こんばんは!
愛情溢れる、心優しき、皆様。
さっき焼肉&焼うどん食べてお腹いっぱいの豊田です。
どうもブログ更新時間が疎かになってますね……。
さて真我についてですが、これは、想定されないものです。
想定されるように思うのは、実際に、効果があったときに、というか起きたときに、いや、明け渡したときに、心が解放される瞬間の昂揚感が残っていて、ここから推測しているのでしょう。
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心の奥は奥であるからこそ、奥と書いているのであって、認識できるのは表面で出てくる箇所ですよね。
しかし見ていると表象してくる、その場所を、直に捉えられれる。
ここで心の動き、パターンを研究して、開放するようにしてあげると、軽くなる。
この軽くなる感覚は捉えられます!
なぜなら、心の奥が軽くなると、表象意識も軽くなるからなのですね。
ですから直接覗くことはできなくても、その実在を伺うことができるのです。
真我は『すべて』なので、見るとか感じるとかできません。
もともと全員が最初からいる場所なので実現しようがしまいが、同じことです。
実現したら、安心できる。
これだけです、安心、この世界が自分と別ではないと知る。
また世界が、ここだけでなく、夢の世界、時間の世界、人間の世界、神の世界、睡眠の世界等々、様々にあって、そのたったひとつだけを我々が世界と呼んでいることを知る。
また過去生があって、このとき、ああしていたという、なんとなくの感覚が夢等によって起こってくる。
しかし、これらのすべては認識ですよね!
非在非想と認識するのもまた対象を置いているわけです。
神でも仏でも美女でも光の次元でも、根源でも、なんでも同じなんです。
それを言いたかったのですね。
まあ仏陀さんが説いていたのを読んで、気が付いたのですがw
すべては過ぎ去る。
これもまた過ぎ去る!
映画のワンシーンのように、過ぎていく、過ぎていく。
死しては生まれ、生まれては死に永遠に輪廻する苦の世界。
苦しみは、我への執着である。
我への執着は想念の妄想である。
想念が落ちた時に、すべてがある!
ここに最初からある愛である大海が認識される!
神が微笑む!
しかし、これらでさえ、すべて無常なのである。
苦の素であり、無我なのである。
果たして、意識と感覚意外に捉えられるものはあるだろうか。
ないのである。
これらの神秘の働きがあるのだが、あくまで、それをとらえて理解するのは、意識と感覚とを通した現在自己意識なのである!
であるから、死後に何があったとしても、我関せずであるw
我は、もう、本質の我となっており、それは現在意識とはまったく違う魂の次元だからだ。
であるからして不死を説くのは無駄である。
苦しみを取り除くことが、人間に出来る、最大の行為なのだ。
自己の苦しみを取ればいいのである。
これは自己を解放すること、心の傷を解放することである。
しかし、これは真我を実現して、ただ、そこに無為にとどまることでしか実現しない。
無為自然!
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しかし見ていると表象してくる、その場所を、直に捉えられれる。
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この軽くなる感覚は捉えられます!
なぜなら、心の奥が軽くなると、表象意識も軽くなるからなのですね。
ですから直接覗くことはできなくても、その実在を伺うことができるのです。
真我は『すべて』なので、見るとか感じるとかできません。
もともと全員が最初からいる場所なので実現しようがしまいが、同じことです。
実現したら、安心できる。
これだけです、安心、この世界が自分と別ではないと知る。
また世界が、ここだけでなく、夢の世界、時間の世界、人間の世界、神の世界、睡眠の世界等々、様々にあって、そのたったひとつだけを我々が世界と呼んでいることを知る。
また過去生があって、このとき、ああしていたという、なんとなくの感覚が夢等によって起こってくる。
しかし、これらのすべては認識ですよね!
非在非想と認識するのもまた対象を置いているわけです。
神でも仏でも美女でも光の次元でも、根源でも、なんでも同じなんです。
それを言いたかったのですね。
まあ仏陀さんが説いていたのを読んで、気が付いたのですがw
すべては過ぎ去る。
これもまた過ぎ去る!
映画のワンシーンのように、過ぎていく、過ぎていく。
死しては生まれ、生まれては死に永遠に輪廻する苦の世界。
苦しみは、我への執着である。
我への執着は想念の妄想である。
想念が落ちた時に、すべてがある!
ここに最初からある愛である大海が認識される!
神が微笑む!
しかし、これらでさえ、すべて無常なのである。
苦の素であり、無我なのである。
果たして、意識と感覚意外に捉えられるものはあるだろうか。
ないのである。
これらの神秘の働きがあるのだが、あくまで、それをとらえて理解するのは、意識と感覚とを通した現在自己意識なのである!
であるから、死後に何があったとしても、我関せずであるw
我は、もう、本質の我となっており、それは現在意識とはまったく違う魂の次元だからだ。
であるからして不死を説くのは無駄である。
苦しみを取り除くことが、人間に出来る、最大の行為なのだ。
自己の苦しみを取ればいいのである。
これは自己を解放すること、心の傷を解放することである。
しかし、これは真我を実現して、ただ、そこに無為にとどまることでしか実現しない。
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