豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

認識外の者は認識されない

2014-07-23 18:47:29 | 日記
こんばんは!

愛情溢れる、心優しき、皆様。


さっき焼肉&焼うどん食べてお腹いっぱいの豊田です。


どうもブログ更新時間が疎かになってますね……。


さて真我についてですが、これは、想定されないものです。

想定されるように思うのは、実際に、効果があったときに、というか起きたときに、いや、明け渡したときに、心が解放される瞬間の昂揚感が残っていて、ここから推測しているのでしょう。



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心の奥は奥であるからこそ、奥と書いているのであって、認識できるのは表面で出てくる箇所ですよね。

しかし見ていると表象してくる、その場所を、直に捉えられれる。

ここで心の動き、パターンを研究して、開放するようにしてあげると、軽くなる。

この軽くなる感覚は捉えられます!


なぜなら、心の奥が軽くなると、表象意識も軽くなるからなのですね。

ですから直接覗くことはできなくても、その実在を伺うことができるのです。


真我は『すべて』なので、見るとか感じるとかできません。

もともと全員が最初からいる場所なので実現しようがしまいが、同じことです。

実現したら、安心できる。

これだけです、安心、この世界が自分と別ではないと知る。

また世界が、ここだけでなく、夢の世界、時間の世界、人間の世界、神の世界、睡眠の世界等々、様々にあって、そのたったひとつだけを我々が世界と呼んでいることを知る。

また過去生があって、このとき、ああしていたという、なんとなくの感覚が夢等によって起こってくる。


しかし、これらのすべては認識ですよね!

非在非想と認識するのもまた対象を置いているわけです。

神でも仏でも美女でも光の次元でも、根源でも、なんでも同じなんです。


それを言いたかったのですね。

まあ仏陀さんが説いていたのを読んで、気が付いたのですがw

すべては過ぎ去る。

これもまた過ぎ去る!

映画のワンシーンのように、過ぎていく、過ぎていく。

死しては生まれ、生まれては死に永遠に輪廻する苦の世界。

苦しみは、我への執着である。

我への執着は想念の妄想である。

想念が落ちた時に、すべてがある!

ここに最初からある愛である大海が認識される!

神が微笑む!


しかし、これらでさえ、すべて無常なのである。

苦の素であり、無我なのである。

果たして、意識と感覚意外に捉えられるものはあるだろうか。

ないのである。

これらの神秘の働きがあるのだが、あくまで、それをとらえて理解するのは、意識と感覚とを通した現在自己意識なのである!

であるから、死後に何があったとしても、我関せずであるw

我は、もう、本質の我となっており、それは現在意識とはまったく違う魂の次元だからだ。


であるからして不死を説くのは無駄である。

苦しみを取り除くことが、人間に出来る、最大の行為なのだ。

自己の苦しみを取ればいいのである。

これは自己を解放すること、心の傷を解放することである。

しかし、これは真我を実現して、ただ、そこに無為にとどまることでしか実現しない。


無為自然!



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