豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

生のリアル

2014-04-27 13:22:43 | 日記
※妻の『ダラックマのブログ』も一緒にお読みください。

※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。




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こんにちは!

追い詰められた子鹿のようにブルブル震えながら『恐怖』について調べていた豊田真大です。

みなさま、本日は休みで、暇なので、もう一つ記事を書いていきます。


死の恐怖というものをネット上で調べてみると、様々な方が意見を書かれています。

この手塚治虫さんの『ブッダ』を特集したサイトで、僕の『慣れと親しみ』に対する疑問が解決されました。

まあ実践は今からですよ。

理屈の上では、そういうことで『慣れと親しみ』が恐怖を生むのだなと思います。


メッセージ・フロム・ブッダ - 「ブッダ」救われる言葉
http://tezukaosamu.net/special/buddha/words.html



なんと平常の僕たちは『慣れと親しみ』の故に『死』から遠ざかっているのです。

本当は常に諸行無常で、死に直面しながら生きているのに、感じていない。

ぬるま湯の中で暮らしていたようです。

それが普通の状態なのに、慣れと親しみが、覆いをかける。


不思議なのですが、僕は、ずっと精神世界や宗教関係の読書をしていたのに、なぜ今まで神や死に対する理解ができなかったのでしょう。

それは、自分自身の回答をもって、教えに当たっていたからなんだと思います。


まあ、それはよいとして、

『死に対する恐怖』は非常に、非常に重要な鍵ですね。

グルジェフさんは、この自己の死に直面する機能を人間に新しく植え付けることを創造主に提案しました。

ああ、ベルゼバブ氏が提案していました。


そう考えると日本の武士道というものは凄まじく洗練された思想だったのだなと分かります。

『武士道は死に狂い』と葉隠れに書かれているそうですが、

まあ、あえて死に向かわなくても、瞬間瞬間、死に切っているのが人間なのでしょう。

でも、慣れと親しみは、この生のリアルを奪ってしまったのです!

諸行無常は、もはや、空虚な言葉になってしまっている。


上のサイトで紹介されているように、

ブッダは恐怖を感じているのですが、

『むしろ恐怖に身を任せて、その中で安らぎを見つけるのだ』


と、言っています。


実は僕は常にジェットコースターで眼を回しているにも関わらず、意識できていなかったのですね。

『慣れと親しみ』の上に安住していたのです。

だから、生のリアルは程遠くなり、退屈が生活を包み、まるで機械のようになっている。

常に死は隣り合わせだったのです!!!!

びっくり仰天、怖すぎる(爆笑)


このPCに向かって、コーヒー飲みながら、のんびりと平和を楽しんでいるのは、

単に『慣れと親しみ』のゆえに、ぼけっとしているだけだったのですね。

この瞬間にも、死は、正に、すぐそこにあるのでしょう。

感じる能力が『慣れと親しみ』で減退してしまっているので、生きる実感がない。

諸行無常が空虚になる。


しかし、この恐怖の中に安らぎを見つけるというのは、どういう意味だろう・・・・・・。

これは重要な問題に、直面しました。


恐怖に身を任せる練習を、していかなくては体験できないようです。

我々は、恐怖を日常に、持ち込まなければいけない!!!!


生は私が存在して初めてリアルとなる。

死の恐怖が、間違いなく、私を、また現実をリアルにさせることはわかります。

この中に安らぎがあるのか!?


うーむ、、、

難しすぎるが、挫けないぞ(爆笑)




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