goo blog サービス終了のお知らせ 

豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

何もせずともそこにいる

2017-06-06 18:41:04 | 日記
こんばんは。

本日はかなり出勤時間が迫っているので短くなるかもしれませんが、更新します。

母親の家で焦り気味にキーボードを叩いている。

テレビで「シートベルト」の重要性を語る声がしている。

交通事故は悲惨なのにルールを守る人は少なかったりすると思うが「なんとなく」っていうのがあるだろうな。

みんなしてるとかね。

母親が「あ、味噌汁、真大、あんに」と言っている。

もはや飲んでいる時間は無い。

「あんた車のキーは?」と不機嫌そうにつぶやく。

この不平不満とヒステリック傾向は、もう30年以上前から同じだろうと想像するw

今日は時計の音がしている。

ジジジジジとトンッ、トンッ、トンッ。

体が疲れていてだるさを感じる。

喉に痰が絡んでいるような感じで調子が悪い。

光は夕方らしいが、寂し気で暗く感じる。

雄大な夕陽の時と、この薄暗い時とあるが、なにか灰色を感じるのは好きではない。


さて本日は16時半ごろにО先輩の電話で起きました。

手伝ってほしいことがあるのですが、僕は、仕事が被っているので難しそうです。

とりあえず電話を終えて「眠りすぎた」と考えながら煙草を吸い、スマホをのぞく。

それから坐禅40分です。

今日はちょっと精神的に安定していなかったのですが、落ち着けようとがんばっていたので、マシでした。

いつもの延々と続く他者への批判や、心配事への対応はあとでいっぱいさせてあげるからと、頭さんに語るのであります。

それでまあ、粘っていたので、まあまあでしたね。

このときに、リラックスできないのであれば、普段は、もっと難しい。

それが、なぜか、できていると錯覚するのだから人間は怖い生き物である。

自分の小指が負傷していても、まったく気が付かず、どこでしたかすら分からない。

そういう中でも「注意深く自己を思い起こしている」と頭は思い込んでいるというザマである(笑)

昨日の僕の実話ですw


ほんで、読書ですね。

ベルゼバブの孫への話ですが、バビロニアの知識人の話から遂にアシアタシーマッシュの登場までやってきました。

非常に聖なる個人。

バビロンで魂があるかないかの議論が絶頂に達している話。

一方は『二元論』であり、魂はあり死後は形態が変わるがある。

一方は『無神論』であり、魂などはなく「ひとつの法則」があるだけである。


これは現代でも宗教間の対立で鋭く現れている問題ですね。

まあ天国と地獄があり、その生前の行いにしたがって、神がしかるべき場所へ送るみたいなのと、そんなものはなく因果があるのみっての?

これは、まあグルジェフさんなら「魂は完成する可能性が与えられているが、そうでないものは無に帰すだろう」とか言いそうだな。


しかし、この辺りの理論に空想をたくましくした結果、数々の真理が生まれ、その『真理』なるものがバビロンを永久に破壊するのであった。

ここでの要点は、人間の理性は、どんなものでも真理と納得してしまうと言うことである。

トウモロコシが世界だと言われても証明されうるwwwwwwww


で、そのあとで母親の家で食事を済ませ、ブログ更新しているのでした。

山芋とマグロの丼、めちゃうまかった!



て、ことで、もう1分くらいしか猶予がありませんので、いつもの宗教トークは一言でw

その認知の先にあるのではなく、認知される以前に在るもの、なにもせずとも、そこにいる、そこが、人間の本性である。


ほいでわー、また!



ありとあらゆるものは水のようなもの

2017-06-05 18:20:16 | 日記
こんばんは。

本日も無事ブログ更新ができそうです。

いつもどおり時間は限られてますが、まあ、出来る範囲で書いていきます。

母親の家のパソコンの前に座って打っています。

丸椅子に座っている。

母親は台所で洗い物をしながらニュースを見ていて「なんなん」と言っている。

豊橋鉄道が3時間以上遅れたらしい。

非常ボタンのガラスが割れていたらしく「カラスか! カラスか!」と喋っている。

父親は「もう寝るぞ、ん?」と言い、立ちながらテレビを見ている。

窓が開いていて、風が入ってくる。

時計の音は、周りが騒々しいせいで、あまり聞こえてこない。

雑多なものがパソコンの周りに置かれている。

父親が歩行補助器を押しながら後ろを歩いていき扉を開き「おやすみ」

出来事の起こる前に注意を向けて見て、そのシンとした味わいを感じてみる。

なんとも言葉に出来ない深みを感じている。


さて本日は14時半ごろに起きてきました。

仕事が始まるということで、少しテンションが下がっていました。

スマホで気になるページを色々物色。

それからモンスターストライクをしたり煙草吸ってボケーっとしたりしてました。

15時過ぎからは坐禅40分。

今日は落ち着くことを念頭に、座る前から丁寧にやってましたので、なかなか深くなった。

ゆっくり確実に、焦らずに、気持ちを落ち着け、体を緩め、リラクゼーションへと誘われていく。

時間の経過が「あっ」という間に感じる。

胸が張れず、すぼんでいるのが、少しずつ開いてくるのも分かる。

なんだから温かな、包み込む、何かに触れているように、緊張や不安、焦りを手放していく。

魂のお風呂(笑)

そのようにして生きている実物、この感触に、ネガティブエモーションを流していくのだ。


で、座禅を終えると読書ですね。

今回はエジプトへの訪問と、バビロンの錬金術の話の序盤。

スフィンクスの像。

胴は雄牛であり、足はライオン、翼はワシであり、頭は乙女の乳房である。

これを常に思い起こす。

雄牛とは「たゆまぬ努力」の象徴であり、ライオンは「勇気と信頼」の徴である。

またワシの翼は「日常に直に必要でないことでも生死に対する深い思いを常に起こしておく」

乙女の乳房は、何をするにしても常に『愛』がその行動を支配しなくてはならない。

あ、琥珀というのもありました。

その乳房が琥珀でとめられているのは『その愛はいつも公平無私でなければならない』ことの象徴である。

「自己愛」「自尊心」「虚栄心」からくるものではなく。


錬金術は面白そうなのでウィキペディアで見たけど、現代科学では『金』は作れることが証明されているそうです。

水銀に中性子を当てて核破壊? だったかな。

それをすれば微量の金ができるらしいが、経済的には大赤字らしいwwwwwww

で、昔の錬金術師たちも、分かってて、硫黄と水銀と塩を使って実験をしていたようです。

燃える炎と液体である銀色に塩(つまり苦悩)が混ぜ合わされることにより、この肯定と否定の融合、つまり世界と自己の融合が起こり、それが水銀、つまり否定性を一段高い段階へと導くのかもしれない。

ま、それは妄想ですがw


で、読書を終えてから母親の家で食事です。

麦飯と鮭とサラダと「さやえんどう」だったかな。

ああ、豆腐2個食べて、更に、チーズもいただきました。

鮭瓶で、ご飯お替りもしたなwwwww

いろいろ世界のきな臭いニュースを見ていました。

人類の革命やら、相互破壊の展開しているニュース。

遥かな古代から、この競争が続いていて、いつまでたっても収まる気配はないようだ。


それからブログ更新をしているのでした。


んーと、今日は何かあるでしょうか。

この本来の面目というのか、悟りの内容と言うのはですね。

目には見えないし、感覚で感じることもできませんが、知ることはできます。

まあ昨日、分からないのが悟りと書いて矛盾してるかもしれませんが……。

その分からないところが、分からないままにされたときに、この神羅万象の起点である自己そのものの、本来の場、つまり不生不滅のものが現れるのですね。

それは、なんとも言い難いものであるのですが、まあ、なんだろう「透明なガラス」のようなものです。

その透明なガラスはすべての境にあるのですが、そのガラスの中に全てがあるのです。

ところが、そのガラス自体は存在していないがために、なくなることはなく、そのガラスから、常に、物事の神羅万象が、内面的にしろ外面的にしろ様々に発光して、動いていくのであります。

しかし、それは、自己の意志とは無関係に、まあ、花が自然に成長するように、無意識的に起っているのです。

この働きの根本に散らばった時に、この働きは、すべて表現であると知ります。

つまりガラスの上に描かれた模様のようなものが、種々様々あるのですね。

そして、その生命の混沌、つまりありとあらゆるものは、ひとつのまあ、水のようなものであると知るのです。


それで、その水のようなものが苦しみも快楽も、その一部として現したりしているのですが、それが、この透明ガラスが起動したときに、この透明の中に吸収され、また吐き出されしているのです。


それこそ、すべてが起こる前にある「悟り」の地点で在ります。

ですから、そこは知ることができないので、正確に言えば「わしゃ知らん」

「悟りなんぞない」

ということが、よりきちんとして誠実な表明なのです。


しかしながら、この豊田、つまりダメ人間ダメマと、その昔呼ばれた男は、正統なる僧でもなければ、立派な社会人でもなく、お金もなく地位もなく、それでいて『力』もないので、この「正統なる悟り」に対して『個人の受けた印象』という点から語ることも許される。

許されているという特別に、素晴らしい環境にあるのであります。


つまり、なんの社会的規制も、集団の力学も、宗教的な理解を個人的に語ると言う点において、影響を与えられないようなところに、たまたま私という理解者が置かれていると言う素晴らしく、楽し気なところにいるのです。


というわけで、ちょっと極端な表現をとってみました。

この透明な〇は、自身の体よりも五感よりも近くにあって、今まで一度も離れたこともなく、これからも永遠に、そこに住するであろう、不滅の、安心なのです。

それを見れば、動の中の静、静の中の動が、ひとつであることがわかるのです。


つまり、違いがあってそれでいい。

その、それぞれの様々な、表現が違う中での統一。

それが一番重要なことなのかもしれません。


というわけで、今日は、表現が曖昧すぎましたが、この辺りで!

またねーー♪

未知に戻ることが悟りです

2017-06-04 22:06:36 | 日記
こんばんは。

本日はだらだらしていて、この時間にブログ更新です。

母親の家のPCを借りて書いています。

時計がいつものようにハーモニーを奏でていますw

ジジジジジとトンッ、トンッ、トンッ。

母親が台所コップか何かをカチカチして、冷蔵庫を開けたりしてる音がする。

水道の流れる音。

外は真っ暗で、外灯に照らされて微かに浮かび上がっている壁の雰囲気が気色悪く思える。

牛乳を飲み、さっぱりした感覚がする。

このごろ、よく牛乳を飲むようになった。


で、本日は12時ごろに起きてきたのですが、それからあとの時間の感覚がほとんどありません(笑)

YouTubeで三国志の動画を見ていたのは、確か、昨夜だったか。

起きてからもスマホでゲームしたり、だらだらとしていました。

何時だったのか、もはや思い出せませんが、まだ陽があるうちに坐禅40分しました。


昨日よりはマシw

この集中力が働くかどうかに、サッパリすっきり爽快感の違いがある気がします。

まあ、ほんとうの禅僧に言わせると、それは湿度と温度の問題だとなるみたいですがw


それから読書ですね。

ここでも集中力が続かず、散漫。

猿の問題、つまり、猿が我々の子孫なのか、それとも我々が猿の子孫なのかを語っている章だったのですが、現代の科学ではどうなっているのかが気になりすぎて、伝家の宝刀ウィキペディアwwwww

今でも進化論に対しては賛否両論で決着ついてなさそうですねー。

グルジェフさんの扱う問題は、発想にないことが多いから、おもしろい。


で、読書を終えてからも完全にだらけモード。

姪っ子ちゃんたちと話したり、コンビニへ行ったり、食事を母親の家でしたりしました。

が、基本、部屋でスマホかな。

老子の動画を少し見ていましたが途中で寝てしまった。

あ、

思い出した!

今朝も寝ている時、YouTube点けっぱなしだったので『般若心経』に関する動画が、延々と流れていたのだったw


夜になって起きてくるが、変な夢見た。

なんか街で昔の友達と仕事に遅れると、いろいろやってるんだけど、それが、まあ映画みたいに凄い展開にwwww

そこまでしてまで仕事に遅刻するのが深刻なことなのかと(笑)

明らかに、そこで展開されている大ドラマの方が、生命の危機なのに、ずっと、仕事の時間が大事になっていると言う恐怖。

目が覚めて、マジよかったあと思いました。


で、母親の家で食事して、家で煙草ってからブログ更新に来ていたのでした。


さてさて宗教ですが、なにか思い浮かぶかな。

この神羅万象には様々なものがあります。

時計もあれば人間もあり、テープもあれば、星々もあり、空気があれば、野菜もありと、もう人間ではとても数えきれない存在があり、その存在それぞれに、それぞれの宇宙があり、想像を絶する巨大スペクタクルが、この今、ここ、現在に、巻き起こっていますね。

ところが、この、世界を、とてもつまならい退屈な毎日だと現代人は考えているわけですw

というか僕も、よくそうなります。


これを本来の未知に戻すことが、悟りです。

つまり、わしゃ知らんと。

ほんとに、なんでここにいるのかも、なにするのかも、何が起こるのかも、自分がだれかも、なにもわっかりませーんw

というwwwwwww

もちろん名前や職業や住所は分かりますよ(笑)


しかし、この未知の世界で、心があり世界があり一円の意識があり、その内容物があり、その内容物を照らす天の光があり、それに照らし出される心が反射し、この世界の宇宙からミクロ素粒子まで、すべてを含む、人間を形成して、等々となってくると訳が分からなくなる。


その未知の活動が、いまここで、その未知(無)から現れては消えているのだ。

それは、この全体が呼吸しているようなものである。

その全体の呼吸の一部分だけ、つまり、己の肉体と人格だけをとりあげて、これを『私』と名付けているわけだが、その私は、なんと表現の一部なのである。

ゆえば、本来の私と仮に未知を名付けるとすれば、その私から生まれている、全体の極々小さなミクロ生物だけを私だと考え、それが死ねば私が死ぬと、こう考えているという訳だ。

もちろん、それが消えれば、肉体や人格が消えるのはそうだろう。

いや、肉体と人格が消えても魂が残るという話もあるが、仏教的には、これは外道の教えである。

体と心と離れて在るわけではなく、一体。

その一体の私が消えた時に、命は、その未知から、また変化していくことだろう。

草に成ったり、雲になって、雨となって降り注いだり、それが変転して、何になったかも、もはや判別できないほどに全体に吸収され、吐き出されている。

それが、この、生命と光としての私である。

だからこそ『命あるものをたいせつに』と宗教で表現する訳である。


この全体というのは、いまこの認知にある、それひとつ、ひとつが全体なのであり、イメージの中にあるわけではない。

しかし、この触れ合いの中には無限がある。

この無限の光、無限の命の働き、それらに、包摂されたときに、私の個人的な悩み、つまり迷いが晴れるのである。

それは自己を明らめる事であり、天の王国の扉を開くことでもある。

天の王国は円を描いて、私に降り注ぎ、その縁の中は光に満ち、そして、そのそれらの諸活動の生まれる前、つまり受容体としての私は、この世界に存在していないことが分かるのである。

しかし、この世界が確実ではなく、明滅するものであるにも拘わらず、この受容体、としての私、つまり仏は、無いにも関わらず有る、有るにも関わらずない、その空白の認知以前として、在るのである。

それが元の木阿弥であり、人間の生まれる前であり、本来の面目であり、知らんとこなのであるwwwww


つまり『知らぬが仏』とは仏教史史上、最強の言葉なのだ。

端的に悟りを表現しているwwwww


まあ、だから何??

と言われたら、まあ、困るわけだけど……。


日々の苦しみを取るには、この自己の傾向性を、智慧の光の下で溶かすことが必要であり、その地点に導くのが宗教である。

地点に導かれてから、修行ができるようになる。

だから「始めなき悟り、終わりなき修行」なのかもしれない。

ん?

いや、ここのところは、いまいちまだ分かってないかw


この自己のものではない光に、自己の物である感情を開放させ、溶かしていく、緩めていく、そのことが苦を除く。


んでは、今日は、このへんでー。

またね!

聖なるものとは、これだ!

2017-06-04 00:44:42 | 日記
深夜にこんばんは!

昨日は更新できなかったので、この時間にスマホから書いてます。

さっき母親の家へ行ったら妹と姪っ子たちが帰ってきて寝てたので、パソコンは使えず。

いまはツナ缶を食べながらボチボチ打ってます。

さて、昨日は昼の11時ごろに一旦目覚めましたが、また、そこから爆睡して、たぶん夜の7時ごろまで眠っていました。

前日に遊びすぎたのが原因。

まあ楽しかったからいいんだけど、生活のリズムは狂ってしまうね。

ここで今までなら無理してやってたけど、無理はせずに気力がでたら坐禅することにしてます。

で、お風呂入ってから40分坐りました。

落ち着きのなさが半端ない。

坐っていても様々なするべきことや、周りの反応に気が散ってしまい、集中できず。

それでも、なんとか坐ってましたが、酷かったなー。

連想の流れは常にあって、そこに引っ張られると現在の触れ合いへの注意がなくなる。


坐禅を終えてから、連絡があった人たちにLINEで返信したり、電話したりしてました。

ここでも社会との繋がりがある。

社会と言っても、特別なこともなく、住んでいる街や、自然環境、仕事の繋がりに、趣味や、関心の元での繋がり、まあ、大きく出れば、地球や宇宙との関係性なども、それである。

それから、読書ですね。

またまた落ち着きがありませんw

ツイキャスのたまに聴いている人の配信があったら聞いてみたり、モンストをしてみたり、ひとつに集中できてない病。

これ、結構前からの僕の傾向かもしれない。

いろんなものに触れているのだが、飽きるのが早くて深くまで知ることがない。

なんとか読書を終えてから、モンストというゲームを楽しんでから、母親の家へ。

パソコン使えなかったから冷蔵庫を探ってサラダだけもらい、ツナ缶もって家へ戻って更新していたのでした。

気分とか気力というものが、日常の生活に及ぼす影響は、とてつもなく大きい気がする。

この潜在した意識、つまり感情の中に、様々な印象が残って、それが、抱えた錘のようになって、背中と肩と首の後ろで、気力をひっぱる。

これを集中して解放していく時間をもたないと、大きくエネルギーが減少して、やる気の低下になってしまう。

しかし、疲れ切っているときに、無理に改善させようと動くと効果が薄いので、朝起きた時とか、充分に体が回復してきた時に、この感情の整理を行うことがいいかもしれない。

坐禅して我を忘れ、自然と繋がるなかに、リラックスしていく。

新緑のような色や、新鮮な空気に、感覚が、触れているときに感じるような、解放感覚。

その中で、ドロドロと蠢いている、闇の心に、光を射していくことが、どうしても必要だ。

この光は天空から、全体に波及して、常に照らす、意識の光である。

それは、光を光らせ闇を照らし出し、感情の錘を溶かしていく、計り知れない何かである。

この光と命の純粋性が、常に、この生活に届いているのだが、想念が、日常の必要な作業へもっていかれていると、気がつかない。

そこで、日々、汗を流すお風呂のように、この感情の不調和を流していかなくてはならない。

頭は様々な関心でいっぱいになっているから、言葉や想念を止め、身体は動作させず、感覚を解放させていくことで、リアルと繋がる。

この自然との一体感の中に、自己も他者も、同時に溶けているとき、安心が現れる。

この言葉にはできない安心の元は、己の感情の外にあるが、常に、そこで全体を受容している。

聖なるものとは、これだ。

この時に弊害になっているのが、ネガティヴエモーションである。

相手の様々な表現に対する可否の判断やら、自己の行動に対する批判。

そのようなものを受け止めることが、困難である時に、否定性が現れる。

様々な違いがあって、それでも、ひとつであるときに、自己からの解放はある。

それは自己、そのものの、消滅ではなく、自己も、連なりの一部になることである。

そこでは、全てが、あるにも関わらず、明滅するそれぞれの変化は、なにもないところに吸収され、吐き出され、そのような、全体の躍動が、種々様々な印象を生み出し続けている。

この、現在のありようが、確実ではなく、確かにあるのだが、あった時には、もうない、その、リズムに溶けた時、任せた時に、自我の消滅があるのである。

しかし、それは心理的なものであり、この体や心が消えるわけではないのである。

限定されて、自己とされていた、それらが森羅万象と区別されなくなっている。

つまり、相手も自己もありながら、ひとつ。

違いがある中での非二元。

これが本来の宗教性であり、光とひとつになることなのである。

行、つまり向かう意思、自己の欲求の壊滅が、この接点に繋がるまでが、地獄なのだ。

しかし、真理は嘘ではないからこそ、真理であり、あらゆる道は、この自己の解放へと続いているに違いないだろう。

生かされてある船に乗り込んだ時、万物は破壊から逃れることが可能となる。

というわけで、今日は、この辺で。

なんか硬いな今日のはww

もっとリラックスせんとだねー!

ホイじゃあ、また。

知り得ないものは感じられる

2017-06-02 07:00:19 | 日記
おはようございます。

本日も無事ブログ更新できそうです。

今日も同じように母親の家のパソコンを使用しています。

東芝のダイナブックなのですが、東芝さんが大変なことになっているので微妙な感覚になりますw

まさかの家電業界の大没落が、ここまで深刻になるとは思いもしませんでした。

いつものようにテレビからNHKのニュースが流れている。

トランプ大統領がパリ協定から脱退する決定したと言うお話。

地球温暖化の問題が深刻になっているようだ。

大自然を大切にして山々に神を見た大和の人々のこころは、いつの間にか忘れてしまわれたのだろう。

母親の歩く音がキュッキュとして、皿と調理器具の当たる音がカチカチしている。

時計は今日もハーモニーを奏でており、ひとつがジジジジジジジジジジと時計らしくない刻みを発し、もうひとつが、チッ、チッとゆったりと流れる。

少し肌寒く感じる。


というわけで本日は5時頃に目覚めました。

お風呂に入れてなかったので起きてすぐに入る。

ふう、疲れているw

なかなか年齢のせいなのか疲れがたまるようになっている。

職場の仕事が、違うとこに代って、慣れていないのもあるかもしれない。

バスロマン使っているけど、森林の香りとか透明なグリーンは人の心を新鮮にさせる効果がある。

このような、小さな喜びはストレスの緩和に非常に大切である。


お風呂を出て、すぐに坐禅40分です。

相変わらずの頭の感覚の欠如、顔の左から肩首にかけての麻痺、足の指、そして腹から胸にかけての姿勢の傾斜と詰まりがある。

この、改善は非常にゆっくりとしか、進まず、完全に硬さがとれ、精気が通るのはかなりの集中を持続しないといけない。

しかも坐らないと気付かない。

何かをしている時は注意が散漫になっているので、悪いところに気付かず、そのままにして良いと思ってしまうのだ。

言葉、想念、感覚、動作の4つは、すべて関連していて、ひとつが悪ければ、全体に影響する。


で、座禅を終えると読書ですね。

ゲオルギー・イワーノヴィッチさんのベルゼバブの孫への話という渾身の一作ww

この人の本は、とても好きだ。

若いころから、ずっと親しんでいるが、なんというか純朴さのようなものが素朴さのようなものがある。

その感じられる『質』

思念的な世界で理解するものではなく、深い感情で受け取るものであろう。

今回は宗教を利用して、生物の生贄の習慣を根絶していく話の第2文明版。

天国と地獄の話があり、その天国へ行くかどうかを判断しているのは、動物であると広めた。

そのことで人々が、今度は牛やロバに平伏しだすという、皮肉な笑い。

まあしかし結果的に、人間の悪行が、沈静化していくことで調和が世界にもどってくる。

このように実質の効果が問題であり、その人々が理解していなくても習慣的によいことを自然とできるように宗教が働いているのかもしれない。

わからないけどねw

生活の質の向上に、我知らずして貢献している可能性はあるだろう。

初詣やお盆の墓参りも、なにか、計り知れないものに触れる機会ではある。


で、ブログの更新へと来たのでした。

さて、ここのところは慈悲とかハートの問題に展開している僕の精神世界探求でありますが、たぶんここで最終のはずw

ここでちょっと今日は、変なことを書いてしまうかもしれませんが慈悲についてです。

慈悲心というものは、自分の感情のことではありません。

この慈悲は、あくまで『仏の』慈悲なのであり、自己の本質(潜在した意識)のなかに、この仏との繋がりができることなのです。

それは自己の背後にあり、この世界が実質、仮の物であり、無常であり無我であるとの理解が生まれた時、自己のリラクゼーションと共に現れる、心底安心する、その包み込む慈愛のパワーです。

だから普段の意識の中で善悪を判断して後悔したり、自尊心を満足させたりしかできない、普段の感情生活と、繋がりはしますが、それそのものではないのであります。

自己の慈悲など所詮は知れています。

人間は収入や権威や暴力には、圧倒的に弱く、それらの損得勘定の中で自尊心や自己愛を守るために、感情を働かせて、恐怖する。

そして、恐怖から怒りが湧き、怒りから自己破壊が起き、普段ならしないようなバカげた暴力を使うのである。

しかし、逆に、こんどは、このことに深く深く罪悪感をいだき、この凡夫である私は、なんと情けないだろうと、方向性を変えて、相手ではなく自己に対する非情なる暴力的行為へと走る。


ここでいくら慈悲といってみてみ、己のコントロールする慈悲は、思いやりは、繊細さは限界があるのである。

なぜなら、それは常に忍耐、葛藤の世界へ落ち込むからだ。

相手を立てれば自己が死に、自己を立てれば相手が死ぬ。

そのようなものを超越させるのは、この絶対的生命の実物を包み込む、仏の慈悲、生命の奇蹟、愛の力、そのようなものなのである。


この慈悲は、心を清浄にすることで現れるが、清浄に執着するものを不浄という、この言葉を知っておかなければならない。

つまり心清浄とは、抱えているものが奪われた状態なのである。


これらは日常の中で普通に、現れていることで、どこか思念的な理解の中にあるものではない。

いつでも、どこでも、ここでも、あそこでも、常に心の鏡の内容物が、その心から現れ出てくるのである。

これを円鏡の世界、つまり熱も光もない太陽と言うのだ。


この円鏡の世界が真っ白な光に包まれているわけだが、それは、先ほどの潜在意識(本質)の中に現れる『仏の』慈悲による。


つまり、この慈悲、もしくは良心といわれるものは、罪悪感とは全く、完璧に、絶対に関係が無い。

道徳とも考えとも社会常識とも関係が無い。

もっともっと広大な、計り知れない、何か。

人間の知り得ないが、感じ取ることはできる、それなのです。


そして、ここで、心が、任せきりになるとき、つまり自分を手放すときに、相手と自己をふたつ、同時に、連なってみることも可能となるかもしれない。

そこが、宗教の要だろう。

結局、誰かが朝「おはよう」といい、また相手が「おはよう」と挨拶する、その時の境、つまり二つから、一つが連なって、まるっといったいの生命の実物を生き、そこにいることだけなのが、救いになる。

それは想念の世界にはない、事実の、この日常の平凡な触れ合いの中にある。

悟りには、なにひとつ、特別なものなどは、ないはずなのである。


てことで、昨日は、道が渋滞していて、数分遅刻してしまったので今日は早めに出社しまう(汗

まったねー!