見出し画像

まんやま独歩

霧越越への憧憬③ 「九州縦断サイクリング」

霧立越
「キッタチゴシ」の名前を初めて聞いたのはワンゲル時代です。
合宿で「九州縦断サイクリング」をした同期から、「キッタチゴシは大変だった」という話を聞いていました。同期のT達は自転車で、佐賀から鹿児島まで九州を南下しながら途中の山に登るという合宿を1980年に行いました。


「何で今頃?」ですが、秋本治さんの本を読んでからというもの、霧立への関心が急に高まり、いろいろな資料を調べています。霧立の登山道整備が行われたのが1995年ですが、それ以前の霧立のことが知りたくて調べていたら、霧立を舞台にした活動が私がいたワンゲルの合宿にあったのでした。


さて、同期の「九州縦断サイクリング」についてですが、その紀行文を合宿のPLだったT氏が部誌「木霊7号」に寄せていました。

霧立の部分だけ抜き出すと

「(1980年)3/19~3/23
 矢部町から南下して内大臣峡から九州で最も高い椎矢峠へ向かう。内大臣林道も椎葉林道ももちろん舗装はしてない。19日はまだ雪の残っている内大臣林道を椎矢峠を目指して、星とお話ししながら9時頃まで自転車を押し上げたが椎矢峠に着く直前でサイト。
 翌日、翌々日は予定変更。登山道も荒れはてていて、ルートを見失いそうだったので断念!椎葉林道を下って上椎葉の部落に着く。ここ上椎葉は『ひえつき節』のふるさとで、九州の秘境だった。」

椎矢峠(1420m)は、車で行ける峠としては九州で一番高いところにありますが、そこに自転車でたどり着くのがいかに大変だったかを「星とお話ししながら自転車を押し上げた」とユーモラスに表現してます。しかし、夜の9時近くまで頑張ったが遂に峠にはたどり着けなかった、と無念さも。

私が一番知りたかったのは、その後の行程でした。
「翌日、翌々日は予定変更」
さらに、「登山道も荒れはてていて、ルートを見失いそうだったので断念!」とあります。
そのことを具体的に知りたくてT氏に尋ねたのですが、40年以上も前のことで詳しくは覚えていないと言うことでした。

この合宿のSLだったI氏が当時の計画書を持っていたので写メで送ってもらいました。




6(3/20) 霧立越山地
7(3/21) 向霧立越山地

となっています。

ここからは私の想像ですが、椎矢峠まで達した彼らは、翌日(3/20)に「霧立越山地」方面なので、峠から三方山、向坂山を目指そうとしていたのではなかろうかと思います。ワンゲル現役の彼らなら、ましてやキスなしの空荷だったので、さらに足を伸ばして白岩山までの往復も可能だったはずです。ただし、道があればの話ですが「登山道も荒れはてていて、ルートを見失いそうだった」ので断念したと、紀行文には記されています。

三方山~向坂山の登山道整備がなされたのは1995年で、そのときの様子は「スズタケが生い茂り、一般登山者が歩ける状況ではなかった。手にはナタ、カマ、のこぎり。時にはテントを抱え、泊まりがけで作業した」と、「季刊のぼろVol.38」九州脊梁特集の「手つかずの山道を切り開いた男たち」に書かれています。

さらに翌々日(3/21)は「向霧立越山地」方面の予定だったので、林道を南下し雷坂から脊梁山地最高峰の国見岳を目指そうとしていたのではなかろうかと思います。食糧計画でも、この両日の昼がレーションになっていることがそのことを裏付けています。

【食糧計画】


霧立・向霧立の山は道に阻まれ登れなかったものの、秘境を走る九州横断林道(内大臣林道、椎葉林道)を自転車で越えたのは、その昔の、脊梁の尾根道を牛馬に荷を積んで越えていたという霧立越に匹敵する、あるいはそれ以上の難行苦行だったと想像します。

1976年の先輩方の冬合宿「霧立・向霧立」といい、1980年の「九州縦断サイクリング」といい、若かったとはいえ、凄いことをやっていたのだなと、今更ながら感心させられるとともに、霧立への憧れはますます募るのでした。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「SUWV」カテゴリーもっと見る