こんにちは!
全体を創造する神秘なる力である皆様。
嫁様を激怒させてしまった豊田です。
昨日は仕事を終えて帰宅後、ビールを飲みながら『阿含経典』を読むという矛盾した行為を楽しんでいました。
五戒というのが在家者向けにあって、
殺生しない、
窃盗しない、
邪淫をしない、
虚言をしない、
飲酒をしない、
という戒律を守らない人は仏教徒ではありません。
ですので、僕はビールを飲んでいる時点で、仏教徒ではないということになります。
在家であっても、戒律を守らない限りは、仏教徒と称することはできないでしょう。
人気ブログランキングへ←似非仏教徒にエールのクリックを!
しかし本の内容は素晴らしい!
主に色受想行識について書かれた箇所に差し掛かりましたが、やはり「我がものではないと厭い離れる」とあります。
色(肉体)
受(感覚)
想(表象)
行(意志)
識(意識)
が一切であって、これらの一切が無常であり無我である。
一切とは、これらの色受想行識をいうのでしょう。
一切無我であるとは、無常であるから、これは滅する、滅するものは無我である。
滅するというのは、常に永続しないで、終わりが来るという意味で滅するのであるとあります。
つまり、これらの人間の重荷は、すべて移り行くものであり、無常であるがゆえに、苦であり、そうであるからこそ無我、つまり「わがものではない」と説くのです。
これを行じて苦を滅し尽くした人が「阿羅漢」である。
また「無所有の境地にあって、再び、迷いの生存を送らない」人なのだ。
悟りというと仏教の言葉であると思いますが、仏陀の正覚とは『縁起』『四諦』『八正道』となっています。
これがあって、これがある。
苦があって、苦の起こることがあって、苦の滅することがあって、苦の滅する道がある。
苦の滅する道は、正見、正思、正語、正命、正業、正精進、正念、正定である。
この八正道はウィキペディア等で検索してくだされ、苦笑。
えーっとこれらを達成すると「無所有の境地」ある。
それを悟りがあったというのであるからして「所有」がある人は悟ったとは言えないのである。
この対象が以上にある五蘊となる。
これはマハルシが肉体が私だという想念を落とすだけで真我が実現する。
それは実現するものではなく、常にあるのだが、混乱した認識にとっては実現と表現される。
想念が落ちてハートが開いたら、そこに、静粛があるという。
この静粛が至福であり、真我であり、愛であり、涅槃であり、天の王国であり、本来の自己なのだ。
今まで私の行為だと思っていたものを、手放すことだけなのである。
これは、以前の記事にも書いた、放心することこそが、最高の瞑想法なのである。
絶望して、もはや、希望がない状態に陥ることで、自己行為に対する執着が薄れる。
無為自然。
すべては自然に、法則のうちに、巻き起こっているのであり、個人の行為とはないのである。
風吹かば吹け、雨降らば降れ!
と、一休さんが悟った時に言ったそうですが、これが無所有の境地なのです。
要するに、神にトータルを明け渡せば、それでOKなのです。
超簡単でしょう、笑
人気ブログランキングへ←明け渡しこそが究極の方法なのであーる、笑、押してw
全体を創造する神秘なる力である皆様。
嫁様を激怒させてしまった豊田です。
昨日は仕事を終えて帰宅後、ビールを飲みながら『阿含経典』を読むという矛盾した行為を楽しんでいました。
五戒というのが在家者向けにあって、
殺生しない、
窃盗しない、
邪淫をしない、
虚言をしない、
飲酒をしない、
という戒律を守らない人は仏教徒ではありません。
ですので、僕はビールを飲んでいる時点で、仏教徒ではないということになります。
在家であっても、戒律を守らない限りは、仏教徒と称することはできないでしょう。
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主に色受想行識について書かれた箇所に差し掛かりましたが、やはり「我がものではないと厭い離れる」とあります。
色(肉体)
受(感覚)
想(表象)
行(意志)
識(意識)
が一切であって、これらの一切が無常であり無我である。
一切とは、これらの色受想行識をいうのでしょう。
一切無我であるとは、無常であるから、これは滅する、滅するものは無我である。
滅するというのは、常に永続しないで、終わりが来るという意味で滅するのであるとあります。
つまり、これらの人間の重荷は、すべて移り行くものであり、無常であるがゆえに、苦であり、そうであるからこそ無我、つまり「わがものではない」と説くのです。
これを行じて苦を滅し尽くした人が「阿羅漢」である。
また「無所有の境地にあって、再び、迷いの生存を送らない」人なのだ。
悟りというと仏教の言葉であると思いますが、仏陀の正覚とは『縁起』『四諦』『八正道』となっています。
これがあって、これがある。
苦があって、苦の起こることがあって、苦の滅することがあって、苦の滅する道がある。
苦の滅する道は、正見、正思、正語、正命、正業、正精進、正念、正定である。
この八正道はウィキペディア等で検索してくだされ、苦笑。
えーっとこれらを達成すると「無所有の境地」ある。
それを悟りがあったというのであるからして「所有」がある人は悟ったとは言えないのである。
この対象が以上にある五蘊となる。
これはマハルシが肉体が私だという想念を落とすだけで真我が実現する。
それは実現するものではなく、常にあるのだが、混乱した認識にとっては実現と表現される。
想念が落ちてハートが開いたら、そこに、静粛があるという。
この静粛が至福であり、真我であり、愛であり、涅槃であり、天の王国であり、本来の自己なのだ。
今まで私の行為だと思っていたものを、手放すことだけなのである。
これは、以前の記事にも書いた、放心することこそが、最高の瞑想法なのである。
絶望して、もはや、希望がない状態に陥ることで、自己行為に対する執着が薄れる。
無為自然。
すべては自然に、法則のうちに、巻き起こっているのであり、個人の行為とはないのである。
風吹かば吹け、雨降らば降れ!
と、一休さんが悟った時に言ったそうですが、これが無所有の境地なのです。
要するに、神にトータルを明け渡せば、それでOKなのです。
超簡単でしょう、笑
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