2012-02-07 初稿
2015/02/23 追加
1995年にはフェラーラのルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯がユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
ボローニャからフェラーラへ鈍行で行く
フェラーラにあるエステンセ城は13~16世紀にこの地を治めたエステ家の居城。ルネッサンス期に宮廷都市として栄えた。エステ家は1598年、フェラーラから追放され、フェラーラは教皇領に編入される。
エステンセ城(Castello Estense)1385年、ニッコロ2世によって着工されたエステ家の居城で、改修が繰り返され、完成したのは16世紀。
ルクレツィアはフェラーラに嫁ぎ、この城で暮らした。ファム・ファタール(仏:Femme fatale)、男にとって男を破滅させる魔性の女(悪女)としてカルメンや『痴人の愛』ナオミ サロメに列せられる女性。
ニッコロ3世(1383〜1441)妻パリジーナ・マラテスタと庶出の息子ウーゴの姦淫を知り、この牢に入れ斬首した 霊気と冷気が漂う。

エステンセ城2
エステンセ城3
跳ね橋
濠を渡る跳ね橋のフック これを外すと跳ね橋が跳ね上がる。
カタパルトの石玉
内庭にもカタパルトの石玉が積んである。臨戦態勢の城。
フェラーラ 街の風景1
フェラーラ 街の風景1
エステンセ城3
エステンセ城の前にあるサヴォナローラ像(Statua di Savonarola)。ジロラモ・サヴォナローラ はフェラーラ生まれのドミニコ会修道士でフィレンツェで神権政治を行った。1498年4月8日サン・マルコ修道院に市民が押し寄せ、共和国もサヴォナローラを拘束する。彼は激しい拷問を受け火刑に処された。
1494年にフランスのシャルル8世軍がナポリに進軍しフィレンツェにもせまってきた。ロレンツォの息子ピエロは逃げ出しメディチ家は途絶えた。サヴォナローラは1498年までフィレンツェを神権統治し、裸婦を描いた絵や楽器を没収し、あつめて「虚飾の焚刑」を実施した。ボッティチェリも自らの作品を燃やしたという。
しかし次第に市民の反発やフランチェスコ派の宣教師の反発を背景に1498年教皇アレクサンデル6世はサヴォナローラを異端として破門した。フィレンツェ市民はサン・マルコ修道院にサヴォナローラを捕らえて最後は焚刑にしてしまった。
ルターは、「その時、反キリストは、この偉大な人物の記憶が消え去り、また呪われることを願った。しかしながら、見よ、彼は生きており、その記憶は祝福されている」と言った。
薔薇の名前は1327年が舞台だが150年後のサヴォナローラを思い浮かべてしまう。性急すぎたのだろう。
塔に上がる。
エステンセ城の天井画1
エステンセ城の天井画2
エステンセ城の天井画3
エステンセ城の天井画4
エステンセ城の天井画5
エステンセ城の天井画6
エステンセ城の天井画7
エステンセ城の塔からみたフェラーラの街並み
エステンセ城の塔からみたフェラーラの街並み2
エステンセ城の塔からみたフェラーラの街並み3
天井画を見るために鏡が置かれている。
エステンセ城の天井画8
エステンセ城の天井画9
カテドラーレ ロマネスクとゴシックの混合様式による大聖堂。
大聖堂(Cattedrale)フェラーラの守護聖人サン・ジョルジョに捧げられた教会。11世紀の着工当時はロマネスク様式であったが、次第にゴシック様式に移行し、結果、混合様式となっている。ルクレツィアとアルフォンソの結婚祝典のミサが行われた。
アップ
大聖堂を出たところ
街の公園で憩う人々 フェラーラはイタリアで住みやすい街ベスト3