咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

綾瀬川に架かる畷(なわて)橋

2015年02月18日 | 日記
2015年02月13日ブログで私は綾瀬川に架かる畷(なわて)橋を歩いたのだが、以前その橋について『大門宿 新綾瀬川の縄手橋』というタイトルのブログを書いた。そのブログは現在消えてしまっているので、まずはそれを書きなおします。

現在の地図に綾瀬川の流路を青で示し、畷橋の位置を赤丸で示す
昭和25年の地図に綾瀬川の流路を青で示す
畷橋の道を赤で示す。綾瀬川に架かる橋は2本ある。
明治の迅速測図に綾瀬川の流路を青で示し、畷橋の道を赤で示す

さいたま市立浦和博物館サイトの特別展「日光御成道」の展示解説シート1に掲載の大門宿麁絵図をみると、貝殻坂から岩槻および越谷に向かう道筋に3本の橋(白矢印)がある。

新編武蔵風土記稿で大門宿の山川の項をみると三つの川について記述がある。綾瀬川、新綾瀬川、伝右川。
大門宿麁絵図に描かれた三つの橋は綾瀬川、新綾瀬川、伝右川の三つの川に架かる橋ではないだろうか。
三つの橋のうち、一番下の橋は伝右川に架かる橋と思われ、上の2本が綾瀬川に架かる橋だと思う。

新編武蔵風土記稿には綾瀬川に出合橋、新綾瀬川に縄手橋があるという。
縄手橋は現在の畷橋だと思う。そうすると真ん中の橋が縄手橋(新綾瀬川)で一番上の橋が出合橋(綾瀬川)ということになるのではないだろうか。

新編武蔵風土記稿によれば新綾瀬川は、
①当所北の方にて綾瀬川を分流し、村内を貫き、南流して巽(東南)の方に至り、又綾瀬川に合流する。
②江戸へ運送のため、延宝年間(1673~1681)に願い出て、開削したものである。
③他村にはかからず、中程に土橋があり、縄手橋と呼ばれる。

新綾瀬川が掘られる前の綾瀬川は、迅速測図に示せばこのような流路だったのではないだろうか。
そして新たに掘られた新綾瀬川というのは紫の部分になるのではないだろうか。
北の方で綾瀬川から分流し、東南で綾瀬川に合流する。中程に縄手橋(赤丸)がある。

江戸との水路交通のために開削されたようであるが、明治13年測量の地図には大門町字畷河岸という地名が載っている。

現在の地図に岩槻区と緑区および川口市との境界線を青で示す
ほとんどが綾瀬川の流路と重なっているのであるが、一部重なっていないところがある。そこを紫で示す
新編武蔵風土記稿の新綾瀬川は現在の綾瀬川になっているのだと思う。

現在の地図を拡大する
昔、赤丸のあたりに綾瀬川に架かる出合橋があったのではないだろうか。

以上が消えてしまったブログ『大門宿 新綾瀬川の縄手橋』の内容である。

先日(2015年02月13日ブログ)私が歩いた畷橋は平成26年3月竣工だから、まもなく一周年である。
2013年の2月にも私は畷橋を岩槻区方面から渡ったのだが、その時は工事中でこのようあった。私は仮橋を渡ったのだった。
空中写真で仮橋を見る。

埼玉県公式ホームページの(水質に関する情報)から(公共用水域の水質測定)を開き、公共用水域の各水質測定地点の概況を見ると測定地点位置図がある。畷橋は水質測定地点の一つになっている。
水質測定地点一覧から畷橋を開くこの橋は一代前の畷橋だと思う。
平成24年度と25年度が欠測なのは架け替え工事のためかも知れない。

埼玉県立図書館サイトの彩の国デジタルアーカイブの写真検索で「畷橋」を検索すると1件ヒットする。
大正時代の写真である。
写真解説には “ 橋の手前左側が旧浦和市、右側が川口市、橋を渡り左側が旧岩槻市、右側が越谷市 ” とある。
畷橋を赤丸で示し周囲の市をみるとこのようである。
大正時代のこの写真は大門側から撮ったと思われる。写真の下に「大字戸塚畷橋」とあるが、昭和52年の地図には戸塚となっている。
2015年02月13日ブログで私は大門側から畷橋を撮った
コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 上尾の旧市役所通り | トップ | 新都心~甚兵衛落し公園~大宮駅 »

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
咲いた万歩のまち歩き 掲載写真について (株式会社ソシアス)
2015-02-18 16:07:37
突然のコメント申し訳ございません。

咲いた万歩のまち歩き 掲載写真について現在制作中のホームページにて使用させていだきたいのですが、一度お話しできませんでしょうか?
可能でしたらメール、電話でお願いしたです。

どうぞよろしくお願いいたします。
返信する
掲載写真について (咲いた万歩)
2015-02-18 21:58:35
さいたま古写真展の写真につきましては、ほとんどが市内の図書館(郷土資料コーナー)にあったものです。私はそれらの写真の使用について、お話できる立場にはありませんので、ご理解をお願いします。
返信する

コメントを投稿