その歌碑は物部川への急坂を下ったところにあります。
急坂の入り口に「通行不可」

「通行不可」は、旧神賀橋が撤去され対岸に行けませんよと解釈しました。
歌碑マップには川に下る道が破線で示されています。

黄色の矢印がそれです。
なお、地図には「木が生い茂った急な坂の為、降りていくのは危険です」とも書いてあります。
勇が渓鬼荘への行き帰りで難儀したという道を実際に歩いてみたくて川に降りていきました。もちろん、身の危険を感じたら引き返します。
この道を降りていきます。

庚申さま?

川が見えました。

石垣

橋を渡ったところにあったという一軒家の跡かも知れません。
そして歌碑③と地蔵さま(「見渡し地蔵」)


寂しければ或る日は酔ひて道の邊の石の地蔵に酒たてまつる
見渡し地蔵?

エプロンも帽子も新しいので、どなたかが大切にお祀りされているのでしょう。
「見渡し地蔵」についての記述が勇の随筆「猪野々行き」にあります。
「神賀橋といふ大きな吊橋を渡るのだが、渡り切った橋の袂のところには、まだ橋の架からなかった時分からある『見渡し地蔵』といふ石地蔵が、色の褪せた赤い涎掛けを懸けた姿で、先づ私を迎へて呉れた」
私はてっきりこれが勇のいうところの「見渡し地蔵」と思ったのですが、この旅の後、西村時衛氏の「吉井勇の土佐」を読んだら、この地蔵は後年約100m上流のところから移されたものだと書いてありました。
「新・見渡し地蔵」と言うことでしょうか、いずれにしても大切にお祀りしてありました、
昭和10年に「神賀橋という大きな吊り橋」が架けられ、それまでのように鎖渡しの繰り船で物部川を渡ることはなくなりましたが、猪野々へは依然として急な坂道を登っていかなければなりませんでした。その苦労も「猪野々行き」には書かれています。
「そこからはまた向ふ岸よりも、更に峻しい石高路で…略… 更にまた坂を登って往くと、小さな瀑の落ちてゐるところがあって、丁度それを見るのにいいやうな位置の樹蔭に、以前よく腰掛けたことのある石があった。今日もそこに腰を下ろして、汗など拭いて休んでゐると、耳に入って来るものは、媚びるやうな山羊の声や水車小屋からひびいて来る単調極まる杵の音や、すべて以前聴き覚えのある懐しいもの音ばかりである。
この坂を登りきったところが猪野々部落で、そのはづれの断崖の上に、私かはじめてこの山峡を訪れた時に泊った鉱泉宿があり…」
神賀橋の跡

対岸にも

新神賀橋の影が物部川に架かっています。
ここから猪野々への急な坂を登っていきます。
「猪野々行き」に書かれていた家はなくなっていましたが、道はそのままのようです。



滝もありました。

登りきった所

木立の中が明法寺で、石垣に沿って右に少し行ったところが鉱泉宿跡です。

鉱泉宿跡

川からの急坂を上るという「猪野々行き」の追体験ができたこと
猪野々の自然を五感で感じられたこと
そして全ての歌碑を廻れたことなど
充実した「猪野々 吉井勇の歌碑巡り」となりました。