豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

怒りという超難題

2014-07-27 13:31:11 | 日記
こんにちは!

澄んだ透明性の中で、あらゆる存在を照らす皆様。


自治会の草刈手伝いと嫁様のお迎えという激務をしてきました豊田です。

現在は気分最悪の状況でブログの再更新をしようとしております!


アメーバのプロフィールをですね、書いたわけです。

これは携帯のメアドで登録してある奴で、嫁様は知らないはずなのです。

結構、多項目に渡る質問に答えたので、これを読んでほしいなあと思ったんですね。



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そうしたら、明らかに機嫌悪そうに「頭痛いから無理」と即拒否!

ムカーッ、となってしまったのであります。


悠聖くんは、ガラス戸を見つめながら興奮している。


ブログ書きながら「薬飲んだらとか、冷えピタ貼ったらとか、もう返事ないから救急車やな」

とか嫌味を言っていたら、家へ行きました。

僕はパソコンが壊れたので母親の家からブログを更新しています。


えーっと、朝の超開放的な気分はどこへ行った!?

というくらいネガティブエモーション全開になっております(爆笑)

これは、気分というのは、あれですね。

良くなったり悪くなったり、天気のように移り変わるようです。


この気分さんの調子に合わせていると非常に悪いことになるので冷静にしないといけません。

しかし相手がいる問題なので、非常に難しいですね。

うん!


思い出しましたが、前の前の職場ではしょっちゅう怒られていました。

怒られるには、もちろん原因があるわけですが、相手の上司は、この怒りパワーを遠慮なくブツケテこられるので僕も防御の範囲を遥かに超えてダメージを受けます。

このダメージを受けるのを見て、満足するのです。

前の職場の上司も、そうでしたね。

怒るのですが、中途半端な怒り方はしません。

徹底的にやるのです(爆笑)

それが、もう、鬼の形相とはこのことか!? というレベルでやられます。

もちろん怒るには、それなりの理由がキチンとありますよ。


また僕自身もこれらの波動に包まれると怒ります。

そして性懲りもなく今でも、数々の恥辱の瞬間を覚えているわけであります。


ここからが恐ろしいパターンなのですが、この怒られたことに対して、構えができます。

例えば「仕事は正確に効率的に」してほしい上司から怒られた場合。

この伝播した情報が作用して「仕事は正確に効率的に」しようとします。

すると、そうでない人に対して怒りが込み上げてくるのであります。

ああ、恐ろしや、恐ろしや。

つまり自分自身も、他の人に怒りパワーを発揮してしまうのです。


そのようにして緊急度のパラダイムが伝播すると『7つの習慣』の中にも書かれていました。


この怒りパワーは3毒の一つで、制することが必要です。

制するには状況に何も期待をしないことではないでしょうか。

だいたいにおいて他者との感情のぶつかり合いで、怒りが生まれるわけです。

僕がブログのプロフィール欄を見てほしいと期待するから怒りが生まれたでしょうw


単純ですが、ほとんど、これだけが激怒の原因です。

だから名著『7つの習慣』にも『期待を明確にしておく』という項目があるくらいです。


またブッダさんも『サイの角のように、ただひとり歩め』とおっしゃっています。

独りあることは他者に期待しないことになる。


しかし、自分が期待しなくても他者は期待しますよね?

これが難しくさせている原因ですよね。

自分は期待せずに、相手の期待には応えるとなるとストレス爆破必死!?


この近辺で何年もウダウダやっているのに答えが出ないとはどういうことだ、苦笑

期待の先を変える事だろうかと、今、思いつきました。

どのように期待を持てばよいのか、このところを追求してみようかな……。


確かグルジェフさんは外的考慮というアイデアを提供していましたね。

内側で考えずに、他者の欲求に従う事です。

そうなると期待の矛先を変えるというより、他者の欲求に従う事を何が妨害しているのかを考える方がいい。

しかし他者というのも、色んな人がいるので、特に今の社会、自分の身を守らなくては、いいなりになっていたら、それこそ終わってしまいます……。


ああ、難し!!!!

放心

2014-07-27 05:39:56 | 日記
おはようございます!

想念の霧を吹き飛ばしリアルな質感に留まることなく在る皆様。


本日は深夜2時に起床した豊田です。

明け方に思いついて、また、1時間の座禅をしました。


この時に、もちろん体のバランスの悪さを感じて一生懸命正そうとしていました。

外から聞こえてくる鳥や虫の鳴き声が、心に流れている。

聞いているというより、心に直接流れ込んでいるような感覚になります。



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また体の感覚が鋭敏になって、呼吸の肌に触れる質感、身体全体に広がるエネルギーを感じます。

全体性を存在させている、質、この名づけようのない、心の質感が、浮かび上がってくる!


座禅を終えると明らかにリアリティが増しています。

この目の前にある様々な音や匂いや視野、身体の感覚、食べ物の味!

自分の中にある、この記録テープのような、滑らかな心の表皮に触れるリアリティの新鮮なこと。

新鮮さ、また、質感が全く違うようになる。


このような効果がなぜあるのか皆目分かりませんが、やってみる価値は大いにありますね。

1時間が難しい場合は15分くらいでも効果があると思います。


この今の目の前にある奇蹟としか呼びようのない多彩なる宇宙の混淆である人間の世界。

この世に生きるというのは史上最高の映画を見るよりも更に、凄まじく、高揚することだ。

苦の滅尽とは我を滅することであるというブッダさんの名言、また座禅という究極の心理整理の時間を伝えてきた仏教徒の方々の素晴らしさは、何物にも例えようがありません!


わが身はやがて朽ち果て意識もなくして打ち捨てられるであろう、それを忘れずに、ただ、この命の共演の中で、他と自己の区別なく、慈悲の心を起こして、生きるとは素晴らしい。

他者と自己が同じになるというのは言い方を変えれば、自己も他者のようになるということだろう。

この愛おしい自己が憎まれるのは、自己だからである、笑

試しに、自分のことを他人だと思ってみてください。

その怒りや欲望や、また、動き、意図した行為、様々にある感覚が自分のものではなく、他者が感じているものだと一時的にだけ感じてみるのです。

すると、なんと可愛げのある奴よのお、となります(爆笑)


そしてこれらの命の輝きは、我が滅したときに、すべての命と同等になるわけです。

同じではないけれども、共通した、この命の流れの中に、風や雲や雨や、また人間や猫や猿や、様々にある生命が花開いている。

この今ここにある永遠の諸行無常こそが神の臨在なのである。

もちろん、高等なレベルにまで辿れば、これは空になり、最少物質、創造の光となるわけですが、その光が、ここに雪崩れ込んでいるわけであって、ここにすべてあるわけです。

様々な波動の違いが、この、世界の様々な段階を形成しているだけです。


我は、この世界を、独自の角度で見ている一瞬の泡のような存在ですが、この神の永遠は違います。

これは形を変えて延々と紡がれていく物語なのですね。

この瞬間に、永遠があるのであって、ここが動いているのは、生死の点滅があるからなのです。

実際は生まれてから死ぬまで、また死んでから生まれるまで、何も動いていないのです。


人間が我と思う、この個別体は、身体から生まれたもの。

体があって、それが成長して、自己保存のために機能としてあるわけです。

もちろん大切な要素ですが、その我が苦しみを生むのであれば、苦しみを解放してあげるのもいいかもしれません。


風が吹けば風になり、雲を見れば雲になり、目の前にあるリアル、このリアルの質感が自分に躍り込んでくることが我を滅することになるのです。


阿部敏郎さんに言わせれば、まあ、単に思念の世界にいるか、ここにいるかだけとなるのですが、笑

そのとおりですねw

ラマナマハルシに言わせれば、想念が落ちて、私は肉体ではないと見ることだとなります。

そのとおりです。

グルジェフさんに言わせれば、自己を思い起こすこととなります。

そのとおりですね。

ブッダさんに言わせれば、認識できる対象はすべて私ではないと離れているということになる。


これらの作為を捨てて、ただ、ここで放心することと僕は思います。

ここにある、この、すべてが、無の中に躍り込む、愛の光、愛の質感、愛の流れなのです。