がある。どれだけ強く望んでも、父親から受け継いだとしか思えない二本の濃い長い眉と、その間に寄った深い皺をひきむしってしまうことはできない。そうしようと思えば父親を殺すことはできる(現在の僕の力をもってすれば決して難しいことじゃない)。母親を記憶から抹殺することもできる。でも僕の中にある彼らの遺伝子を追いはらうことはできない。もしそれを追い払いたければ、僕自身を僕の中から追放するしかない。(上p17)
父親という名で人類、いやこの世界を疎んじていることばだ。深く考える人が一度は通る道。
「ひとつお願いがあるんだけど」「うん?」「さくらさんの裸を想像していいですか?」彼女は手の動きを止めて僕の顔を見る。「君が、今こうしているときに、私の裸の身体を想像するの?」「そう。さっきから想像する野をやめようと思っているんだけど、どうしてもやめられないんだ。」「やめられない?」「テレビのスイッチが切れないみたいに。」彼女はおかしそうに笑う。「でも、よくわからないな。そんなの黙って勝手にそうぞうしていればいいじゃない。いちいち私の許可をもらわなくたって、君がなにを想像しているかなんて、私にはどうせわかりっこないんだから」「でも気になるんだ。想像するってだいじなことだという気がするし。いちおう断っておいだほうがいいように思ったから。わかるわからないのことじゃなくて」(上p157)
僕がなにを想像するかは、この世界にあって恐らくとても大事なことなんだ。(上p229)
「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilities─まさにそのとおり。逆にいえば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例にみられるように。」・・・夢の中から責任は始まる。その言葉は僕の胸に響く。(上p227)
人々が僕を非難し、責任を追及している。・・・記憶にないことには責任が持てないんだ、と僕は主張する。そこでほんとうになにが起こったのか、それさえ僕は知らないんだ。でも彼らは言う。「誰がその夢の本来の持ち主であれ、その夢を君は共有したのだ。だからその夢の中で行われたことに対して君は責任をおわなくてはなない。結局のところその夢は、君の魂の暗い通路を通って忍び込んできたものなのだから」
ヒットラーの巨大に歪んだ夢の中に否応もなく巻き込まれていった、アドルフ・アイヒマン中佐と同じように。(上p228)
すべては想像力の問題なのか。今ひとつピンとこない。
「ねえ、大島さん、僕のまわりで次々にいろんなことが起きる。そのうちのあるものは自分で選んだことだし、あるものは全然選んでないことだよ。でもそのふたつのあいだの区別が僕にはよくわからなくなってきているんだ。つまりね、自分で選んだと思っていることだって、じっさいには僕がそれを選ぶ以前から、もうすでに起こると決められていたことみたいに思えるんだよ。僕はただ誰かが前もってどこかできめたことを、ただそのままなぞっているだけなんだって気がするんだ。どれだけ自分で考えて、どれだけがんばって努力したところで、そんなことはまったくの無駄なんだってね。というか、むしろ、がんばればがんばるほど、自分がどんどん自分ではなくなっていくみたいな気さえするんだ。自分が自分自身の軌道から遠ざかっていってしまうような。そしてそれは僕にとってひどくきついことなんだ。いや、怖いっていうほうが近いかもしれない。」(上342)
ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」の次の一節となんと似ていることだろう。
特に、人間はこんな人に成りたい、あんな人に成りたいと決心して変わることは不可能である。意志は自由意志ではなく、生の衝動である。人間は生の衝動であり、その性格は高次のイデアであり、自分自身を経験的性格として追認していくことしか出来ない。ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」
「別にわしは善悪は超えてはおらん。ただ関係ないだけだ。何が悪で何が善か、それは私の知ったことではない。私が求めているのはただひとつ、私の扱っている機能を完遂させることだ。私はとてもプラグマティカルな存在なんだ。いうなれば中立的客体だ」・・・「私の役目は世界と世界との間の相関関係の管理だ。ものごとの順番をきちんと揃えることだ。原因のあとに結果がくるようにする。意味と意味とが交じり合わないようにする。現在の前に過去が来るようにする。現在の後に未来が来るようにする。まあ多少の前後はあってもかまわない。世の中に完璧なものなんてありゃしないんだ、ホシノちゃん。結果的に帳尻さえちょんちょんとあえば、私だっていちいちうるさいことは言わない。」(下p97)
これは作品の中のカーネル・サンダースの言葉。人は表象同士を、原因と結果に当てはめて見てしまう。悟性とは、因果性を直観する力のことである。ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」
「必然性というのは、自立した概念なんだ。それはロジックやモラルや意味性とは別の成り立ちをしたものだ。あくまで役割としての機能が集約されたものだ。役割として必然でないものは、そこに存在するべきではない。役割として必然なものは、そこに存在するべきだ。それがドラマツルギーだ。ロジックやモラルや意味性はそのもの事態にではなく、関連性の中に生ずる」(下p103)
叡智的性格は意志であり、時間の外にあるため、永遠に不変である。だから、知性と意志の闘争の結果ではあるといえ、その結果は結局必然に支配されている。ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」
ショーペンハウアーの意志と表象を知ってから下記の文を読むと、話している猫は因果のフィルターを通さない、つまり表象の枠から外れてしまったものだと言うことがわかる。
「困らないけど、高いあたま」
「すみません、おっしゃっていることが、ナカタにはよくわかりません。申し訳ありませんが、ナカタはあまり頭が良くないのです」
「あくまで、さばのこと」
以下、気になるフレーズをメモ。
君はもういろんなものに好き勝手に振りまわされたくない。混乱させられたくない。君はすでに父なるものを殺した。すでに母なるものを犯した。そしてこうして姉なるものの中に入っている。もしそこに呪いがあるのなら、それを進んで引き受けようと思う。そこにある一連のプログラムをさっさと終えてしまいたいと思う。一刻も早くその重荷を背中からおろして、そのあとは誰かの思惑の中に巻き込まれた誰かとしてではなく、まったくの君自身として生きていく。それが君の望んでいることだ(下p251)
「君はそうすることによって、自分にかけられた呪いを乗り越えることができると考えたわけだ。そうだよね?でも果たしてそうなっただろうか?」
でもはたしてそうなっただろうか?君は父なるものを殺し、母なるものを犯し、姉なるものを犯した。君は予言をひととおり実行した。君のつもりでは、それで父親が君にかけた呪いはおわってしまうはずだった。でも実際にはなにひとつとして終わっちゃいない。乗り越えられてもいない。その呪いはむしろ前よりも色濃く君の精神に焼き付けられている。君には今それがわかるはずだ。君の遺伝子は今でもその呪いに満たされている。それは君の吐く息となり、四方から吹く風に乗って、世界にばら撒かれている。君の中の暗い混乱はかわらずそこにある。そうだね?君の抱いてきた恐怖も怒りも不安感も、ぜんぜん消え去っていはいない。それらはまだ君の中にあって、君の心をしつこくさいなんでいる。(下p281)
「誰の手にもとどかないところ。時の流れのないところ」(下p35)
「ここでは僕の名前も多分必要ないんだね」彼女はうなずく。「だってあなたはあなたであり、ほかのだれでもないんだもの」下p347)
「いちばん大事なのは、私たちはみんな一人ひとり、ここに自分を溶けこませているということ。そうしているかぎり、なにも問題は起きないのよ」(下p374)
「あなたは森の中にいるとき、あなたはすきまなく森の一部になる。あなたが朝の中にいるとき、あなたはすきまなく朝の一部になる。あなたが雨降りの中にいるとき、あなたはすきまなく雨降りの一部になる。あなたが私の前にいるとき、あなたは私の一部になる。そういうこと」(下p375)
佐伯さんがどうしてそんなことをしなくてはならないのだろう?彼女がどうして僕を、そして僕の人生を傷つけ損なわなくてはならないのだろう?そこにはきっとなにか、明らかにされていない大事な理由があり、深い意味があったはずだ。彼女がそのときに感じていたことを、同じように感じてみようとする。彼女の立場に寄り添ってみようとする。(下p303)
「君は十分深く傷つきそこなわれてしまった。そして君はこれからもずっとその傷を負い続けることだろう。でもね、それにもかかわらず、君はたぶんこう考えるべきなんだ。君にはまだそれを回復することができるんだってね。君は若いし、タフだ。柔軟性にも富んでいる。傷口をふさぎ、頭をしっかりとあげて、前に進んでいくこともできる。でも彼女にはもうそんなことはできない。彼女はただそのまま失われているしかないんだ。だれがいいとか悪いとか、そういう問題じゃない。現実的なアドバンテージを持っているのは君なんだ。君はそのことを考えてみるべきだ」(下p304)
「いいかい、それはもうすでに起こってしまったことなんだ(略)いまさらとりかえしのつかないことだ。彼女はそのときに君を捨てるべきじゃなかった(略)でも起こってしまったことだ(略)どんなに手を尽くしても、もとどおりにはならない。いいかい、君の母親の中にもやはり激しい恐怖と怒りがあったんだ。今の君と同じようにね。だからこそ彼女はそのとき、君を捨てないわけにはいかなかった」「たとえ僕のことを愛していたとしても?」「そうだよ」「たとえ君を愛していたとしても、君を捨てないわけにはいかなかったんだ。君がやらなくちゃならないのはそんな彼女の心を理解し、受け入れることなんだ。彼女がそのときに感じていた圧倒的な恐怖と怒りを理解し、自分のこととして受け入れるんだ。それを継承し反復するんじゃなくてね。言い換えれば、君は彼女をゆるさなくちゃいけない。それはもちろん簡単なことじゃない。でもそうしなくちゃいけない。それがきみのとっての唯一の救いになる。そしてそれ以外に救いはないんだ。」(下p305)
「遅くならないうちにここを出なさい。森を抜けて、ここから出ていってもとの生活に戻るのよ。入り口はそのうちにまた閉じてしまうから。そうするって約束して」僕は首を振る。「ねえ佐伯さん、あなたにはよくわかっていないんだ。僕が戻る世界なんてどこにもないんです。僕は生まれてこのかた、誰かに本当に愛されたり求められたりした覚えがありません。自分自身のほかに誰に頼ればいいのかもわかりません。あなたの言う『もとの生活』なんて、僕には何の意味もないものなんです」「それでもやはりあなたは戻らなくちゃいけないのよ」「たとえそこになにもなくても?だれひとりとして僕がそこにいることを求めていなくても?」「私がそれを求めているのよ。あなたがそこにいることを」「私があなたに求めていることはたったひとつ。あなたに私のことを覚えていてほしいの。あなたさえ私のことをおぼえていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない」(下p379)
「逃げまわっても、どこへも行けない」(下p410)
「父はあなたのことを愛していたんだと思います。でもどうしてもあなたを自分のところに連れ戻すことはできなかった。というか、そもそも最初からあなをほんとうには手に入れることはできなかったんだ。だから自分の息子でもあり、あなたの息子でもある僕の手にかかって死ぬことを求めたんです」(下p111)
「それで、このナカタが、あなたのことを、カワムラさんと呼んでも、よろしいのでありますね?」
「困らないけど、高いあたま」
「すみません、おっしゃっていることが、ナカタにはよくわかりません。申し訳ありませんが、ナカタはあまり頭が良くないのです」
「あくまで、さばのこと」
思い出はあなたの身体を内側から温めてくれます。でもそれと同時にあなたの身体を内側から激しく切り裂いていきます。
あなたさえ私のことを覚えていてくれれば、ほかのすべての人に忘れられたってかまわない
目を閉じても、ものごとはちっとも良くならない。目を閉じて何かが消えるわけじゃないんだ。それどころか、次に目を開けたときにはものごとはもっと悪くなっている。私たちはそういう世界に住んでいるんだよ。
幸福は一種類しかないが、不幸は人それぞれに千差万別だ、トルストイが指摘しているようにね。
幸福とは寓話であり、不幸とは物語である。
僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける。大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。
僕らの人生にはもう後戻りができないというポイントがある。それからケースとしてはずっと少ないけれど、もうこれから先には進めないというポイントがある。そういうポイントが来たら、良いことであれ悪いことであれ、僕らはただ黙ってそれを受け入れるしかない。僕らはそんなふうに生きているんだ。
写真は作者: イーヴリン・ド・モーガン 1878年