木村真理子の文学 『みだれ髪』好きな人のページ

与謝野晶子の『みだれ髪』に関連した詩歌を紹介し、現代語訳の詩歌に再生。 また、そこからイメ-ジされた歌に解説を加えます。

『和泉式部日記』

2012-09-21 11:40:32 | 古典

 

                  一夜(ひとよ)見(み)し月ぞと思へばながむれど心もゆかず目(め)はそらにして

 

 『和泉式部日記』と言えば、この歌が浮かびますが、私のお気に入りは以下の部分です。

 ―――    

  (九月二十日すぎ)

    〔式〕 秋のうちはくちはてぬべしことは(わ)りのしぐれに誰(たれ)が袖はからまし

 嘆(なげ)かしとおもへど知(し)る人もなし。 草の色さへ見(み)しにもあらずなりゆけば、 しぐれんほどの久(ひさ)しさもまだきにおぼゆ               る、 〔草が〕風に心ぐるしげにうちなびきたるには、 たゞ今(いま)も消(き)えぬべき露のわが身ぞあやう(ふ)く、 草葉につけてかなしきまゝに、 おくへも入(い)らでやがて端(はし)にふしたれば、 つゆねらるべくもあらず、 人はみなうちとけたるねたるに、 そのことと思ひわくべきにあらねば、 つく ヾ と目(め)をのみさまして、 なごりなううらめしう思ひふしたるほどに、 雁(かり)のはつかにうち鳴(な)きたる。  人はかくしもや思はざるらん、 いみじうたへがたき心ちして

    〔式〕 まどろまであはれいく夜(よ)になりぬらんたゞ雁(かり)がねを聞(き)くわざにして

 とのみして明(あ)かさんよりはとて、 つま戸をおし開(あ)けたれば、 おほ空に西(にし)へかたぶきたる月のかげ遠(とを)くすみわたりて見(み)ゆるに、 霧(き)りたる空(そら)のけしき、 かねのこゑ ・ 鳥(とり)のね一(ひと)つにひゞきあひて、 さらに、 すぎにしかた ・ いま行末の事ども、 かゝるお(を)りはあらじと、 袖(そで)のしづくさへあはれにめづらかなり

    〔式〕 我ならぬ人もさぞ見(み)んなが月の有明(ありあけ)の月にしかじあはれは

 たゞ今(いま)、 この門(かど)をうちたゝかする人あらん、 いかにおぼえなん、 いでや誰(たれ)かかくて明(あ)かす人あらむ  ―――

 

 ・・・・ 有明の月が浮かぶ光景と式部の心情がマッチして、 現代人の私達でさえ感動する文章です。  さて本題の『みだれ髪』との関係に入ります  ・・・・

 

 

            『和泉式部日記』と『みだれ髪』の対比

 (四月十餘日)

 夢(ゆめ)よりもはかなき世のなかを嘆(なげ)きわびつゝ明(あ)かし暮(くら)すほどに、 四月十餘日(よひ)にもなりぬれば、 木のした暗(くら)がりもてゆく。 築地(ついひじ)のうへの草あをやかなるも、 人はことに目(め)もとゞめぬを、 あはれとながむるほどに、 近(ちか)き透垣(すいがい)のもとに人のけはひすれば、 誰(たれ)ならんとおもふほどに、 故(こ)宮にさぶらひし小舎人童(ことねりわらは)なりけり。 あはれにもののおぼゆるほどに来(き)たれば、 〔式〕「などか久(ひさ)しく見(み)えざりつる。 遠(とを(ほ))ざかる昔(むかし)のなごりにも思ふを」 など言(い)はすれば、 〔童〕「そのこととさぶらはでは馴(な)れ 〃 しきさまにやとつゝましう候(さぶら)(ふ)うちに、日ごろは山寺(でら)にまかり歩(あり)きてなん、 いとたよりなくつれ ヾ に思(ひ)たまふ(う)らるれば、 〔故宮の〕 御かはりにも見(み)たてまつらんとてなん師(そち)の宮に参りてさぶらふ」 とかたる。 〔式〕「いとよきことにこそあなれ。 その宮(みや)はいとあてにけゝしうおはしますなるは。 昔(むかし)のやうにはえしもあらじ」 など言(い)へば、 〔童〕「しかおはしませどいとけ近(ぢか)くおはしまして、 〔宮〕「つねに参まい(ゐ)るや」 と問(と)はせおはしまして、 〔童〕「参(まい)り侍(り)」と申(し)候(さぶら)(ひ)つれば、 〔宮〕「これもて参(まい(ゐ))りて、 いかゞ見(み)給(ふ)とて〔式に〕奉(たて)まつらせよ」 とのたまはせつる」 とて、橘(たちばな)の花を取(と)り出(い)でたれば、 〔式〕「昔(むかし)の人の」 と言(い)はれて。 〔童〕「さらば参りなん。 いかゞ〔宮に〕聞(きこ)えさすべき」と言(い)へば、 ことばにて聞(きこ)えさせんもかたはらいたくて、 〔式〕「なにかは、 〔宮は〕あだ 〃 しくもまだ聞(きこ)え給はぬを、 はかなきことをもと思(ひ)て
    〔式〕 かほ(を)る香(か)によそふるよりはほとゝぎす聞(き)かばやおなじ声(こゑ)やしたると

と聞(きこ)えさせたり。 

   ― 167 五月雨に築土(ついじ)くずれし鳥羽殿(とばどの)のいぬゐの池におもだかさきぬ

 『みだれ髪 167』は 、蕪村の句に想を得ているのではないか? とされています。  しかし蕪村の句でさえも『和泉式部日記』 から発想しているのではないでしょうか? 

 通常、(167)の 鳥羽殿とは鳥羽離宮のことで、 ―白河天皇が藤原季綱(すえつな)から献上された山荘の地(鳥羽) に1086年から造営を始め、 鳥羽上皇がこれを引き継ぎ完成させた。 東殿、北殿、南殿の三つの殿舎群と庭園、御堂が一体となった大規模な離宮。 12世紀~14世紀頃まで、代々の上皇により使用された院御所。 鳥羽殿、城南離宮とよばれ、 晶子の歌は、 この離宮だと解されています。      
  去年の年末、伊丹市内の中で引越しをしたのですが、 方位違いの厄除けに
城南宮に御参りをさせて頂きました。 祈祷料にドギマギしましたが、 主人と二人だったにも係わらずお払いをしてもらった後、 庭内の茶室で一服。  庭園 (曲水の宴の庭がある) が素晴らしく、 優雅な半日に大満足でした。  ・・・・この庭園内に晶子のこの歌碑があったのですが・・・・、 私は、 大阪府三島郡島本町の水無瀬宮の方の 「後鳥羽上皇」 が、 この歌の 「鳥羽殿」 だと思います。 

 水無瀬神宮とは、 ― 藤原信成・親成親子が、 承久の乱で隠岐に流され、そこで崩御された後鳥羽上皇の離宮・水無瀬殿の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀ったことに始まる。 1494年(明応3年)に上皇の神霊を迎え、水無瀬宮の神号を奉じたという。 後鳥羽天皇・土御門天皇・順徳天皇を祀る。 

  晶子は、その承久の乱で隠岐に流され、 そこで崩じた後鳥羽上皇を 「鳥羽殿」 と詠んでいるのだと思います。  なぜか? それは、 この歌は、京都の歌会から大阪へ帰る東海道線の汽車の窓から、 水無瀬宮の方向を見て詠まれたと思います。 水無瀬宮は、JR東海道線の山崎駅と島本駅の中間にあり、線路と平行に走る淀川との間にありますが、 その少し上流の大山崎は、 桂川・宇治川・木津川が合流して 大阪を流れる淀川となる水郷の地点 「池」 です。 

 「いぬゐ」乾・戌亥は、 → 北西の方向で、 京都から大阪に向かう東海道線が北東からに南西向って走っていますから、東西南北、正位置に離宮が位置しているとするならば、 丁度、 乾「いぬゐ」の角が線路と接することになります。 私は、水無瀬神宮に行ったことがないので、 良く分からないのですが、 恐らく実際は水無瀬宮は見えないと思います。  しかし、 晶子は水無瀬宮を想定してこの一首を詠んだのだと思います。 (私は、 高校生の時から和歌山と京都間を往復しているのですが、・・・・ 昔は、 この線路沿いに、 水路の中に荘厳な建造物があったように記憶しています。 それが今では、 いつの間にか消え去り、 それがどの場所だったのか確認できません。  現在、 発掘現場の様な箇所があり、 それが水無瀬神宮の一部だったのかどうか? 晶子は、それを「鳥羽殿」と詠んだのでしょうか?)

 晶子は、それをもって「いぬゐ」とし、 崩れた土塀に「おもだか」を咲かすことにより、 隠岐に流された後鳥羽上皇を忍んだのでしょう。  そして、  和泉式部が為尊親王を忍んだ 「築地(ついひじ)のうへの草あをやかなるも、 人はことに目(め)もとゞめぬを、 あはれとながむるほどに」 を踏み、 (167)が詠まれました。

 歌はそうですが、 さらに重要なことは、『和泉式部日記』 では ― 式部が庭を眺めていた時、 亡き弾正宮為尊親王にお仕えし、 今は弟君の帥宮敦道親王にお仕えする小舎人童が、 宮に言付かった橘の花を持参して表れます。― ・・・・つまり、 晶子にしてみれば、 旧恋人の河井酔茗を懐かしむ気持ち、・・・・ また鉄幹と出合って、 鉄幹を恋し始めた気持ち、 その苦しい余韻が為尊親王を懐かしむ和泉式部に仮し、 ・・・・為尊親王から 弟の帥宮へ傾く恋の変換期、  酔茗をまだ恋していながら、 鉄幹との恋が始まる・・・・、その変換期を、 式部に仮して詠んだのではないでしょうか?

      【167の訳】 五月雨が降り、 土塀が崩れた後鳥羽上皇の離宮の北西の池に、 沢潟が咲いています。 (和泉式部は、為尊親王を忍んで「築地(ついひじ)のうへの草あをやかなるも、 人はことに目(め)もとゞめぬを、 あはれと」眺めていましたが、 私(晶子)も、酔茗を想い、 今また鉄幹を愛しはじめている、 その同じ変換期なのかも知れません。)

 

 

 (五月五日になりぬ)

 「いざたまへ。 こよひばかり。 人もみぬ所あり。 心のどかにものなども聞(きこ)えん」 とて車をさしよせて、 たゞのせにのせ給へば我にもあらでのりぬ。 人もこそきけと思ふ 〃 いけば、 いたう夜(よ)ふけにければ知(し)る人もなし。 やをら人もなき廊(らう)に〔車を〕さしよせておりさせ給(ひ)ぬ。 月もいと明(あ)かければ、 「おりね」 としゐてのたまへば、 あさましきやうにておりぬ。 「さりや。 人もなき所ぞかし。 今よりはかやうにて聞(きこ)えん。 人などのあるお(を)りにやと思へばつゝましう」 などものがたりあはれにし給ひて、 明(あ)けぬれば車(くるま)よせてのせ給(ひ)て、 「御を(お)くりにも参(まい)るべけれど、 明(あ)かくなりるべければ、 ほかにありと人の見(み)んもあいなくなん」 とてとゞませ給(ひ)ぬ。

   ― 105 うながされて汀(みぎは)の闇(やみ)に車おりぬほの紫の反橋(そりはし)の藤(ふぢ)

 この歌は、鉄幹と駆け落ちの京都で待ち合わせをし、 鉄幹が夕方暗くなってやっと現れた後、 そのまま車に乗せられ、「汀(みぎは)の闇(やみ)に車おりぬ」 と、旅館の路地の水路に掛かっている反橋 (入口に掛かっている石橋?) に車(人力車?) を付けて下ろされたことを詠んでいます。  「ほの紫」は、薄紫の藤の花と、 「ほの紫」- 惚の紫・ほの字の紫・仄かに恥らう紫 -情愛を行う場所である旅館の入口に咲く藤の花- を掛けています。  それが、帥に牛車に乗せられて冷泉上皇の院の棟に連れて行かれた和泉式部の気持ち「我にもあらでのりぬ」と合致したのでしょう。  

       【105の訳】(鉄幹に)促されて、 暗闇の中、(旅館の)水路脇に車を降りました。 そこには(石橋の?)反橋が架かり、薄紫の藤の花が咲いていました。 (これからの情愛を思うと、恥ずかしさに顔が火照ります。)

 

   ― 309 舞ぎぬの袂に声をおほひけりここのみ闇の春の廻廊(わたどの)

 こちらも棟に連れ込まれた和泉式部に仮して、 晶子が自身を舞姫となり詠んだものです。 恐らく、 登美子と三人でいた京都、 その旅館で拗ねていた晶子に対して、 鉄幹が機嫌を取ったのやも知れません。

 

 

 女、 道(みち)すがら、 あやしの歩(ありき)や、 人いかにおもはむと思ふ。 あけぼのの御すがたのなべてならず見(み)えつるも、 おもひ出(い)でられて

     〔式〕  よひごとに帰(かへし)はすともいかでなを(ほ)あかつきおきを君にせさせじ

 くるしかりけり」 とあれば

     〔宮〕  あさ露のおくる思ひにくらぶればたゞに帰(かへ)らんよひはまされり

 

   ― 118 母よびてあかつき問ひし君といはれそむくる片頬柳にふれぬ    

 『みだれ髪』初出ですが、 こちらは鉄幹と駆け落ちの約束をして、京都で待ち合わせをする為、 朝早く堺の実家を出発した時のものであり、 歌の詠としては後から挿入されたものでしょう。

 「よびて」は、 晶子が母を「呼んで」、 と 母が晶子を「あかつき問ひし君」と(呼んで)言って、 の掛詞です。 「あかつき問ひし」は、上記『和泉式部日記』 の 「あかつきおき」 です。 晶子は鉄幹の待つ京都に「暁 ・ 起き」 をして、堺の実家を出発するのですが、 夜も明けぬ内から起き出して、母に 「行って来ます」と告げます。 その時の母に言われた言葉 「あかつき問ひし君」 に拗ねてみせた片頬に柳の枝が触れるというものですが、 くすぐったい様な、 恥ずかしい様な、 なんとも捕らえがたい表情が詠み込まれています。 

       【118の訳】 (鉄幹と駆け落ちをする為、 待ち合わせの京都に出発する朝)、母に「行って来ます」と呼ぶと、 「あかつき問ひし君」 とからかわれ、 拗ねて顔を背けた拍子に、 柳の枝が片頬に触れました。

 

 

 (かくて、のちも猶ま遠(どを(ほ))なり)

 宮も〔家の内へ〕のぼりなむとおぼしたり。 さんざいのをかしきなかに歩(あり)かせ給(ひ)て、 「人は草葉の露なれや」などの給(ふ)。 いとなまめかし。 近(ちか)うよらせ給(ひ)て、 〔宮〕「こよひはまかりなむよ。 誰(たれ)にしのびつるぞと見(み)あらはさんとてなん。 あすは物忌(ものいみ)と言(い)ひつれば、 〔自宅に〕なからむもあやしと思(ひ)てなん」 とて帰らせたまへば

     「人は草葉の露なれや」 ; 「わが思ふ人は草葉の露なれやかくれば袖のまづしをるらむ」(拾遺集十二.恋二・読人知らず)の第二・三句をとる。 -わが恋人は草葉の露だからか。 露で袖が濡れるように、 恋人に思いをかけると、 わが袖は涙に濡れてしまう。-

 (5月5日になりぬ)

   昼(ひる)つかた、 川の水まさりたりとて人人見(み)る。 宮も御覧(らむ)じて、 「たゞ今いかゞ。 水見(み)になむいきはべる 

     〔宮〕 おほ水の岸(きし)つきたるにくらぶれどふかき心(こヽろ)はわれぞまされる

さは知(し)りたまへりや」 とあり。 御返 

     〔式〕 今(いま)はよもきしもせじかしおほ水のふかき心は川と見(み)せつゝ

かひなくなん」 と聞(きこ)えさせたり。

   ― 163 藻の花のしろきを摘むと山みづに文がら濡(ひ)ぢぬうすものの袖

 上記の(167)と同時期の詠であり、 鉄幹を恋しはじめた頃の作です。  「文がら」 の内容は分かりませんし、対象が酔茗か鉄幹か?  さえもはっきりしません。  『和泉式部日記』 は、「涙に濡れた袖」 がキーワードとなり、 数々の歌に表れていますが、 全て、 「恋人に思いをかけると、 わが袖は涙に濡れてしまう」 でありますから、 (163) もそれを踏んで 「山みづに文がら濡(ひ)ぢぬうすものの袖」 と袖が濡れたのでしょう。 

 ただ、「文がら・文殻=読んでしまっていらなくなった手紙」という言い方や、 集中(167)の前に位置していること等から、 酔茗からの手紙かも知れません。 私が気になるのは、『和泉式部日記』の賀茂川の水が溢れた時の帥宮と式部の問答です。 (163)の「山みづ」は、 山に雨が降って小川が増水したことでしょうから、 賀茂川の増水に通じています。 

 「岸に溢れた賀茂川の水の深さよりも、 私の愛情の方がずっと勝っています。」 という宮の歌に対して、 式部は、『古今集』の歌ー 「思へども人目つつみの高ければかはと見ながらえこそ渡らね」 ; 思ってはいるが、人目を慎む堤が高いので、これくらいはただの川に過ぎないと見ながらも、渡ってそちらに行くことができません。ー  を踏み、 「今となってはよもや、 あなたは岸ならぬ、私のもとに「来し」たりはなさらないでしょう、 深いお気持ちをおほ水の川 「かは(これくらい)」 のようだと見せてはいらっしゃいますが・・・・、 甲斐がありません。」と暗々裏に詠み込んでいると思われます。 

  つまり、 晶子の「山みづ」に濡れた「文がら」は、 『古今集』を踏み、式部の歌「今はよもきしもせじかしおほ水のふかき心は川と見せつゝ」 を踏んで、酔茗の愛は「愛情が深いように見せて、 決して私の元にいらっしゃらないでしょう」 という意図のもとに詠まれているのです。

      【163の訳】 山水に増水した川の白い藻の花を摘むと、 夏衣の袖に忍ばせた手紙を水に濡らしてしましました。 (その手紙は、河井酔茗からの手紙で、 彼は私に深い愛情を見せながらも、 決して私の元には帰って来ないでしょう。  -酔茗は、明治33年5月、上京する- )

 

  

 (かゝるほどに八月にもなりぬれば)

   〔式〕  あふみぢは忘(わす)れぬめりと見(み)しものを関(せき)うち越(こ)えて問(と)ふ人や誰(たれ)

 いつかとの給はせたるは。 おぼろげに思(ひ)給へ入(い)りにしかも。

     〔式〕  山ながらうきはたつとも都(みやこ)へはいつかうち出(で)の浜(はま)は見るべき

 と聞(きこ)えたれば、 「くるしくともゆけ」とて、 〔宮〕「問(と)ふ人とか。 あさましの御もの言(い)ひや。

     〔宮〕  たづねゆくあふさか山のかひもなくおぼめくばかり忘(わす)るべしやは

 まことや 

   ― 369 みかへりのそれはた更につらかりき闇におぼめく山吹垣根

  (369)の初出は『みだれ髪』でありますから、 晶子が上京後の作であり、 (172)「憎からぬねたみもつ子とききし子の垣の山吹歌うて過ぎぬ」の歌と連動していると考えて良いでしょう。  この山吹垣根は、鉄幹の妻・林滝野の家であることは承知の通りですが・・・・、 私は『和泉式部日記』の 「たづねゆくあふさか山のかひもなくおぼめくばかり忘(わす)るべしやは」 を踏んでいると思います。 

  たづね行くあふ坂山のかひもなくおぼめくばかり忘るべしや ; あなたに逢おうと逢坂山を越えて訪ねて行った甲斐もなく、 私が誰だか分からない程(知らばくれて)、 お忘れになったのでしょうか?

  言い換えれば、 「訪ね行く上京の甲斐もなく、 おぼめくばかり忘るべしやは」 であり、 晶子は鉄幹に請われて上京したにも関わらず、 上京した当時は、 鉄幹にも新詩社の人々にも持て余されていたと言われていますから、 滝野の家の山吹垣根を歌いながらも、 暗々裏には上京した後の晶子の立場、 また鉄幹へ「私をお忘れですか」 と問うているのだと思います。 

       【369の訳】 振り返って見ると、 山吹垣根の影から誰かがこちらを窺っているらしく、 それは更に辛いです。 (鉄幹と愛し合って上京した私ですが、 私が誰だか分からない程、 お忘れになったのでしょうか?)

 

  【思うこと】

  「山ながらうきはたつとも都(みやこ)へはいつかうち出(で)の浜(はま)は見るべき」の訳ですが、

 通常の訳は、「山にいるままで、 辛い(憂き)ことがあろうとも、 都へは何時の日か、 (山を下りて)琵琶湖半の打出の浜に打ち出て見ることがありましょう。」 というものであり・・・・、 石山に居るのが辛いという解釈ですが、 何か違うような気がします。 

 「うきは」を、上手く訳せないというか、 殆ど語彙が分からない状態ですが、 一つの言葉で、 「うわさ話」 「浮いた噂話」 等を指し示す語だと思います。 「山ながら」=山に居ながら、都から聞こえて来る、の意。   つまり、 訳としては、 「山に居ながら、都から伝え聞こえて来る(式部の浮ついた話)が立っていようとも、 いつか(山を下りて)琵琶湖半の打出の浜に打ち出て見ることがありましょう。」 だと思いますが、如何でしょうか??

   

 

             『和泉式部日記』について思うこと

   

   (かくて、のちも猶ま遠(どを(ほ))なり)

   〔式〕 こゝろみに雨もふらなんやどすぎて空(そら)行(く)月のかげやとまると

 人の言(い)ふほどよりもこめきてあはれにおぼさる。 「あが君や」とてしばしのぼらせ給(ひ)て、出(い)でさせ給(ふ)とて


    〔宮〕 あぢきなく雲ゐの月にさそはれてかげこそ出(い)づれ心(こヽろ)やはゆく

  とて返らせ給(ひ)ぬるのち、ありつる御文(ふみ)見れば


    〔宮〕 我ゆへ(ゑ)に月をながむと告(つ)げつればまことかと見に出(い)でて来(き)にけり


 とぞある。 なを(ほ)いとをかしうもおはしけるかな、 いかで、 いとあやしきものに聞(きこ)しめしたるを、 きこしめしなを(ほ)されにしがなと思ふ。

 

  【通常の訳】  

   「あぢきなく雲居の月にさそはれて影こそ出づれ心やはゆく」 → 残念なことに雲に懸かる月に誘われて私の影も帰りますが、私の心はどこにも行きません。  「心やは行く」 と解釈。

  「我ゆゑに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり」 → 私ゆえに物思いにふけって月を眺めていると告げたので、〔私の影が〕「誠か」と思って見に出てきました。     *校注(『日本古典文学大系』による) - 式部の歌で、 宮のことを「月のかげ」と詠んだので、 宮は、をれを承けて返歌とした。 「かげ」は「心」に対するものだから、「肉体」となる。 「かげ」は、「月」の縁語。

    

  疑問  

  私は始め、『和泉式部日記』の原文(所謂 定本)を読んでいて、 何と無く変だなと思ったのですが、そのまま通り過ぎていました。  杉篁庵さんの口語訳を拝見して・・・・、

 {『和泉式部日記』 を検索していたら、『杉篁庵』 さんのページに到達しました。  口語訳、お蔭で全体像が把握出来、 非常に助かりました。 有難うございます。  国語の先生をしていたと書かれてましたが、 知識が豊富でいらして、 何より高雅で、 画像も綺麗で、  スゴイの一言です。  行徳寺町にも行ってみたくなりました。} 

 ・・・・ああ、ここは違っているな、 と気付きました。  杉篁庵さんが  ― 「なほいとをかしうもおはしけるかな」 を、 ― 式部は、「やはり宮は本当に風流でいらっしゃる。」 ― と訳して下さったからです。 

  ・・・・ そう 「宮は風流でいらっしゃる」?  ということは?  宮の歌 「まことかと見にでて来にけり」 は、影なのか? 影が出て来た  ならば、 月が出ると影が映るのであって、 普通ですよね。  風流とは、もう一歩踏み込んで、 月が 「まことかと見に出て来にけり」 ではないでしょうか? ここではじめて風流だと言えるのではないでしょうか?    

  ・・・・つまり・・・・その前の宮の歌 「あぢきなく雲ゐの月にさそはれて影こそ出づれ心やはゆく」 の解釈 から違っていると思います。  「心やは行く」 ではないのです。  「心やはゆく = 心・和(やは)ゆく」 = 「心が穏やかになるように」 です。  宮は、 雲に隠れた月に便乗して、 式部邸を出るのですが、 それが心苦しく、 「影こそ出づれ」 と宮の影が月影に映えて出てほしい、「心が穏やかになる様に」 と願うのです。  この様に理解すると、 「我ゆゑに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり」 の解釈も違ってきます。  「我ゆゑに」 とは? 「雲居の月 ― 雲に隠れた月に便乗して、 目立たないように式部邸を出て来てしまった私だから」 です。 そんな私だから、 「月を眺めています」 と月に告げれば、 「誠か?  と月が雲間から (宮を) 見に出て来た」 のです。 そして、ここではじめて影が出てくる。 これが、 風流 「なほいとをかしうもおはしけるかな」 ということではないでしょうか。 

   【帥宮の歌の訳】
 

    「あぢきなく雲ゐの月にさそはれてかげこそ出づれ心やはゆく」

       【訳】 つまらないことに、 雲に隠れた月が引き金となって(式部邸を出ましたが)、 心が穏やかになるように、 せめて私の影だけでも出てほしい。 (こそこそ帰るのは、 気が引けます。)

 
 
    「我ゆゑに月をながむと告げつればまことかと見に出でて来にけり」

       【訳】 (月影が出ない内に帰って来た)私だから、 「月を眺めています」 と月に告げれば、 「誠か」 と月が私を見に出て来ました。

 

 

 (なにたのもしきことならねど)

    〔宮〕 ほどしらぬいのちばかりぞさだめなきちぎりてかはすすみよしの松  

   

  (校注―『日本古典文学大系』(岩波書店より)― いつまで生きるかわからぬ命だけは定めないもの、(しかし)約束をかわしたことばは永遠ですよ。 ―  (補注) 「すみよしの松」 は 「われ見ても久しくなりぬすみのえの岸の姫松いく代経ぬらむ」(古今集十七・雑上・詠人知らず)を踏まえている。 「永遠に変りないこと」にたとえる。 「ちぎりてかはす」は、 「松」の縁語として、 「枝をかはす」の意味をかける。 

  「すみよしの松」は、 通常、上記の古今和歌集の住之江の岸の姫松を踏んでいるとされています。 しかし私は「すみよしの松」とは、「住の江の松」とは云っていないこともあり、 神戸市東灘区・ 本住吉神社の松だと思います。  今の本住吉神社よりもう少し浜側にあったようですが、 入口には、 交差した松が植えられており、 その松の「×」の絵画図を見た憶があります。 「かはす」とは、 松の交差した状態を言うのでしょう。 

 「×」とは何か? 中々難しい問題ですが・・・・、 出雲荒神谷遺跡から銅鐸6個・銅矛16本・銅剣358本 が出土しましたが、 私は、その銅矛だったか銅剣だったかに彫られていた「×」と同じだと思います。  「×」とは、相対界と絶対界が交差する、 という意味を持っているのだと思われます。 出雲は冥界への入口、 日本国の絶対界の入口なのです。 絶対界を通り抜けて、 もの皆すべて新しく生れます。 相対が生れるのです。 本住吉神社の北西には、 銅鐸14個・銅戈7本が出土した神戸市灘区・桜ヶ丘遺跡があり、 何と、 その桜ヶ丘を基点として、 神戸市東灘区の本住吉神社と 大阪市住吉区・住之江の住吉大社が同じ線上に位置していると思われます。 そして、住吉大社の方は、奈良と大阪の境の二上山(山と山の間から太陽が昇る)との線上にありますから、つまり、 大阪湾・血沼の海の相対が生れるその位置にあります。  東灘の本住吉神社は、 「×」の位置、 絶対界に飲み込まれる、絶対界と相対界の交差する地点を象徴しているのではないでしょうか?  それが、本住吉神社入口の交差の松だと思います。 恐らく、 主に生田神社がその役目を負っていたと思われるのですが・・・・、 銅鐸やこれらについては、 いつか述べたいと思っています。・・・・今は、・・・・心身共に弱っているかなぁ・・・・ 先ずは、 『みだれ髪順接全訳』 を目指します。

 ということで、 「すみよしの松」は、「神戸東灘の本住吉神社の松」・交差の松であって、 「ちぎりてかはすすみよしの松」とは、死後も一緒にいようね、という約束。 死んでも変わらない愛を契る。 などの意図があると思います。 

    【帥宮の歌の訳】 命の程は知りようがなく、こればかりは定められないですが、 本住吉神社の松が交差しているように、 私達が死んでもこの愛を貫きましょうね。 約束ですよ。

 

          - 本文は全て 『日本文学大系 20』(岩波書店 初版昭和32年発行)に従いました -