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まさおレポート

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アニミズムへの回帰 大地を離れぬ知性の系譜 文字数:1963

2025-06-29 | バリ島 文化・風習・葬祭・ヒンドゥ・寺院・宮殿

アニミズムへの回帰──大地を離れぬ知性の系譜

このところ、自分が書き散らしてきたブログ記事を読み返してみた。すると、いくつかの断片が、予期せぬ形で呼応しはじめた。あれはこの一文から始まったのかもしれない。

「大地という原点に戻って形而上の価値を認識することが、古今東西の英哲の共通項のようだ」

私はなぜ「大地」という言葉を用いたのか。思えばその時はまだ、直感に近かった。しかし今、いくつかの読書体験が、これを「アニミズム回帰」と呼ぶにふさわしい思想の軸に変えつつある。

たとえば、吉本隆明による鈴木大拙論には、次のような記述がある。

「考えが『大地』を離れない、あるいは心が地面を離れないということを、浄土教における慈悲の根本に据えたのが大拙だった」

私はこの言葉に深く頷いた。吉本の文脈では、それは「慈悲」の源泉として語られている。しかし、それ以上に、この言葉は私自身の知的な位置感覚を言い当てていた。

私の中では、この「大地」という語は、宗教とも自然とも、あるいは失われた幼年期の感覚とも結びついている。都市的な、抽象化された思考では届かないところに、言葉を超えた何かがある。その「何か」に私は、長年、ひそかに惹かれてきたのではなかったか。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読み返していても、同じ感触に出会うことがある。

たとえば、アリョーシャが星空の下、大地に伏して泣く場面。彼は、神の不在に絶望するでもなく、合理主義の皮膚を硬くするでもなく、ただ、草花や空や大地とともに呼吸している。そのような感受性を持つ者だけが、〈信仰〉という言葉の、まだ乾いていない側面に触れることができるのだと感じる。

「彼は、地面に倒れたときはひよわな青年だったが、立ち上がったときには、もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた」

これは、まさしく「大地からの霊感」だろう。アリョーシャの信仰は、「論証された神」ではなく、「触れられた大地」から生まれている。ドストエフスキーは、そのことをきわめて繊細に描いている。

面白いのは、兄ドミートリイもまた、同じ夜、同じように「大地を愛する誓い」を立てているということだ。二人の兄弟が、理性でも信仰でもなく、「地面」によって何かを掴み直す。それは、どこかアニミズム的であると同時に、深く宗教的でもある。

この点で、鈴木大拙が語る「武家の霊性」も示唆的である。

「武家の強さは、大地に根をもっていたというところにある。霊の自然・大地の自然が、日本人をしてその本来のものに還らしめた」

鎌倉仏教の成立もまた、きらびやかな平安の宮廷文化を離れ、「土に還る」ことで初めて始まった。禅も浄土も日蓮も、その発芽の場は「大地」だったのではないか。形式としての宗教ではなく、生身の苦しみと向き合うなかで、土のにおいとともに立ち上がる霊性。

大拙はそれを「日本的霊性の覚醒」と呼んだ。私はそれを、アニミズム的感性の復興と読み替えてみたい。

さらに重要なのは、この「霊性の覚醒」が、いつも外的な衝撃によって引き出されるということだ。元寇という災厄、あるいは近代の制度的崩壊、それはすべて、「このままではすまない」という無意識的なざわめきを呼び起こす。大拙はそれをこう記す。

「このままではすむものでない、という気分が、国民全体に無意識的に立ち上がった」

今の私たちの時代もまた、そのようなざわめきの中にあるのかもしれない。制度が行き詰まり、言葉が軽くなり、宗教が機能を失ってゆく中で、それでもなお「信じる」ことの意味を問い直すとすれば、その出発点は、星空ではなく、大地にあるのではないか。

草のにおい、石の冷たさ、朝露の感触、子どもの笑い声、それらとつながることでしか、信仰も思想も、再び人間の内部に宿ることはできないのだ。

私は、ようやくそのことに気づきはじめている。だから、改めてこう言ってみたい。

「哲学が天空を見上げて言葉を探すとき、信仰は大地に伏して祈りを見つける」

この二つが出会う場所を、私は「アニミズム」と呼んでいるのかもしれない。


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