おはようございます。
本日は多少、余裕のある更新ができそうです。
いつもの通り母親の家のパソコンを借りています。
チーズトーストを食べながら、もぐもぐと書きだしました。
このごろ、すごいお腹がすく。
父親はトイレから出てきて、立ったままテレビを見つめている。
GPS衛星の特集みたいだ。
時計はジジイッジジジジジジジジと秒針を刻む。
こんな変わった音の時計、よく見つけるよなw
口の中にチーズの味が残っていて、なんとなく満足感がある。
今日は外の光が少し曇って見える。
パソコンの左後ろに置いてある腕時計も秒針の音があるのかトッ、トッとゆっくり時を刻む。
差があるなあ。
母親がキャベツとレタスに虫が付いたと言って不満げにしている。
髭を剃ったのか、顔洗ったのかと父親に訪ねている。
さて、本日は、深夜から眠っていませんorz
またしても昨夜は残業から帰って、即、眠ってしまい、たぶん0時ごろに起きてきたと思う。
そこからボケーっとスマホと読書をしていたが、眠ろうと思っても眠れない。
部屋を真っ暗にして、目を瞑っているのだが、なにか興奮しているのか、体の中から訳の分からない落ち着きのなさが……。
ぐわーっと大の字に成ったり、手足をバタバタさせて、それを解消しようとしても無理。
結局、まあ寝転んではいたが眠れず。
朝方にお風呂入ってから坐禅に移行しました。
40分。
こちらの坐禅も、今日はなぜか全く落ち着きがなく、妄念は凄いは、姿勢は固いし、リラックスもできず。
なんとか粘っていましたが、この、よく分からない心の暴れようは静まりません。
まあ、それでも、一応は変な感覚の認識はあったので、座らないよりはマシなのだろうか。
顔の左側から肩にかけてと、頭、それに腹から胸にかけて、更に、足の指などの感覚が乏しく、また左右前後の体のバランスが悪すぎる。
重症です(笑)
まあ、しばらく続けるとマシにはなると思いますが、忘れちゃうからなあ人間。
感じないと、知らない間に、とても悪くなったりする。
この知らない間にというのは怖いものだ。
で坐禅を終えると読書ですね。
ベルゼバブの孫への話の、今回は、生贄の儀式を減らすために地球に降下していくところ。
すべての呼吸あるものを愛せよ!
ということで、まあ、そうは言っても食べねばならぬわけだが、感謝は必要だよね。
そういう生物があるおかげで、我々は生かされているわけだから。
ここで独立心のある生き物をグルジェフさんは褒めてますねー。
ライオンとか猫の独立心は、生物として優れている、理性の段階が高いというわけだ。
これは、つまり人間も、自立したものと、そうでないものでは、理解の幅が違うことも含まれるかもしれない。
で、読書を終えると母親の家で食事です。
納豆ご飯と味噌汁、鮭瓶、チーズトースト。
食べてから外で煙草一本吸って、更新に来たわけでありますね。
さて、時間が乏しくなりました(笑)
この自分自身を生きるということを、思い出したのですが、ここで、心の迷いが、苦しみとなっている。
その迷いを取るには、止める事であるが、心活動が停止して、この自然がグワッと分離なく自己の中で鳴り響く時。
この時に自然が爽快に駆け巡るわけだが、しかし、この心理の側も、同じ自然である。
つまり命は、ここにあるのだ。
そのときに問題は、この自己を排除して、無視してしまうことである。
この自己の働きと相手の働きが、区別なく、ここで巻き起こっている。
私は、この相手と同等なのだ。
つまり相手を繊細に思いやる時、自己を犠牲にしてはならない。
この普段の自己も、その相手に含まれるのである。
これは、つまり、繊細に思いやるのは、全体としての生命、つまり自我活動をも含めた、これらすべてなのだ。
そのすべてが、諸行無常に「新鮮に」この私の生命を生きている訳である。
であるからして、この自己とは、人間の悪徳である自己中心主義を脱してはいるが、この自己に沸き起こる自然なる想いや感情をも、自然と見て、相手と自己の差別なく、ここに慈悲があると言うことが大切である。
この、自己、つまり私は、私のものではないが、それを抹殺してはならない。
そこも含めての全体、それに対して、確実性が突き抜けた時、つまり、確かなるものであるということから外れた時、この現実が、夢となると共に脱力し慈悲が現れるが、その愛の力は、この、元の自己にも注がれる。
相手と自己は同等でなければならない。
ひとつらなりの、まるっと繋がった、生命の実物。
その完成は、ここにあるだろう。
ってことで仕事行ってきまーす。
また時間がやばい(笑)
本日は多少、余裕のある更新ができそうです。
いつもの通り母親の家のパソコンを借りています。
チーズトーストを食べながら、もぐもぐと書きだしました。
このごろ、すごいお腹がすく。
父親はトイレから出てきて、立ったままテレビを見つめている。
GPS衛星の特集みたいだ。
時計はジジイッジジジジジジジジと秒針を刻む。
こんな変わった音の時計、よく見つけるよなw
口の中にチーズの味が残っていて、なんとなく満足感がある。
今日は外の光が少し曇って見える。
パソコンの左後ろに置いてある腕時計も秒針の音があるのかトッ、トッとゆっくり時を刻む。
差があるなあ。
母親がキャベツとレタスに虫が付いたと言って不満げにしている。
髭を剃ったのか、顔洗ったのかと父親に訪ねている。
さて、本日は、深夜から眠っていませんorz
またしても昨夜は残業から帰って、即、眠ってしまい、たぶん0時ごろに起きてきたと思う。
そこからボケーっとスマホと読書をしていたが、眠ろうと思っても眠れない。
部屋を真っ暗にして、目を瞑っているのだが、なにか興奮しているのか、体の中から訳の分からない落ち着きのなさが……。
ぐわーっと大の字に成ったり、手足をバタバタさせて、それを解消しようとしても無理。
結局、まあ寝転んではいたが眠れず。
朝方にお風呂入ってから坐禅に移行しました。
40分。
こちらの坐禅も、今日はなぜか全く落ち着きがなく、妄念は凄いは、姿勢は固いし、リラックスもできず。
なんとか粘っていましたが、この、よく分からない心の暴れようは静まりません。
まあ、それでも、一応は変な感覚の認識はあったので、座らないよりはマシなのだろうか。
顔の左側から肩にかけてと、頭、それに腹から胸にかけて、更に、足の指などの感覚が乏しく、また左右前後の体のバランスが悪すぎる。
重症です(笑)
まあ、しばらく続けるとマシにはなると思いますが、忘れちゃうからなあ人間。
感じないと、知らない間に、とても悪くなったりする。
この知らない間にというのは怖いものだ。
で坐禅を終えると読書ですね。
ベルゼバブの孫への話の、今回は、生贄の儀式を減らすために地球に降下していくところ。
すべての呼吸あるものを愛せよ!
ということで、まあ、そうは言っても食べねばならぬわけだが、感謝は必要だよね。
そういう生物があるおかげで、我々は生かされているわけだから。
ここで独立心のある生き物をグルジェフさんは褒めてますねー。
ライオンとか猫の独立心は、生物として優れている、理性の段階が高いというわけだ。
これは、つまり人間も、自立したものと、そうでないものでは、理解の幅が違うことも含まれるかもしれない。
で、読書を終えると母親の家で食事です。
納豆ご飯と味噌汁、鮭瓶、チーズトースト。
食べてから外で煙草一本吸って、更新に来たわけでありますね。
さて、時間が乏しくなりました(笑)
この自分自身を生きるということを、思い出したのですが、ここで、心の迷いが、苦しみとなっている。
その迷いを取るには、止める事であるが、心活動が停止して、この自然がグワッと分離なく自己の中で鳴り響く時。
この時に自然が爽快に駆け巡るわけだが、しかし、この心理の側も、同じ自然である。
つまり命は、ここにあるのだ。
そのときに問題は、この自己を排除して、無視してしまうことである。
この自己の働きと相手の働きが、区別なく、ここで巻き起こっている。
私は、この相手と同等なのだ。
つまり相手を繊細に思いやる時、自己を犠牲にしてはならない。
この普段の自己も、その相手に含まれるのである。
これは、つまり、繊細に思いやるのは、全体としての生命、つまり自我活動をも含めた、これらすべてなのだ。
そのすべてが、諸行無常に「新鮮に」この私の生命を生きている訳である。
であるからして、この自己とは、人間の悪徳である自己中心主義を脱してはいるが、この自己に沸き起こる自然なる想いや感情をも、自然と見て、相手と自己の差別なく、ここに慈悲があると言うことが大切である。
この、自己、つまり私は、私のものではないが、それを抹殺してはならない。
そこも含めての全体、それに対して、確実性が突き抜けた時、つまり、確かなるものであるということから外れた時、この現実が、夢となると共に脱力し慈悲が現れるが、その愛の力は、この、元の自己にも注がれる。
相手と自己は同等でなければならない。
ひとつらなりの、まるっと繋がった、生命の実物。
その完成は、ここにあるだろう。
ってことで仕事行ってきまーす。
また時間がやばい(笑)