豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

ドクターイエローの幸福

2018-05-28 12:10:32 | 日記



ドクターイエローとは、新幹線区間において、線路のゆがみ具合や架線の状態、信号電流の状況などを検測しながら走行し、新幹線の軌道・電気設備・信号設備を検査するための事業用車両の愛称である

※ウィキペディアより


こんにちは

居間で裸のままコーヒーを飲んでいる豊田です

ついさっき中村元さんの『龍樹』を読み終えて、仏教理解が深まったに違いないと、満足に浸っていました

ドクターイエローの引用をしたのは、昨日、息子ちゃんとリニア鉄道館に見学へ行ったからです

ぼくは、この車両のことは全く知らなかったのですが、見ると幸せになれる、幸運の新幹線らしいですよ!


前回あってから5ヶ月ぶりくらいに再会した長男は、言葉で意思表示することが、以前より格段にできるようになっていました

新幹線が好きなようで、喜んでいてくれたので、ぼくとしても心満足できてよかった




まあ、仕事の能力を少しでも向上させて、健康にもならないといけないですが、どうなることか

まあ後悔のないように過ごさないと、時には限りがあるということを、以前にも増して感じている

ドクターイエローは人々の気持ちを晴れさせるわけだが、なかなか見る機会が少ないからだという

非公開の仏像も、レア感があって、のようなものと同じなのだろうか?


人が喜ぶもの、人が元気であるもの

そのようなものを見ると、自分も、喜んだり、元気になったりする

人が怒るもの、人が元気でないもの

そのようなものを見ると、自分も、怒ったり、元気がなくなったりする


そうであるので人々が、人々と、感応しあっているわけだが、人によって見解、つまり事象のあり方の、好みが違うから、うまくいかない

ある人が元気になることも、他の人は元気がなくなることであったりするから、混乱する

好みの問題?


まあ宗教においても、神道、仏教、キリスト教、儒教、禅だ、チベット密教だ、ああ、今の流行りは南伝仏教なのさ

とか、色々ありながらも、やはり、好みということからは離れてないのではないかなあ

それぞれの立場にある人たちが、別の立場にある人たちを、見解の相違から裁き、批判し合うわけだけれども、こういうのが、なくなるといい

真理とはこうです、これが、幸せへの道です

というものは、確かにあるに決まっているが、目的は、その、幸せなり、安らぎに帰ることのはずなのに、その方法の、相違で、苦しみに帰ることになるのは、バカげている

バカげているにも関わらず、それが、いつまでも解決しない

その問題の、もとは、やっぱり正義

正しさ

グルジェフさんも言うが、人は、自分は正しいと常に感じたがる

そうなると、それに同意しないものは、すべて誤っている

そうではなくて、そのような在り方から、自己を遠ざけていくこと

それを、考慮をしないことと読んだのかもしれない

外側に対しての、愚痴、怒り、貪り、内側に対する愚痴、怒り、貪り

精神と肉体の、自然な本能的反応

肉食動物的、オオカミ的、生存

それに対して、自制させるものなく、自制することは不可能である

それだからこそ、最初に、私自身を思い起こそうと努力していることが、絶対条件になってくる

ここでは、わたしなるものが、わたしではなくなっているのだが、それば、わたしというものを事象と区別することなく、わたしなるもの

わたしなる、機能

思考、感情、動作と見ているからである

この、働きと、これと分離して観察している働きがあり、この観察しているものが、この、自然なる反応に干渉し始めることで、変化の可能性が生じることになる

そこで説かれることは、リラックス、特に、身体の緊張を緩め、寛ぐことの必要性である

この身体を緩め、緊張を解くのに、瞑想も有効的なのかもしれない

この環境が、元気を、つまりエネルギーを十分に保つことを可能にしていなければ、自制など、できないからである


寛ぎ、緩むことを、無視して、自己を制御させようとするなら、無理が生じ、ストレスが生じる

このようにして、まず、自己を、自己と見ることと、それを、ゆるめてあげることが肝心であり、
その状況において、愚痴や怒りや貪りを、見つけて、制する

つまり、それらに対する考慮を止めるのである

これは考えないことではなく

私が正しいというような、そのような点での、他者の考慮、自己の考慮、つまり、思いの連続をストップさせることなのです


って、なぜ、このような話にw


とにかく、まあ、リニア鉄道館は、たのしい思い出になりました

ドクターイエローは、その存在を知りませんでしたが、幸福感を与えました

それは、こどもが喜んだからです

ここで、こんなものには、価値が云々ではなく、つまり正しさやら、価値観から、見解から見るのではなく

内面的考慮をやめて、外側の人の、気持ちを見るときに、その人が快適であれば、わたしも快適になる

ということではないかと

しかし、そこに、わたしの見解、意見を、持ち込んで、そこにある、安心よりも、重要であるなどと、主張しだすと、混乱する

が!

まあしかし、事実、もあるわけなので、見極めは必要である

そこで、このようにすれば、こころの安定を得ることができると宗教が説く

しかし、その、宗教が説く、教説の理解の相違から、またしても批判による、他者への暴力を振るったりがあるなら、アホらしい

んー

何が書きたいのか、いつもの如く、わからなくなってきたwwwwww

まあ、とにかく、今日も、仕合わせに!

でわでわ

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