1ヶ月ほど前のこと。
夜中に電話が鳴ったので、ひょっとして良くない知らせなのでは…と思ったら、案の定、大阪の友人から。
我々が若い頃、大変お世話になった方が亡くなったとのことだった。
私たち夫婦の結婚式にもわざわざ新幹線でかけつけてくださったのだが、残念なことに、その後お会いする機会がなく、そのままになってしまった。
その方はK先生という。
私が初めてお会いしたときはすでに60を過ぎておられたが、自宅で中高生に英語を教えておられた。
彼女は生涯独身を通し、訳あって、親戚のお嬢さんを育てられていたようだ。
小柄で細い方だったが、いつもしゃんとしていて、他人に頼ることなく、自立した生き方をされていたように思う。
アメリカに親戚やお友達があったようで、よく旅行をされていた。
教会に新しい女性宣教師が来たりすると、流ちょうな英語で温かく迎え、あちこちを案内して回ったり、自宅に泊めたりして、よくお世話をされた。
K先生のご自宅は、ひとり暮らしにしては大変広い、立派なお屋敷で、1階の和室を茶道教室のために提供したりもされていた。
家の裏に木造2階建ての小さな建物があり、各部屋には大きな黒板がついていて、そこで英語教室を開いておられた。
毎日夕方になると、近所の子供たちが英語を習いにやってくる。
「塾」と呼ばれていたが、今の塾とは違い、素朴で寺子屋のような感じだった。
生徒を能力別に分けることもなく、ひとつのクラスに、できる子も、できない子も、いろんな子が混在していた。
けれど、その中から、国立大学に進んだ子もいたのだから、たいしたものだ。
先生は、安い指導料で、良心的に教えられていたように思う。
先生は塾の宣伝は一切しない。
チラシもまかない。
それでも、毎年、不思議と新しい生徒が入ってきて、先生の生活は支えられていたようだ。
「宣伝なんかしなくても、必要なものは、神さまがちゃんと備えてくださるんですよ」
と言われていたのを思い出す。
私は大学1年の終わり頃、K先生の通っている教会に行き始めたように記憶している。
私が教育学部の学生だったので、先生から、塾で英語を教えてみないかと声をかけられた。
そして、たぶんそこから4~5年の間、先生にお世話になった。
塾が始まる時間より少し早めに着くと、先生はいつも私を母屋に呼んで、お菓子とお茶を出してくださった。
先生には、温かく人をもてなす才能があったと思う。
とても上品で、どこか欧米の雰囲気を感じさせるお人柄だった。
91歳で亡くなられたとのことで、長生きできて良かったと思う。
ただ、最後の数年は老人ホームで過ごされたようで、身寄りのない先生は、お寂しかったのでは…とも思う。
ちょっとくらい無理してでも、会いに行けばよかったかな。
でもまたいつか、天国で会えるのを楽しみにして、私は先生のことを思い出しながら、もう少しがんばろうと思います。
夜中に電話が鳴ったので、ひょっとして良くない知らせなのでは…と思ったら、案の定、大阪の友人から。
我々が若い頃、大変お世話になった方が亡くなったとのことだった。
私たち夫婦の結婚式にもわざわざ新幹線でかけつけてくださったのだが、残念なことに、その後お会いする機会がなく、そのままになってしまった。
その方はK先生という。
私が初めてお会いしたときはすでに60を過ぎておられたが、自宅で中高生に英語を教えておられた。
彼女は生涯独身を通し、訳あって、親戚のお嬢さんを育てられていたようだ。
小柄で細い方だったが、いつもしゃんとしていて、他人に頼ることなく、自立した生き方をされていたように思う。
アメリカに親戚やお友達があったようで、よく旅行をされていた。
教会に新しい女性宣教師が来たりすると、流ちょうな英語で温かく迎え、あちこちを案内して回ったり、自宅に泊めたりして、よくお世話をされた。
K先生のご自宅は、ひとり暮らしにしては大変広い、立派なお屋敷で、1階の和室を茶道教室のために提供したりもされていた。
家の裏に木造2階建ての小さな建物があり、各部屋には大きな黒板がついていて、そこで英語教室を開いておられた。
毎日夕方になると、近所の子供たちが英語を習いにやってくる。
「塾」と呼ばれていたが、今の塾とは違い、素朴で寺子屋のような感じだった。
生徒を能力別に分けることもなく、ひとつのクラスに、できる子も、できない子も、いろんな子が混在していた。
けれど、その中から、国立大学に進んだ子もいたのだから、たいしたものだ。
先生は、安い指導料で、良心的に教えられていたように思う。
先生は塾の宣伝は一切しない。
チラシもまかない。
それでも、毎年、不思議と新しい生徒が入ってきて、先生の生活は支えられていたようだ。
「宣伝なんかしなくても、必要なものは、神さまがちゃんと備えてくださるんですよ」
と言われていたのを思い出す。
私は大学1年の終わり頃、K先生の通っている教会に行き始めたように記憶している。
私が教育学部の学生だったので、先生から、塾で英語を教えてみないかと声をかけられた。
そして、たぶんそこから4~5年の間、先生にお世話になった。
塾が始まる時間より少し早めに着くと、先生はいつも私を母屋に呼んで、お菓子とお茶を出してくださった。
先生には、温かく人をもてなす才能があったと思う。
とても上品で、どこか欧米の雰囲気を感じさせるお人柄だった。
91歳で亡くなられたとのことで、長生きできて良かったと思う。
ただ、最後の数年は老人ホームで過ごされたようで、身寄りのない先生は、お寂しかったのでは…とも思う。
ちょっとくらい無理してでも、会いに行けばよかったかな。
でもまたいつか、天国で会えるのを楽しみにして、私は先生のことを思い出しながら、もう少しがんばろうと思います。